2017年2月26日 戦前戦後史人権フォーラム
「2・26事件とゾルゲ事件そして岐阜の人々─安藤輝三・尾崎秀実・伊藤律」
渡部富哉
映画監督・篠田正浩氏は「65歳を過ぎたころから何かやり残したことがあるのではないか、と思ったとき、ゾルゲ・尾崎というジャーナリストが国家に背いてドイツや日本を捨ててソビエトという国に命を投げ出した。ゾルゲはどうして国を捨てたのか、尾崎はどうして日本人であることの自覚を忘れたのか、映画監督として昭和史を描くのに、彼らが命を投げ出してもいい、国家を裏切ってもいいほどに共産主義というものに熱中したということに向かわざるを得なかった」、「1917年のソビエト革命から1989年のベルリンの壁の崩壊までの70年間、共産主義運動を抜きにしては現代史を語ることは出来ないと思うに至った」という。
「中国人は満州事変を忘れていない」
近代に目覚めた中国にとって、満州事変は日本の侵略であり、朝鮮半島を日露戦争で獲得した日本の侵略拡大政策にとって、朝鮮半島を守るには鴨緑江から攻めて来られたらひとたまりもないため、鴨緑江を守るために、鴨緑江の外に出なければならない。つまり満州が生命線である。というので、石原莞爾や板垣征四郎などは満州事変を引き起すことによって英雄になったが、満州事変は中国人の屈辱ばかりではなく、世界中で日本の侵略だと非難の的になった。
それ故、満州事変後、日本からの生糸の輸入を止めよう。日本の生糸産業をシャットアウトすれば、日本の農民300万人は収入を失うと、アメリカなどは一斉に反日の狼煙を揚げた。
フーバー大統領夫人も、在米華僑の中国人たちも一斉にこれに応えた。アメリカの女性は高価な絹のストッキングを脱いで安いナイロンストッキングを履くようになり、日本の生糸は簡単にボイコットされてアメリカの市場から後退していった。
池田美智子さんの研究によると、日本の生糸の輸出は1920年代は全貿易の36%、これは現代のトヨタ、ソニーを併せるような割合だという。日本の生糸は蚕と桑畑があればできる。これがボイコットされる。1930年代日本の生糸の対米輸出は激減する。これによって日本の農村は大打撃をうける。
1300万人の農村の40%は養蚕で生計を立てていたため、大打撃を受けて、朝日新聞の1932年の記事によると、「長野県の学童の20万人が昼飯の弁当を持ってこなくなった」。
これが2014年に瑞浪市総合文化センターで開催された「伊藤律シンポジウム」の篠田正浩さんの講演でした。
「娘売ります」というほど農村が疲弊しているとき、東京では「東京音頭」で民衆は踊り狂っていた。筆者のような年齢の方なら今でもその歌詞と情景は記憶しているはずです。
ゾルゲ事件で逮捕され、未決のまま獄死した宮城与徳は同じ諜報グループの川合貞吉に、「労働者や農民が[九段の母]かなんかの浪花節を唸っているのを聞くと、ぼくはこの国が嫌になるよ。日本民族ってのは革命をやれる民族ではないような気がしてきたね。」とつぶやいたという。
2・26事件はこの「農村の疲弊」という問題が最大の背景のひとつです。
安藤輝三については筆者のゾルゲ事件研究仲間の高木康行さん(大阪朝日新聞社ニューメディァ副本部長などを歴任)が日露歴史研究センターの幹事会に出席する前日、神戸から上京して私と~3時間ばかり、研究成果の意見交換するのがほぼ毎回のお決まりコース たった。高木さんは平成20年、(2008年)「2・26事件73回忌の法要」(麻布・賢崇寺)で「昭和維新をやさしく彩る─安藤輝三大尉」を講演し、雑誌「在」に3回にわたって掲載しました。(レジュメ参照)
高木康行さんによると、「安藤輝三大尉(中隊長)は新兵が入隊すると、まず兵隊の家族状況をひとりひとり調べ、働き手が他にいないことを知ると、すぐに帰郷手続きをとった。」苦境の兵の家庭には自分の給与を割いたと言う。
「自分の連隊は満州に派遣されるが、政治がひどい、東北の農民は冷害で悲惨な状態だ。北陸でもひどいと聞く、いま都会の成り金が一夜で費やす金があれば、農家では1年暮らして行けるのだ。それに対して政治は何もしない。われわれが意見を言っても、言論は統制されて、上には伝わらない。このような日本を後にしてわれわれは満州で充分に戦えない。と悲憤慷慨していた。」と言う。
