常岡さんの解放を喜ぶ -タリバンが諸悪の根源か-

アフガニスタンで武装勢力に拉致、監禁されていたフリージャーナリスト、常岡浩介さん(41)が5カ月ぶりに解放され、元気な姿で帰国した。常岡さんの拉致が伝えられて以来心を痛めていた一人として、無事の帰国を心から喜んでいる。また長期間の監禁に耐え、殺害されるかもしれない恐怖にさいなまれながら、無事解放の日を迎えるまで頑張り続けた常岡さんの精神力に敬意を表したい。

常岡さんの帰国第一声は、家族や友人に「とんでもない心配をかけた。本当に申し訳なかった」という謝罪の言葉だったが、同時に「自分を拉致した犯人は(反政府武装勢力の)タリバンではなくて腐敗した軍閥だ。日本政府を脅迫してカネか何かを得るのが目的の拘束だった」との新事実を明らかにした。常岡さんは以前にもアフガニスタンを現地取材した経験のあるベテランジャーナリスト。今回は北部クンドゥーズ州でのタリバン取材が目的だったと言うが「タリバン以外の勢力がどれほど危険か分かっていなかった。完全に自分の失敗だ」と反省の言葉を口にした。

常岡さんは帰国の途中、経由地のドバイでインターネット上の通話媒体ツイッターに送信「犯人はタリバンでなく、カルザイ大統領とつながりのある現地の腐敗した軍閥集団だ」と述べた。それによると「犯人たちはタリバンになりすまして日本政府をゆすった。(犯人の正体を知った)私は口封じのため処刑されると覚悟していた」という。また「政府中枢の人間が日本人を拉致して日本政府をゆすったのだから、アフガン当局が真実を発表するはずがない」とも述べた。

日本のマスコミ報道に触れている限り、アフガニスタンで暴れている悪者はタリバンだけのように思える。しかし常岡さんの発言で明らかなように、30年来の戦乱で荒れ果てたこの国にはタリバンを騙る悪者があちこちにのさばっている。一昨年8月、アフガニスタン東部で医療や水利の活動をしているNG0「ペシャワール会」の伊藤和也さんを拉致して殺害した武装集団もタリバンではなくて、ヒズビ・イスラミ(イスラム党)を名乗る軍閥だったことが判明した。

1980年代のアフガニスタンでは、アフガン共産党政権防衛のために侵攻したソ連軍とムジャヒディン(イスラム聖戦士)を名乗るゲリラ部隊との激しい攻防が10年も続いたのだった。共産主義の脅威からイスラムのアフガニスタンを守る聖戦に立ち上がったムジャヒディン各派、つまり民族、氏族、部族ごとに組織された民兵集団がゲリラ化して全国各地に散在、これをサウジアラビア、クウェート、パキスタン、インドネシアなどイスラム諸国が挙げて支援した。冷戦最中の米国もCIAを通じてドルと兵器をムジャヒディンに供給し続けた。アフガン介入の失敗が明らかになり、ソ連軍が撤退した1989年から2年後、ソ連は“臨終”を迎えた。

ソ連解体後アフガン共産党政権は倒れたが、勝利したムジャヒディン各派によってカブールに成立した連合政権は、内部抗争で機能しなかった。まもなく各派による内戦が激化して収拾がつかず、戦乱が続く中で勝ち上がったのがタリバンだった。1994年南部カンダハルで決起したタリバンは1996年にはカブールを制圧、1998年には全土を支配下に置いた。タリバンの最高指導者ムラー・オマル師は田舎の“坊さん”上がりの人物だが、シャリーア(イスラム法)を統治の源泉と信じる独特の掌握力でタリバンをまとめ、アフガニスタンを統治した。

オマル師が、アフガニスタン東部を根拠地にした国際テロ組織アルカイダの指導者ウサマ・ビンラディンをかくまい続けた結果、2001年9月11日の米中枢同時多発テロを機に同年10月に始まった「ブッシュの米国」によるアフガン侵攻で、タリバン政権は打倒され、兵士たちは散り散りになった。オマル師らタリバン指導者は同一民族(パシュトゥン人)の住むパキスタン国境地帯に逃れた。しかし2003年3月米国がイラク侵攻に踏み切り、アフガン問題がお留守になっている間、2006年ごろからタリバンがアフガン各地に回帰、2007年からは駐留外国軍を脅かす存在になった。

