小説 「明日の朝」 (その11)

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 小春日和の中、薄茶色のスカートをゆらして歩く千津子は、さっきの糞真面目な表情を忘れ、解放感を楽しんでいるかのようだった。彼女が歩いてみたいと言うので、武松を出た後、二人は外掘通りを八重洲に向かった。銀座から東京駅方面に向かうこの通りは、数寄屋橋交差点を過ぎるとだんだんと人の姿が少なくなり、自動車ばかりが目につく通りだった。しかし、平崎にはそんな通りもまた、晴れ晴れしく、鮮やかな記憶のある通りだった。
 三年前、春先から初夏にかけて、ほとんどの土曜日、この通りは数えきれない人と色とりどりの旗、プラカードなどで埋まっていた。そしてそんな人の中を、まるで大蛇のようにうねって進む一組の集団。新聞やラジオで過激派と言われながらも、この大通りを埋めつくす人々の間では結構人気のあった全学連。平崎はそんな中、いつも明治大学のデモ隊の先頭にいた。鉢巻を捲き、笛を吹き、雨に濡れながらも、全学連特有といわれたジグザグデモをリードしていた。
霞が関の丘の上の国会議事堂前から日比谷公園に下り、数寄屋橋交差点を左に曲がる。そこがこの外堀通りだった。この通りに入ると、これまた慣習のように、労働組合や民間運動体からなる巨大なデモ隊が、隊列を広げ、手を繋いで道いっぱいになって進むフランスデモと言う形をとる。つまりこの道路を民衆が占拠する。国会議事堂の前で行われた、政権政党の不正や専横への抗議の後の帰り道とはいえ、その抗議の意思を基幹道路を占拠して伝えるのだ。このやり方は、議事堂前で大声を上げるよりも何よりも、より効果的ではないか、と平崎は考える。多少迷惑をこうむる人がいるとはいえ、そうした迷惑もまた政権政党の不正や専横が原因と考え、それを共有すれば、今のところこうした方法が一番効果的に思われてならない。そしてそんな平崎には、通りを占拠するデモ隊と、そのデモ隊をさらに鼓舞しようとするジグザグデモが勇ましくもあり、しごく当然でもあり、また何よりも、そうした直接性に参加出来るのが嬉しくて、デモのある度にそこにいた。普段はいかにも遠くに見える国会議事堂の中の、あの厚かましい顔をした政権の連中に自分の意思を届けることが出来る最も有効な方法かも知れない。そして、そんな直接的意思表示が出来るなんていうのは、それまで自分の人生では想像出来ないことだった。
デモ隊は外堀通りを東京駅八重洲口まで行って解散した。平崎が二年生の頃だったが、デモ解散の後、同じ日文科の先輩の一人が数人の仲間とともに平崎をブリジストン美術館に誘ったのだった。東京駅界隈の、おびただしい人と車の喧噪のなかにありながら、そこだけはまったく異なった空気が漂い、異次元の空間に見えたのが印象に残っていた。
ベージュ色のジュウタンとベージュ色の壁に囲まれた不思議な雰囲気のある空洞だった。人の胎内に似ているのではないだろうか。そんなベージュ色の胎内にロダンやマイヨールの彫刻がならんでいた。それらの彫刻はベージュ色の胎内で、生れ出る前に黒く焼け焦げてしまった胎児のようにも見える。 
場内はやたら静だった。彼は息を殺すようにして華麗な色と形の前を歩く。千津子がどんな感想をもつのか気になったが、ここでそれをいちいち話しても仕方ないだろう。ここではむしろ思い切って孤独の中にいるのがよい。
 ピカソの『茄子』という小さな作品と『腕を組んですわるサルタンバンク』という等身大に近い作品が不釣り合いに並ぶ壁の前で彼は立っていた。これらはピカソの初期の作品らしかったが、それでもピカソ独特の世界を感じることが出来た。始めてここに来た時もこの前に随分長い間立っていた。不思議な共感があった。物質的な世界と人間の心が擦れあっているような線。前回期待を持って見たゴッホは、ここでは色褪せているような感じがした。
 ピカソの他に彼はセザンヌの絵が好きだった。冷撤な線と色の透覗力が胸をすっきりさせる。だがこの美術館にあるセザンヌは好きになれなかった。荒々しい実験的な構図ばかりが目立つ感じだった。彼は千津子を残して勝手に歩いた。一回りして退屈したら出口にある喫煙所で千津子を待てばいいだろう。