2・26事件の背景にあるのは日本の政治構造の問題で、その基礎には農民・農村問題です。その日本の農民と農村の問題を徹底的に研究し、2・26事件の勃発を半年前に予言し、警告を発していたのはほかならぬリヒアルト・ソルゲでした。
リヒアルト・ソルゲの日本分析・「日本の軍部」─その地位と日本の外交政策に於ける役割─国防地理学的結論」
ゾルゲの来日以来の足跡は次の通りです。 (レジュメ参照)
1933年9月6日、ゾルゲはアメリカを経由して日本(横浜)に上陸。
1933年10月24日、米国から宮城与徳は横浜港に上陸、12月に上野公園でゾルゲと会う。
1934年4月、ゾルゲ諜報機関「ラムゼー」機関を創設。
1934年5月、ゾルゲは奈良公園で尾崎秀実と再会した。
1934年9月、尾崎は朝日新聞東京本社に新設された東亜問題調査会のメンバーとして東京本社勤務となる。
1934年10月、横浜本牧のベルンハルトの家から送信を開始。諜報インフラの完成に1年半費やされた。
1934年11月、陸軍大学の村中孝次(大尉)、磯部浅一(一等主計)、片岡太郎(中尉)クーデター未遂事件。(不起訴、辻政信大尉、片倉衷少佐の謀略とも言われる)
1935年8月、永田軍務局長斬殺事件起きる。(相沢三郎中佐、当時47歳)裁判は1936年1月(28日公判)から始まる。
1935年8号「地政学雑誌」に『日本の軍部』「その地位─日本の外交政策に於けるその役割─国防地理学的結論」を掲載。
1936年5月号「東京における軍隊の反乱」(2・26事件)「地政学雑誌」に掲載。
1937年1~5号 「日本の農業問題」「地政学雑誌」に掲載。
ゾルゲの日本研究─ゾルゲの日本関係書籍は1000冊に及んだ。(「古事記」、「源氏物語」などを含む)特に日本の政治構造の最大の矛盾点である農民、農村問題について徹底した研究と情報の入手に務めた。
1939年まで日本国内の旅行はかなり自由で、好んで国内を旅行し、旅行から得た知識と尾崎秀実、宮城与徳らのグループにも農民農村問題に視点を向けさせ、積極的に情報を得ようと心がけた。
山崎淑子(ブランコ・ブケリッチ夫人)によると、「ブケリッチは分厚いシリアスの本を読むのが好きで、暇があると読書に熱中していたが、日本の歴史にしても、戦前の日本人にはタブーであった中世の百姓一揆の研究書であったりして、強い印象をうけたことがある」(山崎淑子『ブランコ・ブケリッチの想い出』、オーストラリア・シドニーシンポジウム(2015年)の筆者の報告。)という。
ゾルゲグループの参加者にみる農業・農民問題研究者(宮城与徳訊問調書による)
ゾルゲにとって日本の農業問題研究の重要性は日本の深部の力と日本の方向性を観察するキーポイントでした。ゾルゲは「農業・農民問題に詳しい人物を組織せよ」と宮城与徳に指示した。宮城が組織したり、接触した農民運動家は、
①宮城の沖縄師範学校の同級生喜屋武保昌を通じて真栄田三益(沖縄県人、全国農民組合全会派オルグ、戦後日本共産党農民部長)
②真栄田三益を経由して高倉輝(大原幽学の研究者、真栄田三益、守屋典郎などに農民運動の手ほどきした。)
③九津見房子(ゾルゲ事件で懲役8年)を経由して、山名正実(北海道農民組合委員長、ゾルゲ事件で懲役12年)、および田口右源太(農民組合オルグ、ゾルゲ事件で懲役13年)、
④伊東三郎(別名、宮崎巌、日本共産党農民部長、「伊東はゾルゲ事件で検挙され、洲崎署に留置され、ひどい拷問にあって身体は衰弱し、テロは加えられる。本当に自分では歩くことも出来ない状態で野方署にたらい回しされてきた」という。『高くたかく遠くの方へ・遺稿と追憶』土筆社)
⑤平賀貞夫(日本共産党組織部長、満州合作社事件、獄死)など。
それらの人々を組織した時期は1936年の2・26事件とほぼ時を同じくしている。
九津見房子は2・26事件で軍部の革新派が革命を起したのではないかと、同志たちに連絡して情報収集に駆け回った。当局から左翼前歴者の動向がおかしいとして九津見は検挙され、40日間も留置された。高倉輝も情勢を探りに出かけたが、知人の家に泊まり歩いて検挙は免れた。(牧瀬菊枝編『九津見房子の暦』思想の科学社)
「日本の軍部 その地位─日本の外交政策に於ける役割─国防地理学的結論」
