二〇〇二年のクリスマスにボストンにある子会社に赴任した。七十年代後半だから随分前になるが、ニューヨーク支社に駐在していたときに何度か行っていて、知らない街じゃない。毎週のように中西部まで飛び回っていたが、ボストンほどイヤな思いをした街はなかった。
街の中心には歴史を感じさせる建物が並んでいる。チャールズリバーに沿ってちょっと西にいけば、ハーバードとMITが並んでいる大学街にでる。どこにも高尚な文化に支えられた落ち着いた華がある。ところがそこには、観光のような短期の滞在では気づかない、中西部のアメリカ人からできれば遠慮したいといわれる日常がある。人種のサラダボールの感のあるニューヨークの猥雑さの代わりにお高くとまった陰湿な人種差別がある。ミシシッピやルイジアナに行けば、あからさまな人種差別を受ける。あからさまにはストレートな嫌悪ですむが、ボストンで遭遇する人種差別には、ヨーロッパに対する憧れと表裏一体の劣等感に大学街が生み出す慇懃な姿勢が混ざり合っていて吐き気をもよおす。
アメリカでは公共の交通機関はのぞめないから、車がなければ生活がなりたたない。社長の立場で赴任しても会社の経費で賄えるのは一台までで、オヤジが事務所に出ていってしまえば、家族はアパートに軟禁状態に置かれる。通学はスクールバスでなんとかなっても、ちょっとしたことで子供の送り迎えが必要となることも多い。牛乳一本、消しゴム一個でも車がないとどうにもならない。
女房の車は個人の持ち出しになる。拙い経験からだが、慣れない土地で即の実績を求められる立場におかれると、公私ともに日本では想像できないストレスをかかえた毎日になる。防ぎようのないストレスを多少なりとも緩和しようとすれば、それなりの費用がかかる。駐在すれば経費や何やらは会社持ちで、多少の貯金はできるだろうと多くの人たちが想像しているだろうが、三年やそこらの駐在では持ち出しになる。
赴任直後のバタバタも落ち着いてきたが、できるだけ早く女房に車を用意しなければならない。学校やお習い事の送り迎えと近所の買い物だから、カローラで十分とトヨタのディーラーを探して出かけて行った。
日本で発行されたアメリカの金融機関の名のついたクレジットカードの利用履歴(信用)は提携した日本の金融機関にしか残らない。居住期間ひと月たらずで、アメリカの金融機関の信用はなにもない。銀行ローンで車とはならないのを知っていたから、車や当面の生活を考えて、赴任前に日本の銀行のアメリカ支店にそれなりの額のドルを振り込んでおいた。家具も車もキャッシュ一回払いで買うしかない。
住んでいる街の端にあるトヨタのディーラーに入って行って、おい、これはないだろうと思った。客も少なくブラブラしているにもかかわらず、四、五人はいるセールスマンに無視された。カローラなんか、多少オプションをつけたところで一万ドル(当時の為替レートでざっと百五十万円)そこそこにしかならない。しけた客だからしかたないと思いはするが、それにして無視はないだろう。小柄で貧相なアジア系、ひと目で大した金にはならないとふんでいる。こっちは一日も早く車がほしい。どうしたものかと思っていたら、同僚にお前相手してやれとでも言われたのか、大柄のアジア系がでてきた。一見チャイニーズに見える。アジア系のよしみではない。白人セールスマンに押しつけられたのが顔にでていた。
「カローラを一台、今日にも欲しいから、在庫を見せてくれないか」
「銀行ローンの準備はできてるのか」
なにを考えてんだかという口ぶりだった。はじめて聞く訛だった。チャイニーズの英語じゃない。
「こっちにきてまだひと月ほどだから、銀行口座は開いたばかりで……」
言い終わらないうちに、
「銀行ローンを組むには、それなりの信用を付けるのが先決なんだよ」
親切そうに聞こえなくもないが、ボストンで身につけてしまった慇懃な人を見下した言い方だった。
「日本の銀行には信用があるけど、こっちにはないから……」
そんなこったろーって思ったよという口ぶりで、
「いいか、先ず取りやすいクレジットカード、そうだなガスステーションやデパートでもいいから、まず一枚取って、そこで信用をつけて、その信用をもとに銀行にいってローンの相談をする。このステップを踏まないとここじゃローンを組めない」
アメリカに渡ってきたときの苦労を思い出しながらという学芸会のような調子でご指導を頂戴した。
帰り際に学芸会の延長のような口調で、よせばいいものをバカ丁寧に訊いてしまった
「ところでどこのご出身で」
訊かれたくない一割二割をぐっと飲みこんで、偉そうな口ぶりで、
「モンゴルだ。知ってるか」
おいおい、世界に疎いアメリカ人と一緒にするなと思いながら、ウンと頭を下げて出てきた。
似たようなことはSearsでもMacy’s(どちらも日常的につかうデパート)のレジでも経験した。どちらもインド系(パキスタンかバングラディッシュかもしれない)に見える店員で、アメリカでの買い物の仕方とでもいうのか、クレジットカードの取得からディスカウント云々……。親切心からなのかもしれないが、口調には先輩が後輩を指導してやるという上から目線の差別を感じた。
言葉の不自由な小柄で風采の上がらない難民ともで思われたのだろうが、そこには常日頃人種差別をされてきた人たちが自分たちより遅れてやってきた人たちへの、あからさまな差別がある。間違いなく差別で思い過ごしじゃない。京都のヤクザと連れ立ってマンハッタンの夜の闇を徘徊した経験はだてじゃない。
差別されてきた人たちが差別する側に回って、バームクーヘンのように差別が階層をなしていた。差別は日本でもどこでもあるが、日本でもアメリカでも階層をなした小社会には生理的な嫌悪感がある。どの社会からも意識して距離をおいて、意識的に疎外された一人として生きてきた。
p.s.
お世話になった公認会計士はサンフランシスコの生まれのドイツ系アメリカ人で、奥さんはマカオの人だった。ボストンの人種差別の話をしたら、あるある話になってしまった。
「もう十年以上前になるが、今の家を買うときに女房がローンの相談に銀行にいったら、相手をしてもらなかった。もう二十年近く付き合っている銀行で知らない相手じゃないのに、どういうことだとオレがいったら、マネージャがでて来てすんなりローンが決まった」
英語の不自由な人じゃ気がつかないかもしれないが、そこそこ分かる人なら一週間もしないうちに、一度や二度はそれは人種差別じゃないかっての出くわす。南部や田舎町のようにあからさまじゃないけど、ボストンにはヨーロッパに憧れた劣等感から生まれたハイソな差別がある。ロスやニューヨークとは違う。
2023/5/20
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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