小説 「明日の朝」 (その8)

 お茶の水駅に向かう電車の中で彼は今朝の聖子のことを思い出していた。土産を買ってきたとはしゃいで見せる聖子だったが、その言葉の向こうで果たして何があったのか。平崎はそのことが知りたかった。彼女は俺のことを父親に話すと言った。いったい何を話したのだろうか。平崎の脳裡で予測出来そうなものが無い家ではない。しかし果たして本当にそうなのかー。もしそれを話したとして、父親はどんな顔をし、どんな返事をしたのだろうか―。そんな思いが遠くから彼を包み込む。
 お茶の水駅に降り、大きな交差点を渡ってプラタナスの並木の下を歩いた。最近聖子と待ち合わせに使うのが喫茶店「ベレー」だった。 格子戸を摸した細いドアを押すと、北側にひらけた窓辺の風景が目に飛び込んで来る。その窓辺に聖子がいた。
「遅くなってごめんね」
「ううん。私も今来たばかりなの」
 聖子がポニーテールの髪をゆらして微笑んだ。
「伯母さんのとこで少し眠っちゃってさ、気づいたら三時すぎてんだ」
「寝不足なんでしょう」
「馴れちゃってさ、自分ではそうじゃないって思うんだけど、潜在的に寝不足なんかもね。東京に来てずっとアルバイトしてるもんね」
「平崎さんとても偉い人だと思います」
「なんてことを言いますか。ぜんぜん偉くなれません」
 伯母の家でビールを飲んで昼飯を食べると、急に眠気が襲った。そこで彼は、米子に二時半に起こすよう頼んでソファーで横になった。ところが、米子が変に気を効かせて二時半になっても起さなかった。彼は三時半に目を覚まし、あわてて伯母の家を出た。あやういところで伯母に会うところだった。そのあと聖子に電話を入れ、この店で会う時間を調整した。
「これ今朝話したお土産。いいものがなくて困ったんだけど」
 聖子が手提げ袋から四角い紙包みをテーブルに置いた。
「へえー。何?」
 聖子がはにかんだ。
 包みを開けると自然石にはめ込んだ時計だった。
「平崎さんの時計小さかったでしょう。だから少し大きいのがいいかと思って」
彼女とつき合い初めてまもなく、大学のキャンパスばかりでは味気ないと思い、自分が住む吉祥寺の井之頭公園に誘ったりアハートに誘うことが何回かあった。そんな時気づいたのだろうか。
「気づいてたの?あれね、吉祥寺の古道具屋で買ったの。とにかく音が出ればいいと思って一番安いやつ」
「オルゴールの目覚ましなの。曲が素敵だったし」
 時計の裏のネジを回すと「乙女の祈り」が掛かった。
「ありがとう。これなら気持ちよく起きられそうだな。君の顔を思い出しながら起きるよ」
 彼は「乙女の祈り」が続く時計を箱にもどした。聖子がその箱を取って再び手提げ袋に戻す。
「帰る時まで私が持ってる。それとねえ、もう一つお土産あるの。りんごの加工品なんですけど、私一人じゃ持てないので荷物で送ったの、寮に」
「何よ、そんなデカイもの?」
「大きいんじゃなくて沢山なの。地元のお土産だからアイスの事務所の人四人でしょう。それにお世話になったローラも三人でしょう。そして平崎さんと、寮の仲間と寮母さんと」
「そんなに気を使うものなの?俺なんか気を使わなくていいよ。大変だよそんなの。あの人もこの人もと考えたら」
「ううん、そうじゃないの。最近ね、村の農協が特産物作ろうとしてリンゴの煎餅考えて売りだしてるの。私のお父さんその担当なんだって。だからたくさん家にあるの。いっぱい持って行けって…」
「娘が特産物の宣伝係?」
「そうかもね」聖子が肩をすくめて笑う。何のこだわりもない家庭の空気がここまで続いているのかも知れない。
「今日ねえ、秋の慰安旅行の場所が決ったの。福島の会津盤悌山」聖子が急に話を変えた。
「へえー」
「今年平崎さん行ける?」
「まだわかんないけど」
 平崎は思わず胸が詰まるのを感じた。去年の慰安旅行は大学の卒業単位に必要な授業を理由にして行かなかった。聖子はしきりに誘っていて、その時の無念さが、今の聖子の表情にあった。しかし本当は、そんな慰安旅行に行きたくなかったのだ。今年はどう言って断ろうかー。
