(2021年7月18日)
小堀桂一郎という人物がいる。ドイツ文学者で東京大学名誉教授だそうだが、専門分野の業績についてはよく知らない。世に知られているのは、右翼言論人としてである。ウィキペディアには、「歴史教科書問題などが顕在化した1980年代初頭より歴史認識問題などへの発言を開始し、著名な保守系の論客となる。」と記されている。なるほど、右翼と言わずに保守系か。間違いとは言いにくい。そして、ふーん、論客なんだこの人。
私の印象は、恐ろしくもったいぶった古めかしい文体で無内容なことを断定的に書く人というところ。自分は、こんな虚仮威しの文章を書く人にはなりたくないという、反面教師のおひとりである。
ところで、何を切っ掛けにいつからだったかはもう忘れたが、「産経ニュースメールマガジン」が、私にも毎日配信されている。その7月9日号のコラム「正論」欄に、小堀桂一郎の「政教分離原則の根本的再検討を」という一文が紹介されている。《「孔子廟訴訟」の違憲判決》を機に、「右翼の論客が政教分離原則の根本的再検討を論じる」という触れこみなのだから、興味をそそるではないか。
しかし、これが見かけ倒し。いかにも右翼の文体という、おっそろしく古風な筆致で、内容には何の説得力もない。まず、批判のマナーとして、できるだけ正確に、「小堀論文」を引用して、私の感想を述べておきたい。
《まつりごとの意味は》
この慶事(日本人の宗教心の起源が縄文時代の文明の内にある事を普通教育の教科書【自由社版】が明記したことー澤藤註)の背景には言ふまでもなく近年の考古学的遺跡発掘の包括的且(か)つ精密な学術情報の整理、出土品に対する形態学上の解釈の進歩、人類学の視点からしての形態意味解明の驚くべき成功の実績がある。其等に依(よ)れば、集落の住居址の発掘からは縄文時代人が既に立派な葬送と祖霊崇拝の文化を有してゐた事が判明した。
又、先史時代の物的資料として学界の研究対象となつて以来130年余り、その作因も用途も不明だつた奇怪な形状の土偶が、実は食用植物や漁撈(ぎよろう)の収穫たる魚介類を模して作られた一種の祭具であるとの明快な説明も為(な)された(竹倉史人『土偶を読む』)。
最近の学説の更なる紹介は紙面の制約上できないが、結論のみを言へば、縄文文化は現代の我々と同じ日本人の歴史のうちであり、その時代に我々の先祖は自然の恵みへの感謝と自己の現存在の原因としての祖先の崇拝といふ「宗教」を有してゐた。そこで人々の営む祭(まつり)は現代の祈年祭や新嘗祭(にいなめさい)の前身であつた。
その祭を行ふ祭祀共同体が村落の、そしてその集合が国家の起源であり、成員を世界観の上で統合し、相互に和合せしめる作業がまつりごとであつた。
日本人の宗教心と実生活に於けるその発現様式である祭祀には、以上の如く約5千年の沿革がある。一方西洋近世に於ける国家と教会の覇権争ひの妥協の所産たる政教分離の思想が輸入され、法制に位置を占めた歴史は漸(ようや)く70年余である。此(こ)の事実を念頭に置いて考へてみれば、宗教性の存否を法的に問ふ事の非は自明であらう。
この冗長な文章は「宗教性の存否を法的に問ふ事の非は自明であらう。」という一文に尽きる。舌足らずで分かりにくいこの一文に少し言葉を補えば、「欧米流の政教分離原則にいう宗教性の存否を、伝統的な日本の祭祀を対象に法的に問い、あるいは裁いてはならない」ということ。結局、日本の祭祀を対象として、政教分離原則(憲法20条)という規範で裁くことを否定しているのだ。
その結論は何とか読み取れるのだが、「自明」とまでいうその理由ないし根拠はさっぱり分からない。「祭祀には約5千年の沿革がある。一方政教分離が法制に位置を占めた歴史は漸く70年余(に過ぎない)」これだけが、《理由》としか読みようがない。これは、恐るべき没論理というにとどまらない、恐るべき法の支配への無理解であり、立憲主義への挑戦でもある。さすがに、右翼言論人の論客の論説。
没論理は一見自明である。小堀は、こうも言うのであろうか。
「男女の不平等には日本開闢以来の沿革がある。一方欧米の両性の平等が法制に位置を占めた歴史は漸く70年余に過ぎないから、性による差別を法的に問ふ事の非は自明であらう。」
「身分制の秩序と身分差別は、人類が権力構造をつくって以来の長い々い沿革がある。一方社会の成員の平等を謳った法制の歴史市民革命後の短い歴史しかもたない。それゆえ、身分による差別を法的に問ふ事の非は自明であらう。」
「人類は、発祥以来戦争を重ねてきた。戦争の歴史は人類の歴史といっても過言ではない。一方、国際法が戦争を違法化し、一部の国内法がこれに続いたのは、せいぜい最近100年のことに過ぎない。それゆえ、戦争や戦争犯罪を法的に問ふ事の非は自明であらう。」
法的な規制はこれまで見過ごされてきた慣行や社会的事象を否定するために法制化され、限界的な事例も個別訴訟で判断される。日本国憲法における政教分離原則は、戦前に猖獗を極めた天皇教(=国家神道、天皇とその祖先神を神聖とする信仰とこれを利用した国家の癒着体制)を廃絶するとともに、再び天皇教が復活することを予防する制度的な歯止めである。飽くまで、政教分離は厳格でなくてはならない。
これを小堀は、「祭祀には約5千年の沿革がある。裁判所はその宗教性の有無の判断をしてはならない」というのだ。小堀流では、政教分離原則が骨抜きになってしまう。要するにこの人、日本人の祭祀を憲法で裁かせたくはないのだ。この人の頭の中には、神聖な祭祀こそが日本人の精神の神髄であり、村落共同体と天皇制国家の起源であるという凝り固まった考えがある。この神聖な祭祀を日本国憲法ごときに裁かせてはならないというのだ。
これは明らかに、小堀桂一郎流の、憲法無効宣言であり、憲法破壊宣言である。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.7.18より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=17230
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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