前口上
「死の哲学」について
左翼の哲学を復興させる前に、「死の哲学」を考察しなくてはならない。
それは、ハイデッガーの「存在と時間」を小難しく問う以前に、山田風太郎「人間臨終図巻」の中に見出される「死」「極限」と「日常性」の最初の素朴な関わりと群像である。
何故、この視点が理解されないのだろうかと常々、表現を凝らすにはどうすべきかと立ち止まる。
「死は孤独である」。
それが、最初の錯視であることを、「人間臨終図巻」は、群像と既在の死の在り方の中で示している。
「死の哲学」について(二)
「われわれの見方によれば、哲学は存在しない。それをどんな形のもとに考察するにせよ、科学の影であり、人類の陰うつな卓越性の証であるものは、実体化された抽象にすぎない。」
「(それであっても)実は、いくつかの哲学があるのである。」
(サルトル「方法の問題」)
サルトルにとっては、その幾つかの、あるいは、一時代に一つの哲学とは、マルクス主義に直結して考えていたのであるが、今は、その様な事の為に、この一文を引用しているわけではない。
死を科学的に分析する事の中にも限界があり、
モーガン・フリーマン 時空を超えて「第2回 死後の世界はあるのか?」
NHKスペシャル|臨死体験立花隆 思索ドキュメント死ぬとき心はどうなる
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0914/
仏教的な輪廻思想にも直結しそうな死後も生きる延長としての話になってお茶を濁す事にもなりかねない不満があるのだ。
無神論的に真科学的に「死」を問う事、「死」としての「透視」を持って「生」を見つめる事こそが最も重要な哲学であり、それをなくして、真摯な良心的な生き方としての「論理学」も「極限」も成立しない事の問いの中に、「左翼」としての「良心」もあるんだとハイデッガーからサルトルへの転換があったのだと言う事を未来永劫、前提としなくてはならないのではないだろうか?
それを、僕自身が、「純粋理想としての批判」としての最初の表現に到達する立場であり、
ハイデッガー「存在と時間」で語られた「死」と「良心」が、ナチズムとしての限界を持っていた批判、更に、歴史的スターリニズム、全体主義として限界を持っていた故に、左翼の今日的沈黙に対して、ソクラテス的弁証論として、語り分けていく事を俎上に載せたいとするだけであり、それは、可能な思考であると感じている。
マルクスの理想とスターリニズムの相違は、新左翼を待たずしても誰もが、区分したいとしているものであろうからである。
だが、それが、適わず、いたずらに、時を送っている巨大な壁と言うものは何であるのかに言及していかねばならないのであるが、
繰り返し、「死の哲学」とこの問題構制が関わってくるのかをことあるごとに、形を変えて、「前提」されるであろうことを述べなくてはならないが、今回は、序論としてだけ留めて、また、先に、進まざる負えない。
(1)政治と経済:優先課題は何か
政治と経済を結び付けるものが、哲学であるとされるかもしれないが、既に、ここでは、サルトルの言葉を引用している。
「哲学は存在しない」「科学の影である」この前提からまずは、開始したい。
政治と経済を接着する人間的視点である「哲学」をまずは、排する。
政治的課題と経済学的課題、どちらが、優先課題であるのか?
それを問いてみる。
アダムスミス以来か、「政治経済学」と言う思考が、流布もされているが、まだまだ判然としない結合でしかない段階ではないだろうか?
なんら、テキストされたる体系を持たない学ばれない融合であり、「独善」とされる思考でもあるのではないだろうか?
社会主義、共産主義的思想であるとするなら、「日常的」であり、大衆的である理解の届くものである必要を有するはずである。
エリート思想であったり、大学院以上でなくては理解できないものであるなら、それは、大衆思想としての社会主義思想とはなりえるはずもない。
難しいものをわかり易い多数派の思想として初めて、社会主義思想としての地平に届くものであるのだ。
それは、何によって、可能であるのか?
政治と経済:優先課題は何か(二)
細部の疑念については、繰り返し語り変えながら答えていくとしても、まずは、現在ある「わかり易い」政治と経済:優先課題、解決を早急に着手しなくてはならない実践、行動規範たる方向性は何であるのかについてまずは、言及していきたい。
それこそが、これまで語ってきたものである「民主主義未満」問題としての政治学的問題点であり、そして、経済学的には、「貧困」であり、ピケティ的に問われている「格差」となるわけである。
形式としての「民主主義」ではなく、《利害対立》としての理解を前提としたる政党党派としての政治学は、如何にして流布され、大衆、庶民、人間存在へとアイディンティイとして、基礎づけられるのかの問題構制そのものを仕上げられるかと言う問いに他ならない。
また、経済的にある「貧困」問題は、「教育格差」として現れている事が、既に、ピケティ氏によって指摘されているところだ。
政治的問題点である「民主主義未満」と経済的問題点である「貧困」は、一致しているが、政治学体系と経済学体系を分離して仕上げていこうと言うのが、ここでの立場となっている。
これも、繰り返しとなるが、サルトルの「方法の問題」の一節から開始しているのであり、接着剤としての哲学も淡い無形テキストのままの「政治経済学」という視座も確立していない前提から開始したいとしているからだ。
(2)経済大国と時事段階論
一気に、全てを語る事は出来ないので、時事的に象徴的な問題点から過去へと戻る手法を採用したい。
4月12日(日曜日)段階の問題点として新しい歴史的段階として、下記のニュースが、大きな進展として取りざたされねばならないわかり易さを持っているのではないだろうか?