日本の首都東京で天皇の軍隊が反乱を起こした。その背景や政治的な意義などについて、リヒアルト・ソルゲは「地政学雑誌」1935年8号(つまり2・26事件の半年前)にこの論文を書きました。その「まえがき」には次のように書かれている。
「日本の目下の情勢は、その近代史上最も困難なひとつである。農業の苦境は日本国民の力と団結にとって重大な危険となり始めている。活発な工業景気と輸出景気は憂慮すべき矛盾を内に表している。たえず増加する軍事支出との渦に押し流されて、国家財政は重大な危機に向かっている。さらに列強との外交上の困難な問題が山積している。
この重大な情勢下で、日本には政治の指導者がいない。すでに多年来、政府は内蔵する力も、決意も持たない。軍部と官僚と財界との諸勢力のまぜあわせにすぎない。以前は強力であった政党も、汚職と内部派閥の闘争のため、政治的には全く退化し、国民の大多数から軽蔑されている。
徐々に指導権を獲得した国家官僚は、政党と軍部の間を右往左往して将来を託すべき後継者がいない。ファシスト的、または国家社会主義的な色彩を帯びた若い組織は、少なくとも現在のところ絶望的に分裂している。しかも、彼らが皇室を万物に卓越した崇高な国民の指導者として、宗教的な尊崇をささげていることは、現下の日本の実際的な諸懸案に永続的で、大規模な解決を与えるような偉大な指導的人物を、国民の間から生み出すことを困難にしている。
あるいはまた、彼らは中世的、浪漫主義的陰謀にそのエネルギーを空費している。かつては、ほかに類のない全能の元老、すなわち皇室の最も密接な顧問たちの団体も絶えようとしている。90歳になんなんとしている西園寺公は、すでに明治天皇に仕えた偉大な元老たちの最期の生き残りである。
注意深く日本を観察する人は、この対立と内部の不決断の状態は、もう長くは続かないことを知っている。国内政治的に何事かが迫っている、今日少なくとも唯一の目に見える勢力であり、新しい進路を求めている日本の軍部は、将来ありうべき内政上の変革の際には、決定的な役割を演じるところとなろう。この勢力を認識すべきときが来ている。」このように書いている。
篠田正浩監督は言う。「これが昭和10年(1935年)8月のゾルゲの日本観察の論文です。この同時代の日本のジャーナリズムにこれだけの日本分析が書かれた記事はない。
このゾルゲの論文が発表された半年後、[2・26事件]が勃発したのだ。」
「尾崎、ゾルゲの日本の農業問題を分析し、それをまとめたゾルゲの論文[日本の軍部]が2・26事件の青年将校の蜂起を予測した。これはゾルゲの特別にスパイ活動としてではなく、新聞記者として足で歩き、耳で聞いて、目で見たものがレポートになっている。
ゾルゲの分析=日本はシベリアでスターリンの背後を襲うのか、アメリカの経済封鎖で石油がなくなったらどうするんだ、ということを分析したのだ。」と。
マッカーサー聯合国軍最高司令官の朝鮮戦争の結論。
マッカーサーは1950年、朝鮮戦争のとき、北朝鮮軍を黄緑江までおいつめたが、そのとき突如として中国は義勇軍の大軍を送って米軍に反撃し、まもなく米軍は38度線まで一挙に後退した。戦局は対峙の状態になり、一進一退の硬直状態になった。マッカーサーは1950年11月、中国本土に対する核攻撃をトルーマン大統領に進言したが、トルーマンはこれが第三次大戦に発展すること恐れてマッカーサーを解任した。
マッカーサーは1951年5月3日の米国議会上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で次のように証言した。
「日本には蚕を除いては、国産の資源は殆ど何もありません。彼らには綿がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、錫がなく、ゴムがない。その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、アジア海域に存在しています。これらの供給が断たれた場合には、日本では1000万から1200万の失業者が生まれるという恐怖感がありました。彼らが戦争を始めた目的は主として安全保障上の必要にせまられたことだったのである。」