 2号室に入ってドガの『踊り子の稽古場にて』という絵を見ている時だった。彼はふと自分の脳裏を走るものを感じて画面から目を反らした。ドガが描く踊り子たちの絵には人の孤独があると思う。それは最初ここに来た時から感じていたもので、<冷徹な孤独感ではないだろうか>と考えたのだったが、その時、そうした孤独とはまったく異なった印象が屈折感とともに脳裡を走った。脳裡を走ったのは、高校生の頃、故郷の津沢の古本屋で何回か見ていた岸田劉生の『麗子像』だった。複製だと言うことだったが、高校生の彼にとって複製も原画も同じ価値だった。作者の岸田劉生についてもほとんど知らなかったが『麗子像』に描かれた暗いリアリズムは、そのまま日本人の心に沈んでいるものではないだろうかと思った。そこには歪んだ卑屈なリアリズムがあるだろう。しかもその歪んだ卑屈なリアリズムは自分自身の内面でもあるのを突きつけられるのを感じていたのだったが、ドガの<冷徹な孤独>の前で彼は、対照的な自分の中の『麗子像』を思い出し、うろたえた。<どっちが真実を描いているのだろうか…>。
 彼は隣の部屋を横切って廊下に出た。廊下の椅子に座ると、通路の突き当たりに薄茶色のワンピースを着た千津子の後ろ姿があった。突き当たりの暗い壁のスポットライトにマイヨールの『欲望』というブロンズ像が置かれている。その前で千津子は何を思うのだろうかー。
 やがて彼女が歩き始めた。そして平崎に気づいたようだ。<千津子は『麗子像』を観たことがあるだろうか>
「一通り観ました?」
 平崎が声をかけると、千津子が笑顔を見せた。明るい、やさしげな笑顔だった。
「はい」
「一休みしませんか」
「そうですね。素敵な美術館ですね。八重洲にこんなところがあるなんて思えませんね」
「そうでしょう。この落差がいいですね。ホツとしますよ」
「そうですね」
「マイヨールのブロンズ像の前に立ってたでしょう」
 平崎が聞いた。その時彼は、自分の顔が『麗子像』のように歪んではいないだろうか、と思った。
「ええ」
 千津子が答えた。その声に屈託はなかった。
「どうですか、あれは」
「大胆ですよね」
 千津子が微笑んで言う。裸身の男が裸身の女の腰に手を回し、女を求めている像だった。女は男の欲望に気圧され、逃れるかのように顔を背けているのだったが、その表情はむしろ歓喜を期待しているかのようにも見える。女のふくよかな大股部は男の大腿部に深くからみ二つの像の中心をなす女の豊満な乳房はなを男の欲望を誘っているかに見える。
 平崎はブロンズ像のタイトルになっている『欲望』という言葉を使って千津子に感想を聞いてみようとしたのだったが、その言葉は口に出来なかった。しかし、笑顔とともに返ってきた千津子の返事の中に、タイトルになっていた『欲望』という言葉が微妙にからんでいるだろうと思った。<この女の体に俺が手を回し、その体を求めたら、どのように反応するだろうか>
「東京駅まで行ってコーヒーでも飲みましょうか」
「はい」
 美術館を出て喧噪の中に立つと、<あれは夢の世界だったのか…>とあらためて思い知らされるのだった。<この女の裸に触れる時が来るだろうか…。そこまでこぎつけずにはいられないだろうに…>

 その樹がどこにあるのかわからなかったが、沈丁華の香りが漂う駅前広場を渡って二人は東京駅に入った。千津子は毎日この駅の丸ノ内側の出入口を使って通勤しているはずだった。そのおびただしい人とビルの中にいて、彼女は自分の人生をどのように思い描くのだろうか。そしてそのやわらかい表情と肉体の中で、彼女の魂は何をもとめているだろうかー。
 中央口の二階に小さな喫茶店があるのを知っていた。旅人の時間潰しのためだろうが、意外と落ち着いた店だった。彼は千津子を誘って階段を上がった。店に入ると奥に旅支度をした数人の客がいた。二人は階下が見える窓辺に座った。
「私ね、ロダンの『考える人』の像がいくつもあることずっと知らなかったんですよ。上野の近代美術館にあるものだけかと思って…」
「近代美術館は行きました?」
「ええ、あそこは行ったことあるんですよ。それでね、いつだったか広中さんに『考える人』はあちこちにあるって言われてビックリしたんです」
「伯父さんとそんな話をすることあるんですか?」
