嵐の前、嵐の後始末──先週の新聞から(19)

 この報告書を「書き直す」ということは原則としてしないことにしている。第11信でも触れたことだが、「ろくに検討もせずに、勝手なことを書いている」のであって、「書き直す」ことなど最初から眼中に無いのである。しかし前便(第18信)は翻訳上の問題が生じたことから例外的に一度書き直した。そして書き直しの結果、「戦時のドル」の神話が崩壊したとする2月25日のWall Street Journal(WSJ)の記事に関しては、以下の文章を削った。

「WSJによれば、米ドルの代わりに逃避先になったのは、スイスフラン、ノルウェークローネ、カナダドルだというが、こんな小さな通貨が巨大な市場を持つ米ドルの代わりを果たすとはとても思えない。国際通貨市場は『嵐の前の静かさ』の状態ではないのか」。

 こんな抹消した文章を引っ張ってきたのは、3月1日にFinancial Times(FT)が、「『有事のドル買い』が見られない理由」というタイトルで、上述のWSJと同じような記事を載せているからである。FTは「日本円とスイスフラン[が]資金の逃避先としての魅力から上昇している」とし、日本円とスイスフランが逃避先になっているかのような印象を受ける報告をしている。「ノルウェークローネ、カナダドル」が日本円にかわったわけである。経済規模を考えれば、こっちのほうがまだ説得力があるが、それにしても「こんな小さな通貨が巨大な市場を持つ米ドルの代わりを果たすとはとても思えない」ということには変わりはない。国際的短期流動資金は逃げ場を探しながら、逃げ場が見つからず、結果として、動きを鈍らしているだけではないのか。FTは、「本当にドルが避難先としての魅力を失ったかどうかはまだ判断できない」とする市場関係者の発言も紹介している。日本の3月は冬が戻ったような寒さが続くが、国際通貨市場は、ジリジリとした苛立ちにさいなまされる季節がやってきているようだ。

 前便では、3月2日に行われる予定のポルトガルのソクラテス首相とドイツのメルケル首相の「ベルリン会談」をEl paísはどう伝えるのであろうかとも書いた。このときは、「ベルリン会談」の予定を報じたのが、El paísだけであったから、同紙のことだけを挙げておいたのだが、実のところ欧米各紙が「ベルリン会議」をどのように伝えるのか興味を持っていた。しかし、3月2日から4日にかけて、いつも私が眺める新聞でこの会談のことを報じたのはやはりEl paísだけであった。ヨーロッパの果ての小国のことに関心を持って報じる意味はないということであろうか。それとも、どうせ結果は決まっているのだから、あえて関心を寄せる必要はないと理解すべきなのであろうか。あるいはまた、何も分からないから、伝えることができないのか。

 3月3日のEl paísは、この会談の予定を報じたときの数倍の紙面を割いて、会談の結果を伝えているが、それを読む限り、上記の三つの推測のいずれが的を得ているのか、判断できない。会談後の共同記者会見では、肝心なことは何も語られなかったからである。 El paísによれば、メルケル首相はこれまでのポルトガル政府の努力を賞賛し、一層の財政緊縮措置を求め、ソクラテス首相は、2月のブリュッセルでのEC首脳会議で提案されたものの、激しい反対にあって、3月の首脳会議に持越しとなった、政策協調に関する条約案を指示するとした。

 こんなことは、最初から分かっていたことである。それだけのことであれば、メルケル首相がソクラテス首相をベルリンに呼びつける必要はなかったはずである。そして、もし本当に両首脳のベルリン会談で話し合われたことがこれだけであったとすれば、この会談は報じる意味がない。ドイツの3誌紙(Spiegel、Zeit、Handelsblatt)が一行もこの会談を報じなかったことは、当然の判断だったといってもいい。

 しかしそれは、メルケル首相が記者会見で、ポルトガルがヨーロッパ金融安定基金を利用する前提に関しては会談では何も話されなかったと言ったことを額面どおりに受け取ることが前提になる。名うての記者がそろっている上記の新聞・週刊誌がそんなことを信じているとは到底思えない。第一、もし本当にそうだとしたら、財政の立て直しが待ったなしになっているときに、こんなくだらない会議のために一体どうしてソクラテス首相はわざわざベルリンにまで出掛けて行かなければならなかったのか、誰も説明できない。ドイツ人であるメルケル首相は秘密を墓場まで持っていくかもしれない。ソクラテス首相も固く口止めされているかもしれない。 El paísによれば、ベルリン会談後もポルトガル国債の利率は危険水域を脱していないというが、当然のことであろう。会談は国際金融市場に何も安心感を与えなかったのだから。米ドルと同様、ユーロの方にも「嵐の前の静かさ」が感じられる。

 ベルリン会談の記事を探していたら、3月3日付けのGuardianにコスタス・ラパビトサス(Costas Lapavitsas)氏の論文が掲載されているのに気がついた。ラパビトサス氏の名前を知っている人間は日本ではあまり多くないかもしれない。同氏は、今はロンドン大学東洋アフリカ研究所にいるが、数年前まで日本で研究をしていた。この報告を読まれる方の中には、「ああ、彼か」と思いだされる人もいるかもしれない。

 氏の指摘は手厳しい。ユーロ圏の周縁諸国(PIIGSと呼ばれる諸国)は借金に頼って経済成長を続けたが、金融危機に陥ると共通通貨のゆえに為替相場の調整を行うことが出来ず、引き締めによる「内的調整」しかできなくなった。ここまではクルークマン教授らの指摘と同じである。だが、ラパビトサス氏はここからさらに踏み込む。財政引き締めという金融危機への対応コストは、2001年から2007年の金融上のドンチャン騒ぎ(Orgy)とは無縁であった労働大衆に負わされている。収入の低下や失業の増大という形で、である。その上、彼らが負うことになった負担の内容について彼らは何も知らされていない。選挙でこの問題に光をあてようにもそれは全く不十分である。氏はそう批判したうえで、市民や組織労働者の代表も加えた独立した監査機関を設置して、野放図に貸し出しを続けた金融機関の調査を行うべきだと要求する。

 その通りであろうと思う。しかし、正当な要求がそのことだけを理由にしては実現しないのが現実である。失業した労働者は次の日から暮らしに困るが、破綻した巨大金融機関の経営責任者は、辞職する場合は莫大な「退職金」を受け取り、残った者には、公的資金から巨額の「ボーナス」が支給される。そうしないと優秀な人材を引き留めることができないというのがもっともらしい理由とされる。「優秀な人材」が危機を引き起こしたにもかかわらずである。「国境なき医師団」のスローガンは「国の境目が生死の境目であってはならない」というものであったが、金融にあっては、「貸し手であるか、借り手であるか、あるいは金融とはそもそも無縁であるかの違いが、天国と地獄を分ける」のが当然なのである。「金融とはそもそも無縁である」である身としてそのことを痛切に感じる。そしてそのことが一向に改まらないというのが不思議である。(2011/03/09)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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