戦没作曲家、尾崎宗吉(1915~1945)は、はじめて目にする名前であった。翻訳家の川上洸からメールで伝えられ、わたしは、同郷人、尾崎宗吉の存在を知るのだった。数日後に送られてきた著書『尾崎宗吉』(クリティーク80編著、音楽の世界社)のなかの「伝記・尾崎宗吉」を読めば、尾崎宗吉は、弁天島駅むかいの旅館、松月の出身だとわかる。1915(大正4)年、浜松市舞阪町に生まれ、1945(昭和20)年、中国で戦病死している。墓は生地の養泉寺にあるという。
30年の生涯をたどった伝記は、音楽評論家、小宮多美江が書いたものだ。その著書には写真も掲げてある。愛くるしい少年は、姉妹とともに笑いをぐっとこらえる。つめえりの制服を着た浜松第一中学校(浜松北高校)生は、とてもりりしい。こんな朗らかそうな性格や頭脳明せきは、尾崎作品にも名残をとどめているのだろうか。
NHKの「ラジオ深夜便―明日へのことば」は、各分野で活躍するユニークな人物が登場し、わたしたちの視野をひろげてくれる。最近では、8月11日放送の「戦没作曲家の足跡を掘り起こす」がよかった。小宮多美江が、山形県出身の紺野陽吉と尾崎宗吉について語った。その解説のあいまに、尾崎宗吉作曲の演奏が2点、2分ずつ流れてきたのだった。音楽は時間が経過しても、わたしたちのハートを強くも、もの哀しくもゆさぶってくる。その感動は、過去と現在が交錯する至福の一瞬なのかもしれない。20歳で作曲の「小弦楽四重奏曲」は、テンポが速くて軽快だ。27歳で作曲の「夜の歌」は、ゆったりと優美ななかにもどこか慌ただしい。聴く者のこころをかきたててくる。メッセージがこめられているのかもしれない。その2年後、尾崎宗吉は他界する。小宮は、1977(昭和52)年に行われた、チェロ曲をまとめた演奏会で、尾崎宗吉の「夜の歌」にはじめて出会った。それいらい、尾崎宗吉の足跡をたどりつつその全体像を明らめてきた。ひとり作曲家を発掘すると、つづけて「ぼくのも、わたしのも、やってほしい」という声が小宮多美江にはきこえてくるという。それも「競争するように」。小宮多美江は1980(昭和55)年、池田逸子、小村公次とともにクリティーク80を結成し、埋没する作曲家の自筆譜を発見しては演奏会をくりかえしている。3人は貴重な作業にたずさわってきたのだ。
尾崎宗吉は中学時代、木琴がささくれるほどたたいて猛練習をかさねた。たくさんのポピュラー名曲に親しんだ。さらに学内にハーモニカ部を作り、部長として活躍。目につけていた同級生の木下忠司を入部させる。曲をえらび、部員に合わせて編曲し、パート譜にして彼らにわたし、レッスンをリードしていく。木下忠司は、映画監督、木下恵介の弟であるが、尾崎宗吉にすすめられて音楽の道を歩むようになったそうだ。尾崎宗吉は、1934(昭和9)年4月には、東洋音楽学校(東京音大)のピアノ科に入学する。諸井三郎に師事し、チェロは安部幸明に学ぶ。チェロは木琴とは対照的に、旋律性に富み、人間的なふかみのある歌を奏でることのできる楽器だという。1937(昭和12)年3月、尾崎宗吉は同校を卒業し、日本映画社に就職する。結婚して1944(昭和19)年には、男子をもうけるが数日にしてなくす。この年、尾崎宗吉は再度召集され、翌年の1945(昭和20)年、中国で戦病死したのだった。虫垂炎になり手術を2度うけたが手遅れであった。川上洸の教示によると、尾崎宗吉の〈所属部隊は鉄道連隊だから、あちらこちらにひきまわされて、最後はいわゆる「大陸打通作戦」の一環として、はるか南方の現在の広西チワン族自治区桂林の近くにいた〉。
新進作曲家としての尾崎宗吉の活動期間は、長くはない。音楽評論家の大田黒元雄に将来性を嘱望され、前途洋々であったのに。姉の永田文子が「弟よ」と題して追悼詩をよせている。「あたら弟の青春と/限りない将来を/犠牲にした戦争/いまわしい戦争を/私は憎む」。この追悼詩は、さきの著書のなかに収録された一部分だ。尾崎宗吉の「愚劣」な戦争への憤りは、もっともっと深い。くやしい思いで逝ったにちがいない。戦争は、かれの将来だけではない。おしる粉が大好きで、弁天島できたえた高とびこみをみごとに演じる、尾崎宗吉の日常のしあわせを、奪ってしまった。
初出:「浜松百撰」(2013年12月)より許可を得て転載
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