10
上腕に肩を触れてくる千津子を意識しながら彼は銀座の人通りを見ていた。乾いた光と影。一つの奇蹟がつづいて胸をふくらませていた。こんな奇蹟がどこまでつづくのかわからないのだったが、彼はその一瞬に幸運を感じていた。
朝野新聞社の前の数寄屋橋交差点だった。千津子が眩しそうに目をしかめ、通りの向うを見ていた。額や目元に日が当たり、やさしげな眉が光る。信号が変わって人が動き始める。千津子は腕を組まなかったが、彼の動きにふわせ肩を並べて歩く姿がいじらしい。そんな千津子と今ここで一緒にいるのが嘘のようでもあった。
「伯母さんと一緒に来た店というのはこの先の並木通りなんです」
先日、銀座の喫茶店でコーヒーでも飲んで、と言ったのだったが、その後一人りになって思いついたのは、以前何回か伯母に連れて行かれた喫茶店だった。そのことを千津子に話しながら東京駅で、山手線に乗り換えた。
こうして、伯母と一緒にいた頃を思い出してみると、伯母はたいした人物だと今さら気づく。休日になると彼女は度々銀座に買い物に出てくるのだった。しかも診療所専用の運転手つき乗用車だった。そんな時、たまに平崎を誘うことがあった。荷物持ちのためだったが、彼を誘う目的がそれだけでないのはすぐわかる。荷物持ちだけなら運転手一人で用が足りる。しかし平崎がいると、デパートやレストランの駐車場に車を止めた時、運転手に小遣いをやり、時間を決めて別行動をさせる。そして彼女は平崎を銀座の高級レストランやデパートに連れて行く。平崎にはそんな時気づくことがあった。<伯母は俺のような田舎者を一人前の都会人に育てようとしている>と。多分その直感は当たっていただろう。ただ惜しむらくは、あの問題一つでそんな二人が擦れ違うことになる。
「平崎さん東京はどこでも知っておられるんですねえ」
千津子が言う。
「いえ、そんな事はないですけど」
「私、銀座の並木通りがどこにあるのか、映画街がどこにあるのか全然分らないんですよ。名前だけ知ってて」
「学生のころ遊びに来なかったですか?青山大学なら結構この辺に遊びに来るんじゃないですか?」
「お友達と二度ばかり買物に来ことありますけど。でもデパートに寄って、その後少し街を歩いたくらいですから」
「そうですか。僕も食事をするために店を決めて銀座に来ることはめったにないですけどね。ただ以前伯母がねえ、東京に出たばかりの僕に、東京の空気を教えてやろうと思って連れて来てくれたんですよね。その後はそう度々来たわけじゃなんですけど」
二人は並木通りの歩道を歩いた。伯母に連れられてきた喫茶店はこの通りにある。やがて右側に黒いビルが見ええてくる。そしてその壁に「武松」と彫り込んだ小さくて粋な石板が見えてくる。外装だけでなく内装まで黒に統一し、しかも内装はすべて大理石だという。「武松」はめでたい「松竹」でもあって、それにあやかった竹と松が玄関の黒い大理石の前に植えられていた。一見料亭風に見えるのだったが、店の中は意外と開放的で、重厚な雰囲気の中にも、客たちの話し声がザワザワと聞こえる店だった。
一階と二階が和風レストランで三階が喫茶店だった。これもまた黒い螺旋状の階段を昇る。銀座をよく知らないとこの喫茶店は見当たらないものらしい。つまり常連客が多いということだ。そしてそうした店構えにふさわしいといった感じで、店内は無駄ともいえそうな広い間隔を置いて、やはり黒い大理石のテーブルが配置されている。
平崎は三階の窓辺りに千津子を誘った。
「この店の経営者はねえ、ベルリンとニュヨークに同じ名前の日本食レストラン持ってるんですよ」
「あら、そうなんですか。お店の雰囲気が素敵ですねえ」
千津子が感嘆した顔で店を見回す。彼女の白い柔和な顔こそこの店の雰囲気に合っているだろう。平崎は一人思った。