このマッカーサーの主張はゾルゲの「日本の軍部─その地位と日本の外交政策に於ける役割─国防地理学的結論」と全く同様であり、ゾルゲ論文の影響と思われる。
もう一つのゾルゲの論文「東京における軍隊の反乱」(「地政学雑誌」1936年5月号)に対して編集部でつけた「まえがき」によると、「前年度8月号に掲載した『日本の軍部』についての同氏の詳細な記事と関連して読んで頂きたい。この反乱の最も深い動機を示すためにわれわれは近く同氏の筆になる「日本の農業問題」(1937年1~3月号)に関する詳細な研究を掲載する予定である」(1936年3月)と記載している。
ゾルゲは2・26事件の直後にこの論文を書いた。その冒頭の小見出しは「2・26事件の目撃者の報告」と書かれている。それは生々しい反乱軍の現地ルポといった臨場感に溢れている。日本の新聞記者には報道規制があるだけでなしに、憲兵が交通の要所を抑えて規制していたから、現場に立ち入ることが出来ない。民衆の声を伝える政治批判も書けない。
ゾルゲの論文「東京に於ける軍隊の反乱」はその一部をカール・ラディックがソ連共産党機関紙「プラウダ」に、ゾルゲがソ連の諜報員とは知らずに高く評価して掲載するというハプニングさえ生んでいる。
日本の官憲に4時間身柄を拘束されたゾルゲ
ゾルゲは2・26事件が起きる前夜ドイツ大使館に宿直していた。2・26事件の勃発をゾルゲは事前に察知していたと思われる。
ドイツ大使館は反乱軍に占拠されている陸軍省と反乱軍の最大拠点の国会議事堂に隣接している現在の国会図書館にありました。
「2・26事件の目撃者」によると次のように書かれている。
「首都東京のど真ん中で起こった軍隊の反乱軍と直接ぶつかりあったのは、毎日払暁に東京の中央魚市場に買い出しに行く魚屋のトラックだった」、「この朝、魚屋たちがうけた不気味な感じは大変な噂に変わっていった。ドイツ大使館員の外交官の身分証明書さえも何の役にも立たなかった」とゾルゲは書いている。明らかにゾルゲは霞が関の国会前から赤坂の溜め池周辺まで、降り積もる雪のなか、戒厳令の中で取材していたのだ。
ゾルゲによると、「溜め池周辺の岡田首相の広壮な官邸がまじかにあるところで魚屋たちは何の説明もなく、兵士たちに阻止されたのである。突如、官庁街で一斉射撃が響きわたった。それから静寂にかえった。魚屋たちは再び市場に行くことを許されたのである。おそらくびっくり仰天その背中には一抹の不安を感じながらだったに違いない」と書いている。岡田啓介首相官邸、鈴木貫太郎侍従長、斉藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監、高橋是清蔵相、牧野伸顕前内大臣(失敗、湯河原に滞在中)らが襲撃されたのだ。これは実際に、その現場に当時いた体験者でなければ書けないレポートだろう。
ゾルゲのこの論文では「魚屋」は3回も書かれている。早朝の雪の中で反乱軍によってストップを命じられたトラックの印象が強かったのだろう。
筆者は吉祥寺の魚屋の生まれで、この日東京は24日から降り出した雪は止まず、30年ぶりという大雪に見舞われた。その30センチほど積もっていた雪のなかを、早朝4時、築地の魚市場に買い出しのため、トラックの上で石油缶で焚き火をして暖をとりながら、同業者たちと一緒に魚河岸に買い出しに出て行った父親は、予定の時間を2時間過ぎても帰宅しなかった。まさしく日頃恐れていた「万一のこと」が起こったのだ。母親は何回も道路に立ちすくんで不安そうに父の帰りを待っていた。
ゾルゲが溜め池で見た魚市場に行く魚屋のトラックとは、吉祥寺から甲州街道(現国道20号線)で、新宿から市ヶ谷~赤坂・溜め池(現、地下鉄丸の内線)で築地の魚河岸に行く、私の父が乗っていた魚屋のトラックだったのです。
家族の心配する中で父が体験した軍隊の反乱の模様をその夜、父から秘かに聞いた。これが筆者の6歳のときのことですから80年も以前の2・26事件の記憶です。
