『非暴力という希望――いのちを最優先する社会へ』(青山正著、同時代社刊:税込み\2,200)
著者の青山正さんは仙台出身で68歳。東京で大学を卒業した後、会社勤務の傍ら長年にわたり市民運動の裏方役(広報紙を発行するなど)として地道に活動。十三年前に長野県内へ移住後は葡萄やリンゴなど果樹農業で生計を立てながら、3・11以降の脱原発への取り組みを日常活動として地道に続けている。私は朝日新聞社会部記者当時の三十余年前に取材を通じて懇意な仲になったが、東北人らしい実直・誠実な人物として太鼓判を押せる。
プーチン・ロシアによる理不尽なウクライナ侵攻で胸が痛む日々だけに、『非暴力という希望』という書名に一筋の光明を感じる。青山さんは第二章「いのちと非暴力を巡る旅への誘い」の中で、こう訴える。
――インドを独立に導いた故ガンジーさんが唱えた「非暴力主義」の考え方は、とても積極的であり、巾が広くまた奥行きの深い思想でした。「平和への道はない。平和こそ道なのだ」という彼の思想は、私たちの日々の歩みと暮らしの中にこそ平和があるべきだと教えてくれます。
青山さんは現下のロシア軍ウクライナ侵攻の雛形とも言うべき(プーチン・ロシアによる)チェチェン戦争の顛末について、巻末の<資料1>と<追補>に大略こう記す。
――ロシア連邦からの独立を目指したチェチェン共和国(面積は日本の四国ほど、人口百万人弱)に対し、エリツィン政権は1994年に大規模な軍事侵攻を開始。全土を破壊し、十数万人もの犠牲者を生んだが、小国チェチェンは徹底抗戦して大国のロシア軍(士気が低く、若い新兵が大勢無駄死にしていった)を追い詰め、実質的な勝利のうちに停戦に持ち込んだ。
――99年に始まった第二次チェチェン戦争では、開戦前に当時のプーチン首相が計画的な謀略テロ事件を仕掛けた。モスクワで起きた死者三百人とも言われる連続アパート爆破事件がそれで、チェチェン人犯人説をロシア政府が発表。開戦となり、エリツィン大統領の下で首相となったばかりのプーチン氏がロシア軍を指揮し、全土への無差別な空爆を行い、地上軍が全面的に侵攻。マスハドフ大統領ら独立派の指導者たちを全て殺害してしまう。
――(前記した)死者三百人とも言われるモスクワでの連続爆破テロは、後にロシアの情報機関FSBの自作自演の犯行だった、と判明する。当のFSBの要員だったリトビネンコ氏の告発により明らかとなったが、彼はその後亡命先のロンドンで暗殺されてしまう。プーチン体制下のロシアでは、以後も政権に批判的なジャーナリストや政治家の暗殺や投獄が相次ぐ。(旧ソ連KGB<国家保安委員会>幹部上がりのプーチンの陰湿な体質が覗く)
青山さんは難民認定を求めて2006年にチェチェンから日本へ亡命してきた青年を個人的に支援(二年半後に原因不明のまま病死)した。チェチェン難民救済活動のため度々来日したチェチェン人の医師ハッサン・バイエフ氏とも親交を重ね、自身が代表を務める「チェチェン連絡会議」を立ち上げ、「市民平和基金」を設立して援助の手を差し伸べた。
青山さんと私は1985(昭和60)年当時、国家秘密法(通称スパイ防止法)に対する反対運動を通じて知り合った。この法案は、外交秘密・防衛秘密を洩らした者を最高刑死刑に処する、というとんでもない内容。東京周辺で消費者運動や反原発運動など様々な市民活動に関わっていた無党派の若い世代の活動家たちが学習会を持ち、「国家秘密法に反対する市民ネットワーク」という活動体を立ち上げた。私は反対運動を伝える報道記者として度々このグループと接触を重ね、ブレーン格の青山さんと同憂の同志として親密な仲になった。
反対運動を進める強い支えになったのがパンフ「秘密だらけの日本はイヤッ!」。秘密法が運用いかんで市民生活をいかに脅かすか、イラストをふんだんに使い、分かり易く解説。このパンフ配布によるPR効果や日比谷公園での大々的な反対集会。婦人団体や労働団体などとの共闘、イギリスの国会議員(自由党)ら情報公開運動の専門家三人の手弁当での応援来日など諸々の動きが相まち、中曽根内閣当時の自民党タカ派は法案提出を断念する。一連の経過を通じ、青山さんは思慮深い人物として私の脳裏に刻まれ、信頼し合える友人となる。
彼はこの後、88年4月に月刊市民メディア「ピースネットニュース」を創刊する。折々の主要な活動テーマを拾うと――▽91年:湾岸戦争での反戦運動▽92年:「PKO協力法案」反対▽95年1月:「阪神・淡路大震災」被災者救援▽同年4月:ロシア・チェチェン戦争を機に「市民平和基金」設立▽2003年:「非暴力平和隊・日本」の活動に参加。そして、09年7月:二十一年続けた「ニュース」を休刊(長野県への移住のため)するに至る。
東京当時の論考では、例えば「新ゴーマニズム宣言を読む」と題し、漫画家・小林よしのり氏の著書を寸評。「偏見と独断に満ちた傲慢的な本」と一刀両断に切り捨てる。その一方、童謡詩人・金子みすずの「私と小鳥と鈴」の可憐な詩句を引用したり。感動的なスペイン映画「蝶の舌」に対する深い感銘を綴ったり。柔らかな感性の一面ものぞかせる。
青山さんは反戦~平和運動に献身する傍ら、反原発運動にも関わってきた。この著書の中では「坂田さんの危惧が現実となった福島原発事故」と題し、長野県下での脱原発への歩みを紹介している。須坂市の故・坂田静子さん(98年死去)はイギリスに住む長女の第二子の死産(原発からの放射能漏れの影響と推測される)を機に活動に参加。「原発周辺に放射能がばらまかれるなら、日本人は遠からず一億総ヒバクシャとなり、私たちの子孫に未来はない」と公言。個人で反原発のチラシや通信を配布し、資料室を開設するなどの草の根の活動を精力的に展開した。青山さんは彼女の遺志を受け継ぎ、農作業の合間に反原発の活動に参加。福島原発事故被災地の子供と親を招く「サマー・キャンプ」を毎夏、企画している。
市民運動の裏方役を長らく担ってきただけに、本書には小田実・元べ平連代表の人間臭い裏話が披露されたりもする。反公害・反核運動をリードした宇井純・高木仁三郎・広瀬隆らお歴々とも親しい交流があった、と聞く。「社会変革」に詳しい上田紀行東工大教授(文化人類学)は「五十年近く平和と非暴力を追求してきた青山さんのような人がいるから(日本では)平和が保たれてきたのだ」とし、本書推薦の弁をこう述べている。
――それでも社会にはひどいことが多い。でも、そのひどさがこの程度で収まっているのは、それに声を挙げている人たちがいるからだ。青山さんは政治家ではない。今は長野で果物を栽培しつつ挑戦し続けてきた。その多岐にわたる軌跡がここにある。ロシアのウクライナ侵攻という、私たちの心が引き裂かれるこの時期だからこそ、青山さんの歩みを知り、言葉を聞きたい。
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