背の高いウエイターが来て注文を取った。コーヒー豆はもちろん、メニューを飾る果物や飲み物もすべて現地直輸入なのを聞いていた、そのことを千津子に知らせ、千津子が好きだと言うヨーグルトの中から珍しそうなブルガリアの山羊のヨーグルトを注文した。そのうえでコーヒーも是非ということで平崎がブラジルのコーヒーを注文した。銀座で本場ブラジルのコーヒーを飲むのは平凡だったが、今は銀座の買い物歩きのように使われる“銀ブラ”という言葉は、本来昭和の初期頃ここでブラジルコーヒーを飲むことを意味した。伯母に聞いたそんな話を千津子にしながら、「僕たちも銀ブラをしましょう」とダジャレを言ったのだった。
「その経営者は変った人でね、両親とも日本人なんだけどその人はドイツで生れて、ドイツで育ったんだって。だから戦争中何回か日本に来ただけで、ほとんど日本のこと知らないんだって。しかも戦後はアメリカに行ってて、やはり日本のこと知らないんだけど、日本食がすごく気に入ってて、ベルリンとニュヨークに日本食の店を造ったんだそうですよ」
これもまた伯母から聞いた話だった。伯母は戦争中に軍事関係機関でドイツ語翻訳の仕事をしていたという。その時期に知り会ったのが武松のオーナーだった。戦後伯母は、ドイツ語と英語が出来ることからアメリカ商社で働いており、ここでもまたその男とのつきあいが続いたらしい。「その人から結婚を申し込まれたこともあるのよ。私その人についてアメリカに行ってしまおうかとよほど考えたんだけど、どっちみち私はいい奥さんになれないからって断わったの」伯母が平崎にそんなおのろけを話した時もあった。
あの時伯母はめずらしく自分のことを話した。「私はずっと、自分が男だと思って生きて来たの。めそめそするの嫌だから、男のように勇々しく生きてやろうと思って来たの」そんな話しをしたのもこの店に来た時だった。<あのような話しの時、伯母が俺を励ましていると思っていた。しかし、もしかすると伯母は、俺に自分のことを理解させようとしたのかも知れない>平崎は今になって思う。
伯母が一度結婚して失敗した相手の男は桐生市の織物会社の息子で、一橋大学にいた。伯母は東京女子大にいて、学生のころから同棲していたらしい。学校を卒業するとすぐ結婚したという。この話しを伯母の口から聞いたことはなかったが、津沢の家ではよく噂話しになったものだ。そうした噂話しによると、伯母が妊娠した時男が子供を堕すようせまったという。伯母は最初拒絶したのだったが、抗しきれずに男の意見に従った。しかしその後、男が子供を堕すようせまった真意が伯母にわかった。
伯母と男が東京で同棲生活している間に、桐生市の男の親が伯母の身元を調べあげていた。そして同棲はともかく、結婚は絶対許さないと男に言い渡していたらしい。ところが伯母と男は同棲時代から結婚を約束しており、二人でこっそりと婚姻届けを出したのだった。これを知った男の親が激怒し、子供は絶対産まないという条件をつけることによって、男の勘当だけは避けていた。この時の男と親の約束は伯母にひたすら隠されたのだったが、堕胎後、次ぎの子供を産むかどうか話し合っている時、男がその約束を伯母に告白し、土下座したのだったが、伯母はそれで男を見切った。
こんな話しを子供の頃から聞いているため、伯母の性格や生き方に同情出来るところがたくさんあった。とはいえ、そうした伯母の経験をもって自分の人生を決めることは出来ない。自分は何もしないのに、叔母と同じ立ち位置に身を置いて、同じ言葉を使うことは出来ない。平崎はそう思った。
「平崎さんも御存じの方なんですか?」
「いえ。僕はまったく知らないんです。戦争中から敗戦直後の事ですから。この店もその伯母さんに連れてきてもらったんですよ。僕の伯母はねえ、日暮里の近くで病院を経営してるんですよ。病院というよりも小さな診療所なんですけどね。だからいろんな人を知ってるんです。いや、そうだから知ってるというのではなくて、若い頃からいろんな人を知っててね、そんな人の協力で診療所を経営してるんです」
「女の人でしょう」
「ええ」
