以下は、日本の官僚が前例踏襲の行政を漫然と続けているのに対し、市民たちが事態の深刻さを正確に認識して声を上げ、政策を変えさせた一つの事例の記録である。
◆残留基準は使用者の便宜優先で決められる
厚生労働省が3月18日、①いったんは承認した農薬の残留基準の大幅緩和案を再審査する、②残留基準の安全性審査を4月から厳しくする――と発表した。昨年10月に実施したパブリックコメント(意見募集=以下パブコメ)を受けての方針変更で、パブコメが形だけのものになっている霞が関では異例の対応だった。この方針変更はなぜ行われ、どんな意味を持つのだろうか。
問題になったのは、農薬のトップメーカー住友化学が「ダントツ」などの商品名で販売しているクロチアニジン。世界で販売が急増している新世代の農薬・ネオニコチノイド(以下ネオニコ)系の一つだ。
住友化学はこの農薬の販売を促進するねらいで「登録内容(使用方法)の変更」を農林水産省に申請した。たとえばホウレンソウなら、アブラムシ防除徹底のため、収穫前日まで4回も使用できるようにするといった内容だ。
こうすれば、野菜には虫食い穴などがつかず、高く売れるようになる。半面、作物に残留する農薬が増え、現行の残留基準を超えてしまうので、緩和(引き上げ)が必要になる。
このような場合、認可の手続きは図のように進められる。
まずメーカーが作物別の残留試験成績を添えて農水省に申請。すると同省傘下の独立行政法人・農林水産消費安全技術センター(FAMIC)が、新しい残留基準値の案を定め、厚労省に承認を要請する。そのさい新基準は、メーカーの残留試験で得られた最大残留値の約2倍(1.5~3倍)に定められる。使用者の便宜を考えての措置だ。
今回のホウレンソウの場合、最大残留値が27ppmだったので、その約1.5倍の40ppmが基準案とされた。現行の3ppmに比べ13倍にもなる大幅緩和で、FAO・WHO合同残留農薬専門家会議(JMPR)が定めた国際基準(2ppm)と比べても桁違いの高さだ。
要請を受けた厚労省は、その農薬が基準案通りに、すべての適用作物に残留していたとしても、国民の健康に影響はないかどうかを、薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会農薬・動物用医薬品部会に諮って結論を出すが、影響ありと判断されることはまずない。
厚労省は残留農薬量が、慢性毒性の指標であるADI(一日摂取許容量=注1)に日本人の平均体重(約53キログラム)をかけて算出した「摂取許容量」の80%以下という条件さえ満たしていれば、影響なしと判断するのだ。
クロチアニジンの残留基準案はこの条件を満たしていたため、昨年6月の農薬・動物用医薬品部会で承認された。ふつうならこれで手続きは事実上終わるところだった。
◆子どもにホウレンソウを食べさせられなくなる!
ところが、昨年10月にパブコメが始まると、異変が起きた。危機感をもったグリーンピース・ジャパンや反農薬東京グループなどの環境NGOが意見の提出を呼びかけたところ、厚労省に反対意見が殺到したのだ。
通常は10件程度の意見が寄せられるだけなのに、1か月の募集期間内に1656件もの反対意見が届いた。一方、賛成はたったの1件だった(内訳は情報開示請求をしたグリーンピース・ジャパンによる)。
反対の主な理由は二つだった。一つは、わずかな量を子どもが食べただけで急性中毒を起こす可能性があるほど危険な残留基準が、ホウレンソウなどいくつもの作物に設定されていたことだ。
世界では1990年代以降、慢性中毒に加え、1度にたくさんの量を食べたときの急性中毒も注目されるようになり、欧州連合(EU)はほとんどの農薬についてARfD(急性中毒基準量=注2)という指標を定めている。
この指標で計算すると、40ppmのクロチアニジンが残留しているホウレンソウを子ども(1~6歳、平均体重約16キログラム)が食べる場合、たった40グラム(1株半くらい)で急性中毒を起こす可能性がある(注3)。これでは安心して子どもにホウレンソウを食べさせられなくなってしまう。
もう一つの理由は、EUがネオニコ系農薬への規制を強めつつあることだ。
ネオニコ系は農家には便利な農薬だが、殺虫力が強く、重要な授粉昆虫であるミツバチ大量死の原因の一つと指摘されている。この点に注目してEUは昨年12月、クロチアニジンを含む3種類のネオニコ系農薬の使用を厳しく制限する規制を始めた。
さらにネオニコ系農薬については近年、ごく低濃度でも胎児や乳幼児の脳神経系の発達に影響を及ぼす可能性のあることが分かってきた。このため、欧州食品安全機関(EFSA=日本の食品安全委員会に当たるリスク評価機関)は昨年12月、現行の許容基準では安全性が十分ではないとし、アセタミプリド(日本曹達が開発、商品名はモスピランなど)を含む2種類のネオニコ系農薬についてADIなどの引き下げを勧告している。
◆「急性中毒基準量(ARfD)」を設定する
このような問題を指摘されると厚労省も動かざるをえない。農水省や食品安全委員会と協議のうえ、クロチアニジンの残留基準案を再審査することにした。まずパブコメを食品安全委に送って検討してもらうという。
併せて、数年前から検討していたARfDの導入に踏み切った。残留基準の安全性審査でこれまでは慢性毒性だけを考慮していたが、今後は急性毒性も考慮することにしたものだ。そのため食品安全委に対し、優先順位の高い農薬から順次、ARfDを設定するよう要請した。
この政策変更によって、住友化学はクロチアニジンの販売促進策に「待った」をかけられた。そして、すべての残留基準の審査が現在より厳しくなることは間違いない。農薬メーカーはこれまで以上に安全性に配慮して開発や販売をしなければならなくなるだろう。
もっとも、残留農薬基準が今後どの程度厳しいものになるかは、まだわからない。それはARfDがどう定められ、残留基準の審査にどう使われるかにかかっている。
反対運動を展開したグリーンピース・ジャパンは今度の結果について「市民の声が厚労省を動かした」とし、「今後も声を上げ続けよう」と呼びかけている。
注1 ADI=生涯にわたって摂取し続けても健康への悪影響はないと推定される量。
注2 ARfD=一日にこれ以上摂取すると中毒を起こす可能性がある量。日本では2農薬について試験的に設定されているだけ。急性参照用量と訳されているのは誤訳で、急性中毒基準量が正しい。
注3 EUのクロチアニジンのARfDは「体重1キログラム当たり1日0.1ミリグラム」。
(『週刊エコノミスト』2014年4月29日号に掲載された解説記事に加筆・修正したものです)
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