ゾルゲのこの論文は発生から鎮圧までの詳細と永田軍務局長の斬殺事件(相沢中佐)とその裁判、高橋是清蔵相の暗殺と日本政治権力の真の中枢である元老を排除する最大の目標であったことなどを明らかにし、「陸軍内部におけるこの過激な政治的潮流の最も深い原因は日本の農民と都市の小市民の社会的貧窮である。兵士のほとんど90%は地方出身者である。これらの農民には政治的機関がない。軍がこれら地方と都市の人民層のますます烈しさを加える緊張の伝声管となり機関とならざるを得なかったわけである。この結びつきに東京師団の反乱の最大の意味が存在している。外観上は総てが旧通りである。それにしても多くの変化があった。
元老の地位は根底から動揺し、その役割は明らかに小さくなり、反乱青年将校たちの目標の一つは達成された。反乱後こそ陸軍は著しく優位に立つに至った。」ゾルゲは2・26事件の意義をこのように詳細に、かつ正確に洞察している。
このゾルゲの論文にドイツ軍経済局長ゲオルグ・トーマス大将はいたく感心し、自分の部署のために 「2・26事件特別研究文書の編纂」をゾルゲに委託したほどだった。彼の活動のお礼にドイツ大使館の一室をゾルゲにあてがったという。
ソ連軍参謀本部諜報局(GRU)所蔵のゾルゲの報告によると、「1936年に日本で起きた青年将校たちの2月の蜂起(2・26事件)では日本の首相が暗殺され、ゾルゲは何枚かの写真を撮った事で、日本の警察に4時間にわたって拘束された」ことが、参謀本部GRU委員会が作成した報告書が明らかにしている。(コンドラショフ、セルゲイ・アレクサンドロビチ氏提供による)
この報告書にはS,コンドラショフ中佐とE,ドリャフロフ大佐の署名がある。
報告書が作成された年月日は1964年11月2日(№26-2412)とあるから、ゾルゲに対する祖国英雄として叙勲した審査委員会の報告であることが判る。
尾崎秀実の日本農業問題の研究と伊藤律
伊藤律は36年2月(~1938年7月ころまで)土屋喬雄(日本経済史・労農派、1933年~34年にかけて服部之総と「幕末マニファクチュァ問題」では烈しい論争が起こった)の研究室に入った。
伊藤律によると土屋は労農派ではあるが、農民、農業の実際の動向の研究を選んだという。 講座派の理論より実証に重点を置いたという。やがて満鉄東京支社に学歴は半端だが、有能な調査員として就職した。39年6月、尾崎秀実も満鉄調査部高級嘱託となった。 伊藤律も同じ時期に、満鉄東京支社に勤務して尾崎秀実と知り合うようになった。
39年8月末~秋、伊藤律は南満州鉄道調査部の命により関西、四国、中国地方の農村事情を調査、秋に帰京して長谷川(当時伊藤律の共産党再建運動の指導者)に報告。(結婚したばかりのキミも一緒に同行した。)伊豆熱川温泉のうらぶれた温泉で偶然にも尾崎秀実と細川嘉六が同宿したという。(レジュメ、「伊藤キミ聞き書」参照)
日本の政治家で農民、農業問題を研究し熟知していた者はいなかったが、近衛内閣書記官長風見章だけは例外と言えるだろう。風見章は信濃毎日新聞の主幹当時から、同じ信州(別所温泉)にいた高倉輝とは懇意だった。高倉輝は京都大学時代に近衛秀麿と同級生であり、二人は河上肇の教えを受けた仲だった。高倉は近衛の萩外荘は顔パスだったという秘話がある。(高倉輝の長女信さんの聞き書による)
「風見章日記」に見る近衛文麿内閣総理大臣の農業農民問題に対する感覚
39年(昭和14年)9月22日、風見内閣書記官長の委嘱を受けた細川嘉六氏は農村視察
了えその視察談を日本クラブにて聴く。同席尾崎秀実、西園寺両氏、(「風見章日記」113頁)とある。
細川嘉六の農村調査の結論は、
①農村の現在の経営形態における負担は限度に達したること。
②非戦的意識の発生ようやく顕著にして、その傾向は暫時たかまりつつあること。
39年(昭和14年)10月12日 午後四時、風見は尾崎秀実氏と会見。尾崎氏曰く、先般近衛公を訪問したるに、細川嘉六氏の話はつまらなかったと言われたる由、心外也。話術下手なりとも、深刻なる細川氏の話がつまらぬとありては、政治感覚を疑わざるを得ざるに至る。農村の事情は遂に近衛公にして斯くの如くんば、余は元より言うに足らざる也。国政の前途、ついに戦慄を禁じえざる也。(123頁)
これが当時国民から期待された三次に及んだ近衛首相の日本の政治の根幹というべき農民問題に対する理解程度だった。