「いえ。そんなにお話しする機会はないんですけど、だいぶ前、たまたま大学の図書館で借りた美術全集持って歩いてたんです。その時ちょうど広中さんとお会いして。駅から家まで帰る間にそんなお話し聞いたんです。美術全集の表紙に『考える人』の写真が載ってたからなんですけど、さっき『考える人』見て、やっぱりそうだったんだ、と思って一人で顔を紅くしたんですよ」
マイヨールの『欲望』の少し前にロダンの『考える人』がある。千津子はその前で修平のことを思い出していたのだろう。修平が彼女の近くにいるのをあらためて知って、平崎はうんざりするのだった。
「近代美術館の庭にロダンの『地獄門』という彫刻あるでしょう。あの天辺で考えている人がロダン自身という説があって、その像を大きくして複製をたくさん作ったといいますよ。世界中の美術館にあるそうです」
修平のイメージを払拭したくて彼は知ったかぶりをした。
「そうなんですってね。広中さんにはいろいろなこと教えていただいたんです。落ち着いてゆっくりお話し聞く機会はなんいですけど。道でお会いした時や、庭でひょっこり顔を会わせた時なんかに」
 千津子が真面目な顔で話した。<俺も修平と同じように見られているかも知れない…>彼は思った。<俺は修平とは違う>そのように言いたかったが、千津子が修平に悪い印象を持っていない様子が救いだった。
「そう言えば広中さん、最近文章を発表されたんですか?」
「いや、まだ発表してないと思いますけど。この前話した通り、七、八年前にね、医療機関の業界新聞に短歌が載ったり、評論家がその短歌を評論したりしたことはありますけど」
「昨日も広中さんとお話したんです」
 千津子はまるで手柄話のような言い方をする。
「そうですか」
「会社から帰って洗濯物のかたずけしてたら広中さんが声を掛けて下さって。ケイトウの花をいただいたんですよ。多摩川の土手で見つけたんですって。根の付いたケイトウの花をいただいて庭に植えたんです」
<そう、そういうことを修平はやるのだ。まるで貴族のボンボンのような生活を、四畳半二間の借家にいて、女房を働かせながら平気でする。自分の仕事の努力は何ひとつしないでおいて…>
「その時広中さんおっしゃったんですけど、何か発表さんたようなお話しで…?」
「いえ、発表したというのは聞いてませんよ。何か言ってましたか?」
「ええ。私平崎さんにお聞きしてたもんですから、大変なお仕事されておられるんですねって言ったんです。そしたら、広中さん、そうでもないんですけどっておっしゃって、僕のやってること知りたかったら『創作者』という文芸雑誌見るようにおっしゃったんです。少し前のものだけどどこかにあると思うって」
「少し前って言ってました?」
「ええ」
 <汚いやり口なんだ。破廉恥なやり方なんだ>平崎は一人で思った。
「少し前と言ってもだいぶ前のことですよ。『創作者』という文芸雑誌に、ある歌人が期待する新人として伯父の名前書いたことあるんです。多分その時のことだと思いますよ。他には聞いてませんから」
「……」
 もう四、五年前のことだ。三編の短歌がその雑誌に載り、一人の左翼派歌人がその一句を誉めた。その後修平の文章が何かに載った話は聞いていない。もし自分の文章がどこかに載ったら修平が黙っているわけがないだろう。
「『創作者』という雑誌のことならそのことですよ、きっと。他に僕は見ていないですよ」
「そうですか。一度読んでみたいわ」
「どんなことを書いてるか、伯父さん言ってました?」
「いいえ。そういうことは伺っていません」
「僕も持ってますから見せましょうか?」
短歌が発表された時、修平は『創作者』を何冊も買い取って平崎にも読ませたものだ。
「そうですか。うれしい」
 千津子が言葉に力を入れた。その顔を見て平崎は思いつくものがあった。<この雑誌を見せるとなると、事は修平の仕事だけでなく俺にとっても無視出来ないことになるだろう>
「その雑誌に伯父さんの短歌が三編ほど載ってるんです。そしてその一つをわりと有名な歌人が高く評価しているんです。古くからの左翼系歌人で僕も尊敬している人なんです。佐野田深時という人なんですけどね」
この話しをする以上、修平一人のけちな話にしたくなくて佐野田深時の名を言った。その時、千津子が小さく肯いた気がした。
「佐野田深時のこと知ってます?」
「いえ、知りません」
