岩田昌征氏が「時代をみる」に「小野・岩井理論に見るマーケットの本質的不安定性」を書かれた(11月28日)。岩田氏が取り上げられた小野善康氏の『貨幣経済の動学理論』を読んだことがなく、同書に対する岩田氏の理解についてコメントすることはできない。しかし、小野氏の理論を「チャーム」であるとされることについては違和感が残る。理由は以下の通りである。
2008年以来の金融不安に関する小野氏の発言に何回か接したことがある。次のような発言が印象に残っている。
・2008年にアメリカの金融不安後の経済変動が極めて異常な事態(例えば「100年に一度の危機」)とされるなかで、小野氏はこれを「通常の景気循環にすぎない」とした(『世界』2008年12月号での発言)。
・小野氏は、「サブプライム問題もそれが金融危機の原因ではなく、(資産の膨張と暴落の)必然的現象がそのような形であらわれたにすぎない」ともした(『世界』2009年1月号、193頁)。
また、2006年頃から多くの論者がアメリカ経済を巡る不均衡問題を深刻に受け止めたが(例えば、「 …ドル不安の根っこには『米国の過剰消費』『中国の過剰投資』『グローバル経済の過剰流動性』という三つの過剰がある。そこにメスを入れない限り米国を巡る不均衡問題は解消せず、円相場が1ドル=100円をうかがう事態もありうる」という指摘─『FACTA』2006年7月号)、小野氏は『景気と国際金融』(岩波新書、2000年、118頁)では次のように主張し、アメリカの経常収支が構造的不均衡状態にあることは直ちには問題にならない、とした。
構造的赤字が問題であれば、それはその規模が過度になり、将来返せなくなるような場合に問題なのである。…しかし、そもそも米国の生産力をもってして、そのようなことが起こるとは思えない。…一国の富の蓄積という観点からは経常収支黒字と国内資本形成との合計が重要なのであり、情報通信分野などでの国内資本形成が十分になされているならば、経常収支赤字があってもかまわないのである。
これらの発言のいずれについても、「現実はそうではないのではないか」という疑問を感じる。例えば、2008年以後の経済変動はその克服のために各国政府や金融当局者がいまだに苦しみ続け、景気の2番底や、「ユーロの解体」という新たな不安が生じているという意味では、とうてい「通常の景気循環」とは言い難いのではないか。サブプライムと金融危機の関連に関しても、金融の現場から報告(例えば、ジリアン・テット『愚者の黄金』)を読めば、単純に「(資産の膨張と暴落の)必然的現象がそのような形であらわれたにすぎない」のではなく、むしろサブプライムに代表される、新しく開発された金融商品がバブルの発生と破綻を引き起こしたと言わざるを得ない。アメリカの構造赤字が問題にならないとは、当のアメリカ政府すら、考えてはいまい。小野氏のこうした発言がもし同氏の理論から出てくるとしたら、現実は同氏の理論と食い違うのではないかということにもなる。
Suzan Strangeはその著書 “ The Retreat of the State ” のなかで、「自然界の植物と同様に、理論や解釈は現実を観察する埃の中から生まれてくる」(p. xvi) と言っている。埃にまみれる「現実観察」において適合性を欠いているような理論であれば、その理論がそれ自体としてはいかに「チャーム」であっても、それは単なる「温室の理論」にすぎないのではないだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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