小野・岩井理論にみるマーケットの本質的不安定性

 2008年の金融危機の頃、著名なエコノミスト達が民間シンクタンク所属であれ、大学教授であれ、危機や不況をいかに克服するかの討論をさかんにやっていた。それを若干トレースしてみて、気付いたことがある。この世の中に何種類かの経済理論があること事は承知しているが、彼達エコノミストが自分の経済政策・対策を主張する際にそれらがどのような経済理論的裏付けをもっているのか、それが見えてこないのである。様々な経済諸量に基づいて論じている限り、専門エコノミストには違いないのだが……。経済理論と経済政策の関係は、物性物理学と現場の新素材開発の関係に似ていて、一義性はなく、方向の幅の示唆かもしれない。その程度であっても、自分の主張の理論的背景を明示してもらいたい。私が見る限り、多くの論者の中で大阪大学教授の小野善康氏は例外的にそのような論の運びをしていた。その時まで、私は氏の名前を知らなかったが、調べてみると、1992年と1994年に氏独自のケインズ経済の『貨幣経済の動学理論』を邦語(東大出版会)と英語(オックスフォード大出版会)で出版されている事がわかった。早速とりよせて読んでみた。ケインズ的不完全雇用均衡の見事な証明であった。余り売れていないらしく、邦語版は第1刷のままであるし、英語版は古書市場にしかなかった。私は、経済理論の専門家ではないから、この領域では、かつて東大教授・岩井克人のケインズ経済学の『不均衡動学の理論』(岩波書店、1987年)を読んで感銘を受けただけである。

 最近のある日、ある会合で、著名な金融機関の著名なエコノミストH氏に小野理論に関して質問をしてみた。H氏は一言、「貨幣欲が無限であるという小野の仮定には賛成できない」と答えられた。これは、小野理論の否定に直通する。貨幣欲が無限であるとは、貨幣の限界効用がゼロに収束せず、ある正値より下にならないという事で、財(サービスを含む)の限界効用がゼロに収束するのと対照的である。この仮定のみから、他は新古典派と同じく、価格の動きに対する企業と家計の完全予見を前提にしつつも、ケインズ的不況を経済の動学的均衡の行く着く先として数理演算だけで見事に証明している。非常にチャームである。

 私はH氏の批判が成り立つか否かを考えてみた。あらゆる財の限界効用がゼロに収束するならば、あらゆる財を買う能力のある貨幣もまたその限界効用をゼロに収束させる、とする方が一見合理的であろう。しかし、貨幣のもう一つの機能、つまり価値保蔵機能を視野に入れると、財の限界効用のゼロへの収束と貨幣のそれのゼロへの不収束とは両立する。すなわち、貨幣は、現在存在しないが、将来になって登場する新種の財をも買う力がある。今の財が飽満状態にあり、限界効用がゼロ状態であっても、新種の、新々種の将来財は、その限界効用が無限大ないし非常に大からゼロに移行する途中にあると想定され、現在の貨幣は、そのような将来財を購買し得る能力として存在するはずである。したがって貨幣の限界効用がゼロに収斂しないと想定する事は、有理的であろう。

 ところで、短い会話の中で、H氏は、貨幣賃金の硬直性によって立つケインズ的不完全雇用均衡の立場である、と言われた。これは、上に触れた岩井克人の『不均衡動学の理論』に近い。岩井は、企業がプライス・メーカーであり、家計がプライス・テーカーである事を前提にして、つまり小野とは90%異なる想定をして、ケインズ的不完全雇用を見事に証明している。大変にチャームである。

 私の印象では、両者の間に興味深い一致がある。小野は、すべてを完全競争市場にまかせるのは、職場を50人分しか用意せずに、100人の労働者に適材適所を目指して競争させるようなものだ、とどこかで痛烈に一言していた。また、市場の働きが敏感になって、需給乖離への価格調整速度が速くなればなるほど、不況は深刻化すると数理演算で証明している。岩井によれば、すべての価格と賃金が伸縮的であるような完全雇用経済はケインズ的均衡から離れて、上への、あるいは下への不均衡累積過程に突入する。ハイパー・インフレか大不況かへ。

 ほとんど180度に近いほどに異なった前提から出発しても、市場メカニズムが純化するほど、凡人達の経済生活を破壊してしまう。大和左彦たる岩田が左彦にこだわる所以である。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

〔eye1105:101128〕