中国とキューバは、現在でも社会主義の痕跡を留める?成功したる一例?とされてもいる好意的な視点を含んで左派、左翼の国際的な関心事でもあり続けているからそれが、歴史的に、どの様な意義を持っているかを示すことによって思想広報性をも同時に、満たすものとも考えられるのではないだろうか?
NHK日曜討論4/12「中国主導 AIIBをどう見るか」
http://www4.nhk.or.jp/touron/x/2015-04-12/05/72539/
米・キューバ首脳が歴史的な首脳会談、冗談も飛び出す
キューバ革命思想の行方――「帝国主義」アメリカとの国交正常化の背景
森口舞 / ラテンアメリカ政治
http://synodos.jp/international/12473
まだまだ流動的な要素もあるのだけれども、そもそも中国は、いまだに、共産主義の国と言えるのか?
または、共産主義へは到達していなくとも社会主義的途上にある、「人は、能力によって働き、そして、能力によって受け取っている」段階にあると言えるのか?
その割には、巨大な格差は、中国にして更に、深刻な状況でもあるだろう。
政治と経済:優先的課題を考察しているので、「優先」されない課題を省きながら核心に迫る事を一つ一つ行っていかねば混乱したまま先に進めずこれまでの思考停止から先に進めないだろう。
大国として第二位、アメリカと競い合う中国。
そして、社会主義国として平等の上では、成功を収めていてファンも多い、ゲバラ、カストロの世界、革命過程から現在までの道程を示しているキューバ。
本来は、同じ位相の問題意識にあるのではないだろうかと推測する。
まだまだ憶測の段階でもあるので、諸先生のアドバイスをお願いしたい点でもある。
アメリカ、日本、ヨーロッパ各国の技術革新は、資本主義の賜物だけであるのだろうか?と言う問いもあるのだけれども、その視点は、まず、置いておくとして、
ソビエトの後ろ盾をなくしたキューバが、アメリカから欲しいものとしての技術力があり、貿易であるとしたなら、
COCOM
さえなければ、北朝鮮でさえ、経済的に追い込まれる事や思想統制として国体維持としての一種、かつての日本の様な鎖国主義的状況にありはしないのではないだろうか?
それは、
社会収斂論
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%8E%E6%96%82%E7%90%86%E8%AB%96-1544454
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~satoumit/welfare/2.html
としての段階にあると言えるのではないだろうか?
北朝鮮そのものが、技術援助や経済援助は欲している。
イギリスや日本の様に王朝が残ろうとも技術援助は、経済大国としての国家の富裕としての方向を持つであろうことは、
4月12日段階の中国やキューバと同じ道であり、伊藤誠先生や池上彰氏の語る「高度成長時代」と「経済大国」としての国家としての富裕の方向性である事に相違はないのではないだろうか?
それを阻んでいるものは何であるのか?その問いであるのだけれども、ここにも、更に、考察せねばならない落とし穴があろうことである。
経済大国となっているアメリカにも中国にも日本にも「格差」があり、「貧困」があると言う落とし穴こそがこれである。
「貧困」の実相としての研究分析を更に、推し進めなばならないが、
人は、よりよく生きなくてはならないと同時に、「自らの真実に生きなくてはならない」故の「死の哲学」から成り立っている事への「覚醒」から社会主義への道、良心を手にするのだから、
「貧困」からの救済としての狭義の問題構制であってはならない。
それは、既に、その社会の奴隷となる道である。自身が、主人であると思っている者さえ奴隷であるのだ。(ルソー「社会契約論」の言葉の通り)
「日常的人間」から「歴史的解放された人間像」としての「覚醒」「解放」としての「到達」としての「貧困からの脱出」は何によって手にされるのか?