「だってさあ、今年は絶対卒業しなくちゃなんないと思うんだよね。そうでないと苔のはえた大学生になっちゃうじゃない」
 平崎が言うと聖子が弱々しい笑顔をつくった。大学の用事を持ち出すと聖子はいつもこんな笑顔をつくった。
「日にちは決ってるの?」
「日にちはまだはっきりしてないみたい」
「日にちが決ったら考えてみるよ」
「うん」
「お父さんはまだ病院にいるの?」
「昨日退院したの。ご心配かけてすみません。会社でもいわれちゃった。お父さんが娘に合いたいからダダこねて呼び戻したんだろって」
「仕事は出来る状態?」
 聖子の言葉にある甘ったるい家庭の空気を掻い潜るような問い方を彼はした。
「農協には行けるみたい。畑の方はお兄ちゃんがしてるし」
 平崎は頭の隅に、五日前聖子が口にした、あの堅苦しい言葉が浮かぶのを知った。しかしその言葉の痕跡が彼女の言葉や表情にあるようには思えなかった。
「お兄さん自動車の免許取れてた?免許取って自動車買うつもりだって、以前言ってなかった?」
「やつと取れたの。四回目に。三回も落ちて今度落ちたらみっともなくて村におれないって思ってたんだって」
「それで自動車買った?」
「ううん。自動車はね、お嫁さんくるまでだめってお父さん言うの」
「へえー。お父さんも考えてんだ」
「本当は自動車買った方がお嫁さん来てくれるのにねえ」
「そうらしいね最近は。でもそれじゃあ面白くないんじゃない。お父さんとしては」
「そうねえ。自動車を餌にしてお嫁さんに来てもらうのっておかしいもんねえ」
 <そうだよね>といいかけて彼は言葉を呑んだ。兄の結婚話が出た時、彼女は自分のことをどのように考えたのだろうか?それにしても、あの時彼女はいったい何を父親に話そうとしたのだろうかー。
「君のところなんかもやっぱりお嫁さんが少ないの?」
 結婚話なんか避けようと思ったが、彼は言った。聖子が自分のことを思い、先日の話しに繋がらないかと考えた。
「少ないみたい。農家はいま嫌われるのよね」
「君も家に帰ると結構話しがあるんじゃない?」
「そうかもね」
 聖子がいたずらっぽく微笑んだ。彼女はもしかして親に何も話さなかったのかも知れない。彼はふと思った。父親の入院見舞いに行ったのだ、堅苦しい話しなどする機会がなかったかも知れない。彼は気持ちが少し楽になるのを感じた。<このように、何もなかったかのように生きるのもそう悪くはないんだぜ…>
「俺今日さあ、伯母さんのところで肉体労働をして賃金稼いだんだ。だから遅くなったお詫も含めて何かおいしいもの奢ろうか」
「うれしい」
「何がいい?」
「何でもいい」
「上野公園に出かけようか。ブラブラ歩いて美味しいものあったら食べよう」
「いいわ」
最初彼の頭に新宿の街が浮かんでいた。しかし新宿に行くと千津子を思い出しそうだった。
 たそがれ時の通りの様子は急変していて、歩道は帰宅途中の学生でごったがえしていた。二人は学生の流れにまぎれて駅に向かった。そんな中にいて平崎は自分の心にいつになく豊かなものがあるのを感じていた。それは他でもない、ポケットの中に、普段あまり持ったことのない金銭が入っているからだった。何でも出来るといった感じだった。伯母の家を出て、バスの中でも同じことを感じていた。そして考えたものだった。自分がこれまで金を儲けようと思ったことがないのをー。伯母は彼と少し違って、知的な上昇意識を持ちながら、金銭意欲もまた厳しいものを持っているのだった。そうした親族を前にして自分を見ると、自分がいかにもぼんやりしているようなのだ。しかしそれは、何も考えてこなかったのを意味するわけではないと平崎は自分で思うのだった。金銭が大切なのは十分わかっていると思う。しかし、金を儲ける前に、何かもっと大切なものがありそうだと思う。それが何か、十分説明出来ないままではあるが、いきなり金儲けに走ると、その大切なものが失われそうだー。その大切なもの、それをまず手に入れたい。そんな思いが続いているように思えるのだった。

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