NKH朝のテレビ小説『あまちゃん』が終わった。舞台となったのは、岩手県北東部の久慈市。近来まれにみる人気沸騰のテレビ小説だっただけに、これから数多くの観光客が久慈市を訪れるにちがいない。まことに慶賀すべきことだが、久慈市の名物は海女(あま)だけではない。明治の自由民権期に民衆の手で起草された私擬憲法草案の中で最も民主的な内容をもつとされる『憲法草稿評林』が発見されたのが、この久慈市である。観光客の皆さんもぜひこの事実に目を向けてほしい。
私が初めて久慈市を訪れたのは1958年9月末のことだ。台風の余波で三陸沿岸に豪雨が降り続き、久慈市を中心に被害が出た。当時、私は全国紙の盛岡支局にいたため、その水害取材で派遣されたのだった。
当時の久慈市は、県庁所在地盛岡からみると陸の孤島ともいうべき辺地。盛岡から直通の鉄道はなく、盛岡から国鉄東北本線で隣県の青森県八戸まで行き、そこでやはり国鉄の八戸線に乗り換えて三陸沿岸を南下し、終点の久慈へというのが最速のコースだった。
滞在中、地元の人たちが「久慈地方には全国に誇っていいものが五つある」と教えてくれたことを覚えている。海女、種市高校(当時)の潜水科、琥珀(こはく)、木炭、それに“柔道の神様”三船久蔵十段であった。『あまちゃん』に海女、高校の潜水科、琥珀が登場したのはご存じの通り。
それから31年後の1989年5月、私はまた久慈市を訪れた。当時、私は自由民権期の私擬憲法草案について取材中で、その関連でここを再訪したのだった。
1880年(明治13年)から81年(同14年)にかけ、憲法起草ブームともいうべき熱っぽい運動が日本列島を覆っていた。当時は、まだ国会がなかった。このため、政府に国会を開設させよう、それにはまず憲法を制定させようと、全国各地で民衆が自らの手で憲法を起草する運動を始めた。その時起草されたものは私擬憲法草案といわれ、これまでに40~50点が発見されている(運動の高揚に衝撃を受けた明治政府は、運動に先手を打つ形で81年に「90年に国会を開設する」との詔勅を発表し、89年には明治憲法を発布する)。
これらの私擬憲法草案のうち、最も民主的な内容をもつとされているのが『憲法草稿評林』である。
発見者は、岩手大学教授だった森嘉兵衛(故人、日本経済史専攻)。1960代末に岩手県北部の歴史を執筆するため史料を探していた森のもとに、千葉県市川市在住の小田清綱さんから「小田為綱文書」が持ち込まれた。小田為綱とは清綱さんの曾祖父で、岩手県九戸郡宇部村(現久慈市宇部町)出身の政治家とのふれこみであった。
岩手の歴史に詳しい森も耳にしたことがない名前だった。森は「文書」の解読を進め、為綱が明治前期に青森県八戸で青年の教育にあたったり、東北総合開発のために尽力した政治家であったことを突き止める。1898年に衆院議員に当選するも3年後に62歳で病死したことも分かった。森は1967年、長男の嫁の森ノブさんと連名で「明治前期の政治思想について――小田為綱の思想を中心として」と題する論文を発表し、為綱の存在が初めて学会に知られるようになった。
「文書」の中から『憲法草稿評林』と題する冊子が出てきた。17枚つづりの和紙に毛筆でぎっしり文字が書き込まれていた。その中身は、なんと、1880年7月に当時の立法機関であった元老院で完成した日本国憲案第三次案(最終案)に、氏名不詳の人物(以下Aとする)が逐条的に批評を加え、そのうえ、やはり氏名不詳の人物(以下Bとする)が、第三次案とAの批評の両方に論評を加えたものだった。つまり、2人の人物が第三次案を批判するという形をとって、やがて制定される日本の憲法の内容はこうあるべきだと、それぞれ独自の憲法構想を展開していたのである。
森が受けた衝撃は大きかった。なぜなら、日本国憲案第三次案は1880年暮れに上奏されたものの、伊藤博文、岩倉具視から「西洋各国憲法を模倣するに熱中して日本の国体人情を無視している」との意見が出て不採択になり、公表を禁じられた、国家機密文書だったからである。それを、首都から遠く、東北でも辺地とされてきた土地の政治家が入手していたとは。
森は『評林』の筆者を為綱その人と考え、「小田為綱の『国憲批判』」と題する一文を1974年7月30日付の朝日新聞夕刊に寄稿した。これにより、『評林』の存在が初めて世間に明らかになった。