今回出版された「風見章日記」によって、「伊藤キミ聞き書」による伊藤律の西日本の農民・農村調査は、風見・尾崎らの近衛首相に対して、現に進行しつつある農家経済の現状の深刻さを理解させることにあったことが知れるだろう。
伊藤律の農業、農民問題についての論文が尾崎秀実を通して、ゾルゲに渡った論文は以下の通りである。
「日米通商条約の廃棄によるわが国の蚕糸業にたいする影響と対策」(満鉄東京支社調査部における調査報告)(西野辰吉著『堕天使』)
39年9月10日、「戦時下に於ける農業生産資材問題」(「満鉄調査時報」39年9月号)
「満州に於ける農民問題」この論文は尾崎秀実の名で発表した。(「満州と農民」都新聞夕刊、尾崎秀実著作集 第5巻に収録。(伊藤キミ証言)
40年12月、 「食料政策の強化について」、(「満鉄調査月報」第17号)
41年2月、 「経済革新諸法案撤回後に於ける経済革新問題」
6月、 「戦時下の日本農業」
41年8月、 「日本に於ける農家経済の最近の動向」(「満鉄調査月報」掲載)
41年8月、9月に行われる満鉄本社の「新情勢下の日本政治経済情勢に及ぼす影響調査会議」の報告のうち「日本農業部面」の報告に尾崎秀実は伊藤律を抜擢した。
42年11月17日 伊藤律「尾崎秀実の証人尋問」(予審判事中村光三)はレジュメに記載してある。(「現代史資料・ゾルゲ事件」)
2・26事件の反乱鎮圧後、軍のファシズムは公然のものとなった。東京陸軍軍法会議は一審だけの即決で弁護人なしの非公開という暗黒裁判だった。(池田俊彦編『二・二六事件裁判記録─蹶起将校公判廷』原書房)
安藤輝三は「吾人を犠牲となし、吾人を虐殺して而も吾人の行える結果を利用して軍部独裁のファッショ的改革を試みんとなしあり、一石二鳥の名案なり」と、獄中から正確に裁判の本質を見てとった。事実これを契機として軍はファッショ体制に突き進んで行った。
高木康行によると、「安藤輝三が処刑されるとき、下士官が収容さている獄舎の前につかつかと歩んで、『迷惑をかけたな。すまなかった』と別れの挨拶をした」という。下士官たちは口々に「中隊長殿、さようなら」と呼び返したという。(北島弘、当時19歳)
その北島は高木のインタビューにこう答えている。
「1935年秋、福島県で演習があり、農家で大休止した。私たちには白米のご飯が出された。食事を終えて家族の様子を覗くと、赤いご飯を食べているのが見えた。ここで初めて稗飯だと判った。私の2・26事件参加の動機はこれなのです。天皇陛下に、農家の窮状を何とかお伝えしないといけないと思ったのです。(中略)だから原隊に復帰したときも胸を張っていました。少しも悪いことをしたという思いはありませんでした。(中略)
昭和天皇は1983年8月、宮内庁記者と懇談され、『テレビの“おしん”をご覧になって如何ですか』の問いに対して、『ああいう具合に女性たちが苦しんでいたとは知らなかったと言われた。』(毎日新聞8月31日付)やっぱり天皇はご存じなかったのだ、と思った。」と書いている。(「安藤輝三大尉の最期の10分間─2・26事件北島弘伍長の証言」)
苦しんでいたのはすべての農民たちだったのだ。勿論、「娘身売りの場合は当相談所においでください」などという深刻な村役場の張り紙などは天皇はご存じのはずはない。
2・26事件の起こった同じ1936年、中国でも正規軍による反乱が起こった。張学良・揚虎城による蒋介石の監禁、内戦の停止と一致抗日を要求する西安事変である。
この事件の解決のために延安から周恩来が西安に飛んだ。国際世論は蒋介石の殺害を報じた。ただ一人尾崎秀実は中央公論に「張学良のクーデター」を書き、蒋介石の生存と国共合作の抗日統一戦線を見通す論文を発表した。
筆者は2013年9月、上海師範大学で開催された「ゾルゲと上海情報戦国際フォーラム」のあと、上海から西安に飛んで中国現代史に名高い旧跡を見学する機会をえた。弾痕が生々しく残り、蒋介石が逮捕された山腹まで登って、2つの反乱事件に思いをはせた。
ゾルゲの秘話にもふれるつもりでしたが、時間の関係で果たせませんでした。
「尾崎秀実とゾルゲの2・26事件」の講演を終わります。ご静聴、ありがとうございました。 (完)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study837:170310〕