その問題である事を既に、前回にも述べている。
グローバリズムの中で、「搾取」「格差」「階層化」されている状況の問題が、途上国的である中東にもアジアにもフィリッピン、イメルダ夫人的贅沢、周知している事実としてある事、それが、経済大国反乱としての民衆側の論理として、《利害対立》アイディンティティとしてのピケティ経済学からマルクス再生の方向は、正しいのだと言う
『純粋理想としての批判』を体系的に明確化していかなくてはならないのが、左翼の立場に他ならないと言うわけである。
(2)フォーラム4限界、植草一秀×古賀秀明日本政治立て直しと政官業アメリカ支配論
日本国内問題について更に、言及しておこう。
フォーラム4(動画)1時間
http://www.ustream.tv/recorded/60603485
公式ページ
この中でも語られている様に、資本主義=経済大国賛歌が基本となっている。
それは、経済大国エゴは、日本人共通のエゴでもあり、限界内で語られている新自由主義ならぬ空想的社会主義(改革はするが戦争はしない=階級闘争はしない)でしかない事は、更に一歩進めた植草一秀ブログによって理解されるのだ。
つまり、簡単に言うとそれでは、《利害対立》を基調とした政党政治を復活させることは出来ないと言う事である。
植草一秀氏の方が、
民権Japan=PPI(民権党創設構想)の提案
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/japanpeoples-pa.html
《「人民党」ではイメージがやや暗いとの意見もあった。
そこで、主権者の党としての「民権党」創設を提唱》ともあるのだが、言葉はどうでも良いのだ。
問題は、帝国主義との戦いであり、政官業アメリカ帝国主義としての独占、富裕層の格差的支配の問題である事を、政治学者である植草先生の方が熟知し、徹底していることが伺えるのである。
株価上昇でも市民の生活実感は不況そのもの
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-aea4.html
TPPに前のめりAIIBに尻込みの対米隷属外交
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-0af4.html
植草先生自身もピケティ経済学に言及している。
更に、「競争」「市場」についての誤解として、資本主義の延長としてのマルクス主義「資本論」体系であり、まさに、「公正な上での競争」は、社会主義及び真性民主主義の土壌でしか完追されないのだと言う論理学的理性論を明確にすることは可能であると考えている。
しかし、先を急ぐことは今はやめよう。
(3)放送大学と左翼体系テキストとしてのちきゅう座読本提案
一愛読者としての資本主義の中のちきゅう座提案となるのであるが、今日、日本の空洞は、進んでおり、オウム事件20周年として、ヨガから新興宗教へと若者が、自分探しとして迷っているとの報道もされている。
更に、資本主義の餌食であるオレオレ詐欺被害が、被害額が、毎年広がっている中で、『純粋理想としての批判』たる左翼のテキスト化が急がれているはずである。
それは、どの様に、鍛えられるべきか?
それは、それぞれの学習会からテキストへ。
更に、ユーチューブなどへ『資本論』講義の広報などとして、根本を理解へと進める事から始められるだろう。
放送大学の方法論がある。
http://www.ouj.ac.jp/?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc&utm_campaign=shimei
放送大学大学院
http://www.ouj.ac.jp/hp/gakuin/
「途上国を考える」
「イスラム世界とアメリカ」(高橋和夫教授)(よくイスラム国問題のコメンテーターとして見かける方)
「現代経済学」などなど
本来は、良い図書を左翼側が作成し、金を集める、人気を集めるなら問題は、解決するのであるが、まだまだ、インターネット技術的にも出版技術、メディア技術的にも未熟な段階にあるのを如何に克服して、小中国、キューバとしての民衆の意識を高めるのかの問題となっているだろう。
資本論やマルクス経済学が、今や金にならないものと大学の授業から外されているとされるが、就職を前提とした技術を狭められている問題点がある事を是正させていく事。帝国主義的死せる教育を撤廃させ「生きた教育」「知識」としての人間回復を左翼は、テキスト化していくべき時である。
それを、是非、
第10回ちきゅう座総会(ちきゅう座運営委員会からのご通知・ご案内)
https://chikyuza.net/archives/52290
こちらにて、余すところなく「人間臨終図巻」的真摯な群像的連帯として総覧会議とされるならそれこそが、日本の真性良心社会主義としての第一歩となるはずではないかと喜ばしい事この上ないように想うのだ。
その前に、
4・13ルネサンス研究所定例研究会―理論と実践について(アルチュセールの哲学を素材に)
https://chikyuza.net/archives/52204
4・18『労働組合で社会を変える』出版記念討論会(3月4日掲載)
https://chikyuza.net/archives/51318
社会理論学会第109回月例研究会(2015年4月研究会)(2015年4月25日(土) 14:00~17:00 、13:10より編集委員会・理事会)
https://chikyuza.net/archives/51906
4・25<変革のアソシエ>シンポジュウム「戦後70年―東アジアと日本の選択」
https://chikyuza.net/archives/52226
『さあ「資本論」を読んでみよう』著者余斌氏講演会(2015年4月26日(日)午後2時より)参加費500円
https://chikyuza.net/archives/51924
この様に、ちきゅう座学習会は続いている。
何とか、4月18日には、東京に戻れそうなので、労働組合論からご高説賜れたならと楽しみにしている。
昨今、文化論的に、日本のアニメも残酷で毛嫌いされつつあると中国発の情報もある。
手塚治虫、白土三平、梶原一騎の文学的にも良質であった漫画アニメの草創期から、ドラゴンボール的幼児性の延長、デスノート的進撃の巨人的不毛なSFとして、小手先化しているのは事実でもあるのだ。
SFとしてもハインライン、アシモフ、クラークの方が、良質な未来史であり、映画の世界もハリウッドのリメイク的衰退期に入っている事を明確にしなくてはならない。
文学、児童文化、映画もまさに、資本主義的終焉であり、成長できない段階に来ている事を「論より証拠」としてみせつけなくてはならない段階に来ているのである。
革命は、不可避な段階に来ているのだ。
マルクス生誕祭(こどもの日)まで、あと22日である。