小説 「明日の朝」 (その4)

聖子の電話を切った後、平崎は椅子に座って一息ついた。電話器の上にある時計の針は九時三十分を回っていた。最初の巡回の時間が迫っていることもあって、叔母に電話するかどうか迷っていた。昨日の礼を言うだけかも知れないし、考えてみると滝沢博子に会えたかどうか、博子がどんな様子だったか、叔母にすると気になるところがありそうだ。しかしそうした伯母の関心の背景に変に反れたものがありそうで、話しをするのが疎ましい。

 昨日の使い走りの用を伯母が平崎に依頼してきたのはその一日前、一昨日だった。この施設の営業がぼつぼつ終わるという頃。今日とほとんど同じ時間だろう。
「滝沢はねえ、私のタンスの中に子供の古着たくさん残して行ってるの。あの女本当に意地が悪いのよ。これ私への嫌がらせなの。私に子供がいないからね、あてこすりしてるの。あなた明日でも来て、これを滝沢のアパートに届けてくれない。滝沢の新しい住所と電話番号教えるから」
「意地悪じゃなくてただ忘れただけだろう」
 平崎はいらいらしながら言った。これまでもこんな話が度々あった。
「そうじゃないの、あなたには分からないでしょうけど。女にはわかるの。たとえ古着でも子供の衣類忘れる女なんていないのよ」
 電話を通してだったが、伯母の声に嫌悪が含まれているのがわかった。
「よくわからないけど、どっちにしても本人に取りに来てもらえばいいじゃない。荷物にして送ってもいいし」
「私嫌なの、あの人の顔を見るのが。あなたはなんでもないって言うけど、私にはわかるの。やはり私を小馬鹿にしたような目してるのよ。男にはそんな事ないかも知れないけどね」
 “私を小馬鹿にした”と言う言葉には漠然としたところがあったが、彼女がどうして滝沢博子のことをこれほど悪く言うのか、彼なりに想像してみるのだった。そして仮に何らかの意味で伯母の言葉が当たっているとしても、それは伯母が自ら蒔いた種の結果ではないか。そんなことを考えるのだった。しかしそんな想像をもとに伯母と言い争うのが面倒くさくて結局のところ依頼を引き受けたのだった。それに滝沢博子に会ってみるのもわるくないと思った。伯母が言うことが本当なのかどうか、もしかして分かるかも知れない。
 昨日の午前大学の講議に出た後、すぐ埼玉県の川口にある伯母の家に行った。伯母は、職場になっている診療所に行った後で留守だったが、家には博子と入れ替りに来た家政婦がいて、博子の子供の古着が入っている風呂敷包みを手渡した。その前に彼は、学校に着くとすぐ伯母から聞いていた博子のところに電話を入れておいた。博子はいたく恐縮して自分で取りに行くと言ったが、もう引き受けたからと彼は言った。
 風呂敷包みを抱えて彼は、夕方七時に、渋谷のハチ公前で博子を待った。この時彼女が約束の時間より十分遅れた。その十分の遅れが岡谷千津子との奇跡を作ったと思う。まるで幸運の女神でもあるかのようにー。
 約束の時間に遅れた滝沢博子は一層恐縮し、お詫に食事をおごると言うのだった。そんなことをする必要はないと言ったが、荷物を手渡すだけで別れるのも味気ない感じがした。何かの事情を抱えて生きているかも知れない博子に、意味もなく冷たい印象を残したくはなかった。もしかすると伯母の言葉の真相に接する機会かも知れないので、近くの喫茶店で少し時間を潰すことにした。
滝沢博子がこれまでどんな生活をしてきたか、詳しいことは知らなかったが、以前デパートの店員をしたことがあって、そこで知り合った男と結婚して子を産んだ。しかし子供が二歳のとき離婚したという。そんな話しを博子自身から聞いたことがある。どうして離婚したのか分からなかったし、直接聞いてみる気もしないが、彼女が伯母に話したことによると、男が浮気をしたらしい。とはいえ伯母の話しでは、その後、博子が話す離婚の理由が二転三転したらしい。だから伯母は、その離婚の真相を彼女の出自に求めている。そしてそのことを平崎に信じさせようとしている。たとえそれを信じたからといってどうということはないはずなのにー。
「章行ねえ、あの人やっぱりおかしいのよ」
 いつだったか伯母の家に行った時、彼女がいきなり言ったことがあった。
「何が?」
「言うことが違うの、最初と後と」
「……」
「離婚の原因だって最初は男が浮気したって言ったのよ。でも根掘り葉掘り聞いてると、いつの間にかそうじゃなくて男が大酒飲みだからって言ったり、自分が悪いからって言ったりするの」
「そんなことどうだっていいじゃない。根掘り葉掘り聞く方がおかしいじゃない」
「そうじゃないのよ。女ってそんな話しすることがあるの。根掘り葉掘り聞くつもりじゃなくても、そんな話しになってゆくものなのよ」
 女性的なやわらかい表情の中に、一つの仕事を成し遂げた者がもつ、なんとも云えない落着きと知的な風格をただよわす白髪の伯母が、その顔にチラッと自尊心を走らせた。
「しかもね、それだけじゃないの。あの人ねえ、私のところに始めて来た時言った田舎の住所とね、最近あの人の兄さんから来た手紙の住所が違うの。私最初きいた住所もちゃんと控えてるわよ」
 博子が近くのマーケットに使いに出たわずかな時間だった。二人は縁側の丸いテーブルを挟んで紅茶を飲んでいた。伯母の好物で、博子が入れて行ったばかりだった。
「その住所見てみる?」
「いいよそんなの。人の住所に関心ないよ」
「でも、あんた見ればわかるはずよ」
そう言って立ち上がり、サイドボードの引出を開けて一通の封書を彼の前に置いた。ゴツゴツした字で差出人の男の名と住所が書かれていた。その住所は姫路市の、皮革産業で知られる町だった。平崎やこの伯母・広中紀子が育った村にいても、村人たちの最も有力な就職先として昔から話題にのぼる所であり、親戚関係のある話も度々聞かれる所だった。
伯母も平崎自身も、自分たちの出生地が、その皮革の町と同じ歴史をもつのを充分認識している。しかしこの二人の生き方がまったく違っていた。伯母は隠し通してきた者だった。平崎はそれを自分の存在とし、世間がそれをどう言おうと、歴史を隠したくないと思ってきた。そのため伯母と平崎の意見が合わず、袂を分かつ原因にもなっていた。そんな伯母が、偶然知り合った他人の、そうした出自に強い関心を示すのが疎ましくもあり、捻じれた心理のようなものを感じてならないのだった。
「伯母さん、これが原因であの人を悪く言うの?」
「違うわよ。あの女の根性が悪いからよ」
伯母はそれ以上のことは言わない。しかし、もしかして彼女は、同じ出自の者を自分の家に置きたくないと思っているのかも知れない。出自を隠さない平崎を、男手が必要だと言いながら、自分の家で生活させないのと同じようにー。このことは伯母が自分の言葉としてはっきり言うのだった。「あなたが村のことを言わなければここに居ていいのよ」と。出自を隠し通す伯母の性格からして、それはまた当然だと平崎は思う。しかしまったく他人の滝沢博子がたまたまそうかも知れないといって、いちいち気にすることはないはずだった。それに第一、滝沢博子が本当にその町の出身なのかどうかも、兄の手紙だけでは判断出来ないだろう。そしてそのことを確かめること自体も、おかしなことに違いない。出自などどうでもいいことなのだ。彼女が何かの必要があって自分でそれを言わない限り、それは最早あって無きがごとく、といたようなものだろう。

