屠殺の心配がない家畜で幸せなのか

石炭を燃料とした蒸気機関が実用化されなければ、産業革命は起きなかったんじゃないか、あるいは石炭に代わる燃料か蒸気機関に代わる動力機関が発明されるまで待たなければならなかったろう。蒸気機関が牛馬の使役から得られる動力という制約からも、流水を必要とする水車からくる工場立地の制約からも解放し、消費地に近い、あるいは輸送に適したところでの大量生産を可能にした。可能にはなったが、大量生産がなりたつためにはある社会基盤の確立が不可欠だった。貨幣価値や時間を含めた度量衡の標準化がなければ大量生産といっても、せいぜい地産地消の延長線までにしかならない。産業革命による生産性の向上を進めていくには標準化が必須だった。そして物の標準化が製造工程や作業の定型化を生み出した。その典型がヘンリー・フォードの流れ作業だった。

作業を定型化できれば、熟練労働者に頼らずとも大量生産が可能になる。西部開拓が始まったアメリカでは様々な工業製品に対する需要が拡大していた。アメリカは徒弟制度が確立していたヨーロッパとは違う。移民の多くは未熟練労働者で、熟練した労働者が限られていた。そこから大規模な工業製品の標準化と作業の定型化が必然として起こった。さらに未熟練労働者の作業の質を保つために品質管理の思想が生まれた。それは南北戦争時のマスケット銃の大量生産が必要としたものだと言われている。戦場で傷んだ銃の保守には規格化された部品の互換性が欠かせなかった。ちょっと想像してみればいい。部品に互換性があれば、戦闘で傷んで壊れた銃何丁も集めてきて分解して、使える部品を寄せ集めて使える一丁の銃を組み上げられる。
「部品取り」と入力してググれば、分かりやすい説明がでてくる。西側諸国の制裁のせいでボーイングやエアバスの純正保守部品を入手できないロシアでは民間航空機が「部品取り」でなんとか稼働を続けている。

標準化が生み出す作業の定型化が、生産工程から物流工程や販売工程にまで広がり、ついには定型化できないと思われていた人の知的労働にまでおよんでいる。その背景にはコンピュータの進化がある。半導体の進歩が巨大なデータを扱うソフトウェアの進化を促し、作業を定型化できれば限られた人の関与で作業や業務を処理できるようになった。人に頼らざるを得ないかに見えていた複雑な作業をタスクごとに分解して、定型化する作業が急速に進んでいる。近ごろさかんに言われているAIとは定型化した作業をソフトウェアで処理することにほかならない。
作業を定型化できれば、熟練労働者を単純繰り返し作業をするだけの人たちで置き換えられる。作業者(労働者)が、作業を分解し定型化してソフトウェアを活用したシステムを開発する人たちと開発されたコンピュータシステムで定型化した作業をする人たちに二分化される。
コンピュータの処理能力が限られていた時代までは、企業や組織内の業務を通して専門知識を習得した人たちが中産(中間)階級の主体をなしていた。今コンピュータの能力の向上がもたらした禍が広がっている。コンピュータを相手に定型業務に携わるだけでは、専門知識を培うことができない。特別な知識や業務能力を持ち得ないということは、いつでも誰かに置き換えのきく人材を意味する。当然のこととして、雇用形態も正規雇用から非正規や契約社員に、さらにパートやアルバイトに変っていった。かつては社会の中核を形成していた勤労者が下層階級へと押し下げられ続けている。

現状の社会経済構造体制下では、競争社会のなかで能力を武器に生産性の向上に寄与し、そこから生み出される富の分配にあずかれる人と、あずかりえない、定型化業務に携わる(代替え可能な)大多数の人たちの経済格差が拡大するのを避けられない。半導体の進歩が続いてソフトウェアの能力が向上すれば、経済格差はますます大きくなる。産業革命がもたらした経済格差は科学的社会主義思想を生み出したが、現在急速に進んでいるコンピュータの応用がもたらしている社会の分断は何を生み出すのか、生み出しているのか?まさか安っぽいポピュリズムまでということもないと思うのだが。
これほどまでに大きな社会変化が起き続けているにもかかわらず、今の時代の思想や哲学の誕生の萌芽が見えない。近視と乱視に老眼の進んだ巷のオヤジの目がかすんでいるから見えないだけなのかもしれない。