イラク戦争はブッシュ政権の過ちで、アメリカが戦うべき戦場はアフガニスタンだと訴えて政権に就いたオバマ大統領だが、今年早々から3万人の米兵を増派したにもかかわらず好転しないアフガン情勢に焦っている。オバマ政権への米国民の勤務評定となる11月の中間選挙まであと2カ月、この間のアフガン戦況の推移は中間選挙に大きく響く。

常岡さんが監禁されていた5カ月間、アメリカ側から見たアフガン情勢は全く好転せず、むしろ悪化した。米軍はじめ外国軍の死傷者は毎月増えており、民間人の巻き添え死傷者も増えている。カルザイ大統領と仲の良かった駐留軍トップのマクリスタル将軍は舌禍事件でクビになった。カルザイ大統領は来年7月から撤収を始める米軍が、タリバンを本当に征伐できるとは信じていないらしく、タリバンとの交渉による政治解決に軸足を移している。タリバン大統領が問題のある軍閥を政権内に抱え込んでいることも米側から問題視されているが、大統領は民族、部族が分散しているこの国では軍閥の力を利用しなければ統治はできないと考えているようだ。

こうした状況下で常岡さんが解放されたのは奇跡に近い。常岡さんによると、4月1日北部クンドゥーズ州のイスラム党支配地区をタリバンの青年と通過したところ、布で顔を隠した兵士2人が銃を突きつけ、目隠しをして両手を縛って連行した。暴力を振るわれることはなかったが、監禁中に現地の民間人が血まみれで連れてこられたのを目撃。「両手両足を縛られて同じ家に置かれ、後で処刑されたようだ。(犯人たちが)簡単に住民を殺す人たちと分かり、次は自分の番だと覚悟した」そうだ。

それでも最終的に無傷で解放された背景には、常岡さんが敬虔なイスラム教徒だったことが上げられるのではあるまいか。1969年生まれの常岡さんは、若いころからイスラム教をはじめとする宗教に関心があって、1992年ごろから一人でこつこつイスラム教を勉強していた。1999年にロシアの弾圧に抗して、厳しい独立闘争を進めていたチェチェンのイスラム戦士を取材した経験を経て、2000年2月に正式にイスラムに改宗した。シャミルというムスリム名を持つ。1日に5回お祈りをし、断食月(ラマダン)には日の出から日没まで、一切の飲食を断つ。監禁中もこうしたイスラム教徒の行を、毎日行っていた常岡さんを犯人たちもつぶさに知っていたはずだ。

聖典コーランには「イスラム教徒はイスラム教徒を殺してはならない」とある。だからと言ってこの教えが全イスラム世界で完全に守られているわけではないが、イスラム教徒としての行い正しい日本人ジャーナリストを殺すことに、犯人側にも心理的抵抗があったことは推測できる。

実は筆者は常岡さんと面談したことがある。その時、実にさわやかな気持ちの良い人だなという印象を抱いた。常岡さんは、一昨年出版した「ロシア 語られない戦争―チェチェンゲリラ従軍記―」(アスキー新書)で、2008年「平和と協同ジャーナリスト基金奨励賞」を受けた。筆者はその授賞式で常岡さんのスピーチを聴き、受賞パーティーで話し合ったのだ。細かい話の内容覚えていないが、チェチェンの独立闘争を戦う人々への想いが並々ならないものであることはよく分かった。その語り口が何ともさわやかなのである。

従軍記を読んで今さらながら、彼のジャーナリスト魂に敬服した。400人のチェチェン戦士とともに4カ月にわたって、海抜3000㍍の険しいカフカス山脈を登攀、また下山しながら、飢餓と睡眠不足とロシア軍の空襲におびえながら行軍した日々を記録したものだ。超大国ロシアの軍事力にめげず、チェチェン同胞に対する非人道的な弾圧にもかかわらず、闘争をあきらめないチェチェン人たち。それに共感する日本人ジャーナリストの命がけの取材。そこにはカフカス人と日本人の相違を越えた人間的共感がある。

常岡さんは、思わぬ拉致、監禁生活を含めた今回のアフガニスタン体験を文字にして発表する意向だという。是非そうしてもらいたい。それを読むことで、日本人には分かりにくいアフガニスタンの問題点が、もっと分かりすくなることを期待する。

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