時計の針を見ながらぼんやりしていると、フロント側のドアが開いて野田達子が鍵をキーボックスに戻した。
「じゃねえー」
野田が軽く手を挙げて姿を消す。そしてややおいて再びドアが開いた。夜の女のような私服に変わった山田芳美だった。二階の事務所の奥に女の控室がある。しかしこんなに遅くまでいる彼女を見たことがない。
「平崎君。明日は朝からデートだってねー」
「……」
「熱々でいいわねえ」
山田が控室の鍵をキーボックスに掛けながら言う。野田から聖子の電話のことを聞いたのだろうか。野田と違って香水の香りが椅子まで届く。
「ずいぶん遅いじゃないですか。そっちこそ何かいいことありそうで。デートまでの時間潰しにお化粧してたんじゃないですか」
平崎も山田にはなぜか軽口が出る。
「お化粧しないと枯れちゃうもんね。若い娘っていいわよねー朝早くからイチャイチヤできて」
横目を流しておいてツンツンした振りのまま、山田がドアを出て行く。口とは別に何やらご機嫌よさそうだった。
後に残った香水の香りを意識しながら平崎はリンク側のドアを明けて人気のないリンクに向かって叫んだ。
「証明消すよ」
すると人気のない場内のどこかから「オー」という声が帰ってくる。野田達子にはおおっぴらに見せたくないものの、人影がなくても、いつもどこかに人がいる。小さな施設ではあるが、それなりに大きな世界でもありそうだ。平崎はドアの横の壁に設置された電源盤を開けてメインライトのスイッチを切る。リンクの上のライトが役目を終ってホッとするといった感じで、ゆっくりと消えて行く。
その時電話が鳴った。事務室に戻って受話器を取った。
「はい。ローラスケートです」
「すみませんが平崎章行いましたお願いします」
よそ行きの伯母の声だった。
「俺だよ」
「章行?」
「そう」
「昨日は有難う。博子さんに会えた?」
「会ったよ。荷物渡しといた」
「有難うね。でもね、またお願いがあるの。今度の日曜日来てくれない。今度はお小遣い出すわ」
改まってまた何の用だというのだろうか。
学生二人のローテーションを組んだ夜警だったが、日曜日だけは従来通り従業員二人の夜警だった。アルバイト学生の寝不足を防ぐためらしい。伯母はそのローテンションを知っていて、日曜日に何かと用を言って来る。男手が必要な穴掘りとか、庭木の処理などだった。そんな作業は金を出して専門職に頼むことが出来るはずだった。金に困っている人ではない。それでも平崎に電話して来るには、伯母なりの思いがありそうだった。しかしそんなことに気づかない振りを平崎はしてきた。
「今度の日曜日は駄目だよ。用事があるんだ」
今度の日曜日は千津子との約束があった。これを外すわけにはいかなかった。そして千津子との今後の可能性を考えて彼は言い加えた。
「しばらく日曜日は忙しいんだ。用事が出来て」
「じゃ月曜日でも火曜日でもいいわ。あなたでないと駄目な用事あるの。だからお小遣いはずむわ。昨日の件も含めて五千円くらい出すから来てちょうだい」
伯母にしてはめずらしく弱みを見せていた。それに、図らずも五千円は今後の日曜日の計画に絶大な可能性をもたらしそうだ。
「昨日行ったばかりじゃない」
「そんなこと言わないで。昨日ね、あなたが荷物持って行ってくれた後、郵便物が届いたの。博子さんの兄からよ。あなたにいつか見せたことあるでしょう。あの兄からよ。私の所出てから二週間以上経つのにあの人兄に新しい住所知らせてないのよ。わざとそうしているんだと思うの、兄からの手紙が私の所に着けばいいと思ってるのよ。脅かしよ。本当に根性悪いんだから」
「そんなのわからないよ。わざわざそんなことする人もいないよ」
「何も言わずに来てくれない。私にはわかるの。章行ね、この手紙を博子さんのところに返してほしいの。そこまで行くのが嫌なら、この封筒に新しい住所書いて、郵便局に届けて送り返してもらいたいの」
「……」
言い争うのが馬鹿らしいような話だった。<五千円、五千円。この時期五千円は大きいで…>
「それとね、あなたでないといけないと言うのはもう一つあるの。昨日あなた気づかなかったかしら。玄関の前に砂利の山があるの。あれね、市役所が取りに来ると言うんだけど一週間たってもそのままなの。女だから馬鹿にしてるのよ。何回言っても知らん顔よ。だからあなたそれを始末してくれない。均してもいいし穴掘って埋めてもいいし」
いつか行った時、家の前の道路を改修していたのでその余りの砂利が置かれているのかも知れない。そんなのがいつまでも放置されるわけがないと思ったが、そうした事を伯母に言っても無駄な感じだった。
「夜は帰るよ。用事があるもん」
「朝来て用事すんだらすぐ帰っていいわ」
「じゃあ砂利を片付けたらすぐ帰る」
「いいわよ。山中さんにお金預けとくから、ちゃんと貰ってね。手紙は新しい住所書いて郵便局に戻してもいいし、直接本人に渡してもいいからあなたの勝手にしていいわ。でもね章行、出来たら博子さんに直接会って手紙を渡してくれない?今後一切こんな親切はしないからって言っといてもらいたいの。もし今後私のところに博子さん宛の郵便が来たら、すぐ焼却しますって、そう言っといて、お願いだから」