「たくさん短歌を書いてる人なんですけど、佐野田深時がずっと、日本人の心の問題として重要な課題と主張していることがあるんです」
 千津子が首を傾げていた。
<変なことになった>平崎は思った。<しかし図らずも、いきなり中心に来ている>とも思った。それを話すかどうかためらいはあった。話してよいかどうか。千津子との付き合いは始まったばかりだ。このまま進行するかどうかまだ分からないはずだった。そんなところで、深刻な話は避けた方がよいのではないか。しかも、この話しによって何かが幸運の方に向かった話は今まで聞いたことがない。
しかし、ためらう心の中で、<だからこそやってみなくてはならない…>という思いがあった。自分で何もせずに決めてはならない。そして、千津子との関係がどのように進むにしても、それとこれとは本来関係ないはずなのだ。何事かあっても、なくても、それを思いついた時、まるで道端の小石のように話す、それが俺の理想ではないか…。
「あなたは、部落問題というのを知ってますか?」
 千津子が平崎の問いには応えず、頸を傾げた。
「最近では同和問題ともいいますが…」
 すると千津子が彼を見ながら小さくうなずいた。<知っているのだ>と彼は思った。
「伯父さんにそんなこと聞いたことあります?」
「いえ。でもそのことは聞いたことがあります。大学の時にそのこと話してくださった先生がいました」
「そうですか」
 彼は一息入れたかった。しかし、まだ何も話してはいない。何も話したことにはならないー。
「広中さんもその問題考えておられるんですか?」
「そう」
「偉い方ですねえ」
「偉いとは思いませんが…」
「だって…」
<それをどう言えば良いだろうか。偉いなんていわれると何もわかっていないような気がしてならない>
「偉いですけどね、でもあたりまえと言えばあたりまえなんです」
「……」
<そう、このまま行くしかない。しかも、事はうまく運んでいるではないか>
「その雑誌を読めばわかることですけど、僕も伯父さんもそのように言われる村に生れましたからね。だからその問題をずっと考えているんです。その意味で僕は伯父さんを応援しますけど。でも伯父さんは最近おかしんです。何もせずに威張ってばかりいるんですよ。佐野田深時の支持を得たのをいいことに威張ってるんです。僕はそれが嫌で最近行かないんですけど…。でも応援はしてます」
 彼は喉の乾きを感じてコーヒーカップを傾けた。しかしコーヒーは残っていなかった。<じたばたするな。そんな場面じゃない。ただ教えてやればいい。ここに空になった白いコーヒーカップがあるように>
「変な話しになっちゃったな」
「そんなことありません」
「わかってもらえるといんだけど、また機会を見て、ゆっくり話しましょう。急に話すと少し重い感じがしちゃって…」
 彼はダバコを取り出した。<そう、本当はこれ以上話すことは何もない。これだけ言っておけば、後は千津子が自分で考えればいい>
 千津子がコーヒーカツプを口に運んだ。彼女の表情の中に、先程までと変わったところは見られなかった。<この穏やかなゆっくりした動作。その表情と肉体。その中に俺の言葉が染み込んで行くだろうか?ゆっくり考えてもらえばいい。三百年も四百年も、あるいはもっと長いスタンスの中で造られ固定された日本人の大きな矛盾の中の観念。それが一気に解けるとは思はない。しかしそれは決して解くことが出来ないものではないだろう…>
「このままだと言い残したことがあるような感じがするんですけど、しかし今日はこのくらいにしましょう。」
「……」
千津子が頷く。何か尋ねるだろうかと思ったが彼女は何かを凝視した感じのままだった。平崎は腕時計を見た。時間が気になったのではない。これ以上時間を潰しても無駄なような気がした。<しばらく一人で考える時間が必要なんだよ>彼はそう思う。そして言った。
「行きましょうか」
「ええ」
 彼が店の伝票を掴むと千津子が百円玉数枚を彼の手に渡した。
「いんですよ。気にされなくて」
「ずっと払ってもらってばかりですから」
彼が千津子の手を押し返すと、彼女は平崎のその手を両手で包み百円玉を移すのだった。そんな彼女の両手を引き寄せ、抱き締めたくなるのを彼はこらえた。

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