「立派な方なんですねえ」
「僕の伯母のことはあなたは全く知らないわけですよね」
「ええ。始めてお聞きしました」
「伯父があなたの近くにいるものですから、僕の親戚の事はなんでも知ってるような錯覚に落ちちゃうんですよ。でも伯母はねえ、伯父とはまったく違って、社会的な活動をするんですよ。上昇意識も強くて。そういえば、あなたにも一度会ってもらいたいなぁ」
「……」
頚を傾げて聞いていた千津子がちょっと目を伏せた。その顔にかすかな羞恥が走ったようで、彼は心で満足した。そして彼は<これはいい思い付きだ>と考える。
先にヨーグルトが運ばれてきた。
伯母が千津子を気に入るのは間違いないだろう。平崎は確信があった。伯母が好きな雰囲気をもつ女なのだ。そのうえ伯母が彼の意を汲んで、二人を良い方へ良い方へ進めてくれると思った。伯母には元々そうした暖かい心が感じられるし、千津子を喜ばす術も充分知っているだろう。千津子の近くにいる修平だけが親戚だと思われるよりはるかにましというものだ。
「伯母もきっとあなたを好きになると思うな」
彼は“伯母があなたを気に入る”と言うべきところをわざと“好きになる”という言葉を使った。その言葉によって自分の気持ちが少しでも伝わればと思った。
「……」
千津子が柔和な顔で彼を見ていた。
「今度一緒に行きませんか。いや是非行ってもらいたいな。伯母の家に行つてもいいし、診療所に行ってもいいし。土曜日だったら診療所にいても午後から勝手に食事に行ったりするから、ちょうどいいかも知れないし、日曜日は家に行けばいいし…」
「でも、私なんかまだー」
「そんなことないですよ。決して悪い事じゃないです」
「ええもちろん。でも伯母様の方が迷惑じゃないかしら?」
「そんなこと決してないです。喜びますよ。僕の大切な友達として紹介させてもらいたいな。僕の彼女だって紹介させてもらったら最高に嬉しいけどー。伯母も喜びますよ。伯母はねえ、一人で暮らしてるんです。だから人が行って賑わうのが好きなんです」
「お一人なんですか?」
「ええ、若い時から。男のように自分で仕事するのが理想だったと言うんです」
「すごいですねえ。私なんか恥ずかしくてそばに寄れない感じ」
「でもねえ、自分ではバリバリやってますけど周りの者には意外と理解があるんですよ。もしよかったら今度の日曜日にでも行きませんか?」
彼は少し強引な言い方をした。千津子がとまどったように微笑んだ。ためらっているのだろうが、その顔に嫌がる顔色はなかったように思った。
「家は埼玉県の川口市にあって、少し遠いんですけど、ブラブラと散歩のつもりで行きませんか。そうしたらそんなに遠いところじゃないんですよ」
「そうですか。でも、次の日曜日というのではなくて、少し間を置いていただけませんか?私何か恥ずかしくて…」
千津子は糞真面目な顔だった。その顔を見て彼は<独りで気持ちが先走っていたかもしれない>と思いついた。
「恥ずかしいことはまったくないですけど、急な話しになってもおかしいですねぇ。僕が突然思いついたものですから…。でも、いつか会ってもらいたいです。伯父ばかりが親戚じゃないの、知ってもらいたい感じがして…」
千津子は俯き加減だった。そして彼は心の奥にあった心配を気にして、数日前から思っていることを言った。
「急ぐことではないですからね。何か機会があった時、ということでいいですよ。それはそれでいんですけど、出来たらまた今度の日曜日に吉祥寺でコーヒーでもと思うんですけど…。いつも駅の改札口で逢ってばかりじゃ申し訳なくて。吉祥寺でもいいし、あなたが知ってるところあったらそこでいんですけど、今度は二人が知ってる喫茶店を決めておきませんか」
千津子が笑顔でやわらかくうなずいた。
テーブルのヨーグルトの皿が持ち去られ、コーヒーが運ばれていた。
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