「そこまではどうかと思うけど、砂利を片付けて、郵便物はポストの入れときますよ」
平崎はそう言って、火曜日の朝、空けの日に行くことを約束した。この大都会にいて身内同士のこんな話が進んでいるのが不思議でもあり、腹立たしくもあった。
やがて彼は巡回の用意をした。キーボックスにはすべての部屋の鍵がそろっている。営業が終わった後従業員がいつまでも施設に残ってはいけないという社則のため、すべての仕事部屋を閉じて、鍵をここに置いて帰る。しかしそれは形だけでのもので中身はまったくない。鍵がここにあっても部屋は空いている。そして多くの従業員が何か目的を持ってウロウロしている。<それでいい>と彼は思う。社則に従うだけの人生はつまらないだろう。この施設の運営はその従業員が行っている。その中に俺もいる。それだけで十分ではないか―。
彼はキーボードの鍵をすべて取り外し、自分の手の中で束にする。<これで俺の時間が始まる>。経営陣と現場従業員の間に挟まって、何かあれば責任を取らされる立場にあり、しかもいつでも首になる立場にあって、それでも俺はここで夜の支配者だ…>。その時、リンク側のドアが開いて、派手なアロハシャツの男が入って来た。小ざっぱりと髭を剃り折り目の入った白ズボン姿の丸尾だった。
「夜中に戻るからよ。その時外から電話するから頼むよ」
「女連れて来るんじゃないでしょうねぇ」
「そんなバカな事しねえよ。野原じゃねんだ」
「そういえば野原さん今日宿直なんだけど一度も見てないよ。いるのかなぁ」
「その辺うろうろしてるよ。マージャンのメンツ一人足りないって、捜してるんだ。じゃ後頼むよ」
「無事に帰れますように」
「何言ってんだい」
丸尾がフロントを出るのを見送って平崎はフロントの鍵を閉めた。<これで俺の世界だ>彼は放送室に入ってショパンのピアノ曲集をプレイヤーに掛ける。それから夜警用のタイムレコーダーを肩に、鍵の束を持って事務室を出た。暗くなったリンクの天井に残している小さなライトが星のように散らばって、ショパンの柔らかいピアノ曲がその中で響きあう。

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