ちょっと脇道にそれて巷の話題に触れておく。
加速するソフトウェアの進化から、近い将来専門職から定型化した作業に移行すると予想される職業がニュースになっている。
「コンピュータに置き換えられる職業」と入力してぐぐれば、想像にかたくない職種がでてくる。一つ分かりやすいサイトが掲載している(素朴な?)リストをあげておく。流行言葉のAI云々から始まっているが、別にAIということではない。AI、AIと言ってるが、要は人が開発したソフトウェアのことで、定型化した作業をソフトウェアで処理してしまうことを人工知能(AI)と呼んでいるにすぎない。
「AIの普及でなくなる仕事10選|理由や対策・協働体制を構築した事例を紹介」
https://aismiley.co.jp/ai_news/ai-replace-jobs/
<AIによってなくなる仕事例>
一般事務職、電車の運転手、スーパー・コンビニの店員、銀行員、警備員、ライター、通関士、会計監査、タクシー運転手、ホテル客室係、コールセンター業務
ここにWebでのデータ配信によって置き換えられる紙媒体の新聞や本などの様々な情報配信事業も加えなければならない。さらに電子書籍や情報であれば、箱のもの図書館もなくなりはしないにせよ大きくその数を減らすだろう。翻訳や通訳も外国語の教師も、さらに教師一般から学習塾も経済規模を保てるとは思えない。職種として消えてゆかないまでも、働き口の数として減っていく職業もあるだろう。

ちょっと想像してみてほしい。インターネットを活用して自分で勉強を先に進める生徒を文科省や教育委員会が決めた画一化した枠に止めておく手段の一つが小学校や中学校?とは思いたくないが、一個人の経験からにすぎないにしてもその可能性を否定しきれない。先にいってしまった生徒には授業が退屈でならない。「仰げば尊し……」という歌詞は巷の普通の人たちが情報を得る手段が限られていた時代の象徴のような気さえしてくる。Webの普及で教師や教授が軽視される時代になった。「先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃなし」が尊称を揶揄する言葉から蔑称を内包しだしたように聞こえる。

ここで従来からの社会思想の発展?の可能性について触れておく。
コンピュータの画面を見ながらの定型業務でも、生活してゆくのに充分な収入があればいいじゃないか、自由に使える時間も増えるし、社畜とは真逆の人間らしい生活をおくれる。ただ問題がないわけじゃない。実の仕事はソフトウェアがしているわけだから、いつでも誰かと置き換えられる職業で非正規雇用が増えて、正規雇用のような収入は得られないだろう。それは資本主義だからで社会主義(共産主義)になれば、あるいは厚生福祉の充実した社会にすれば、みんなが楽して豊な生活を実現できるという主張が聞こえてくる。

「みんなが楽して豊な生活を実現できる」社会にすれば問題がなくなるのか?人は何を思っていきていけるのかと考えると、人さまざまにしても次のような疑問がでてくる。
「みんなが楽して豊な生活」とは、極端にいえば屠殺される恐れがない家畜と似たような存在になることを意味しているような気がする。希望や夢を追いかける自由がなければ張りのある生活にはならないだろう。希望や夢といえば聞こえはいいが、俗なことばでいえば欲や野望、そこに羨望や嫉妬なんてものまでついてくる。でもその良俗合わせたものが人が生きて活きてゆく力を生み出すとしか考えられないのだが、考え足りないとも考え過ぎとも思えない。
2024/10/27 初稿
2024/12/22 改版
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
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