以来、幾多の歴史家がこの『評林』の研究に携わってきたが、2012年に『もう一つの天皇制構想――小田為綱文書「憲法草稿評林」の世界』(増補版、論創社)を著した日本政治思想史研究家の小西豊治さんによると、A、Bによる批評は日本国憲案第三次案の全般に及ぶが、とくに目を引くのは近代天皇制に関する大胆にして奔放な構想だという。
後の大日本帝国憲法よりはるかに民主的な内容をもっていた日本国憲案第三次案にしても、政体については「天皇主権」をうたったものだった。例えば「万世一系ノ皇統ハ日本国ニテ君臨ス」(第一条)「皇帝ハ神聖ニシテ犯ス可カラス。縦(たと)ヒ何事ヲ為スモ其責ニ任セス」(第二条)といった具合だ。これに対し、Aはこう書く。
「皇帝憲法ヲ遵守セス、暴威ヲ以テ人民ノ権利ヲ圧抑スル時ハ、人民ハ全国総員投票ノ多数ヲ以テ、廃立ノ権ヲ行フコトヲ得ルコト」
要するに、皇帝(天皇)が憲法を守らず、国民の権利を抑圧する場合は国民投票を行って退位させることができるようにしよう、というわけである。「国民に天皇リコール権を認めよ、という主張ですね」と、小西さん。
Aはまた「帝位継承」の項で次のように書く。
「他皇胤中ニ於テモ帝位ヲ承ク可キ男統ノ者ナケレハ、代議士院ノ預撰ヲ以テ人民一般ノ投票ニヨリ、日本帝国内ニ生レ、諸権ヲ具有セル臣民中ヨリ皇帝ヲ撰立シ、若クハ政体ヲ変シ(代議士院ノ起章ニテ一般人民ノ可決ニ因ル)、統領ヲ撰定スルコトヲ得」
男系の継承者が絶えた時には、国民投票によって国民から皇帝を選ぶか、または大統領を選べ、というのだ。小西さんは言う。「これまでに発掘されている民権期の私擬憲法草案のうち、天皇制に関して万世一系を絶ちうる可能性を示し、さらに、場合によっては共和制にしたらどうかとまで明言しているのは『評林』だけです」
一方のBも負けてはいない。
「(皇帝)自ラ法ヲ乱リ、罪科ヲ犯ス、為スヘカラサルノ所業ヲ為シテ、何ヲ以テ天下人民之レ是ヲ則ルコトヲ得ンヤ。然ラハ則チ天皇陛下ト雖、自ラ責ヲ負フノ法則ヲ立、后来無道ノ君ナカランコトヲ要スヘシ。然レトモ刑ハ貴ニ加フルニ忍ヒス。依リテ通常法律ヲ加フヘカラス。故ニ之ヲ責ルニ廃帝ノ法則ヲ立ツヘシ」
皇帝が法を破り、罪を犯した場合、貴人に刑罰を加えるのは忍びがたいから、自ら責任を負って「廃帝」とするという「廃帝ノ法則」を確立すべきだ、というのである。
Bは、軍事についても大胆な意見を述べている。
第三次案には「皇帝ハ陸海軍ヲ管シ便宜ニ従ツテ之ヲ派遣ス」とあった。軍隊の最高指揮権、すなわち統帥権は皇帝にあるという規定だ。こうした考え方は大日本帝国憲法に引き継がれ、第一一条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と明記された。つまり、天皇と軍部を直結させ、内閣から独立させたのだ。これが、いわゆる「統帥権の独立」である。
これに対し、Bは第三次案の規定に真っ向から反論する。
「皇帝ハ陸海軍及国民軍ヲ統轄シ、其軍制及用兵行軍ハ両院ノ議決ニ拠リテ之ヲ進退ス」。統帥権を皇帝でなく議会に帰属させよ、というのだ。「今から考えると、Bは後年の昭和軍国主義の台頭を見抜いていたと言えますね。なぜなら、この統帥権の独立こそ、戦火を次々と拡大していった軍部の錦の御旗でしたから」と、小西さん。
A、Bの意見に共通しているのは、君主制に対し厳しい民主的コントロールを考えていたということだ。その点で、『評林』は他の私擬憲法草案と比べて極めて異色と言える。
『評林』の内容が明らかになるにつれて、研究者の興味をそそるようになったのは、AとBがいったいだれか、という問題だった。Aについては、民権結社・嚶鳴社の青木匡ではないか、あるいは岩手の民権家・鈴木舎定ではないか、という意見がある。Bについては、小田為綱ではないかとみる研究者が多い。これに対し、小西さんはAを立憲改進党のリーダーで衆院議長も務めた島田三郎、Bを小田為綱と推定している。
AとBは果たしてだれか。彼らは日本国憲案第三次案をどうやって入手したか? 謎はまだ解けない。
私が久慈市を再訪した1989年には、為綱の生家はすでになかったが、市立中央公民館の前庭に為綱の顕彰碑が建立されていた。1982年に地元顕彰会の手で建てられたとのことだった。為綱は没後80余年にして郷土が誇る偉人として認められたわけである。
久慈市教育委員会によれば、4年前に市内小久慈町に久慈市歴史民俗資料室がオープン、そこに為綱に関する資料が展示されているとのことだ。
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