小泉苳三、そして小川太郎のこと

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イチジクの根方に十両?が赤い実をつけていた。後ろにはすでにスイセンの葉が見えていた

 

「岸上大作展」の記事を書いていて、思い出したことがあった。

『血と雨の墓標 評伝岸上大作』の著がある小川太郎は、その出版から2年足らずの2001年8月に59歳で自死してしまった。たぶん、2000年前後のことであったと記憶するのだが、面識のない小川から、突然電話をもらったのである。拙著『短歌と天皇制』の話から始まったのだが、用件は、私が所属している『ポトナム』を1922年に創刊した小泉苳三の件だった。小泉苳三(1894~1956)は、『夕潮』『くさふぢ』『山西戦線(従軍歌集)』の歌集を持ち、敗戦時、立命館大学教授であったが、戦前は、京城の高等女学校や北京師範学校など勤務地を変えながらも、近代短歌史の資料収集に努め、「資料大成」や数多くの論文を発表していた。ところが、1947年の政令62号「教職員の除去、就職禁止及び復職等に関する勅令を改正する政令」、ポツダム宣言受諾による、いわゆる公職追放によって、失職したのである。「戦時下で、翼賛的な短歌を作り、社会的活動もしてきた歌人たちが、誰ひとり、この「追放」になっていないのに、どうして小泉だけが対象になったのかを調べたい、事情を知っているか」という問い合わせだった。かねがね、私も疑問には思っていたが、年譜などを見ても、上記の政令によって「教員不適格者」となったことはわかり、1952年の「教職員の除去、就職禁止に関する政令を廃止する法律」を待たずに、1951年に復職したらしいことしか知らなかった。『ポトナム』には、立命館大学関係者は、多かったのだが、その事情について話されることも書かれることもなかった。
私は、役に立つ情報は持ち合わせていなかったが、当時の『ポトナム』代表が、戦後まもなく入会の同人で、苳三の甥にあたるKさんだったので、断りもなしに、Kさんを紹介してしまった。小川さんから連絡を受けたKさんは、不快な思いをされた由、私は、反省するばかりであった。そして、まもなく小川太郎さんの訃報に接し、苳三の調査は進んでいたのだろうか、私も本気で調べればよかったのかとも思ったが、以降、調べる気力を失っていたのが正直なところだった。
しかし、苳三の最後の著作『近代短歌史 明治篇』(1955年6月)を調べ物で開くたびに、息子を戦死で失い、「追放」されながらも、上記著書を出版した翌年1956年11月に急逝した小泉苳三を、そして小川太郎をも思い起こすのであった。

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ヤマボウシの葉が落ちた後、現れたのが、やはり鳥の巣であった。葉が茂っている間、たぶんヒヨドリが辺りを飛んでいたのを見ていたのだが・・・

初出:「内野光子のブログ」2020.12.13より許可を得て転載

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

〔opinion10361:201213〕