韓国通信NO608
<故郷喪失>
私には故郷(ふるさと)がない。15回も引っ越しをしたせいだろう。「どこから来てどこへ行くのか」という画家のゴーギャンの問いが妙に気になって、少年時代を過ごした土地へ自分探しの旅に出かけた。年齢のせいかも知れない。77才の誕生日の前日、妻と新宿の早稲田、昔の戸塚町あたりを探索した。
この地に引っ越して来た当時、あたりは空襲で瓦礫だらけ、家がボチボチ建ち始めた頃だった。
両親と弟二人の五人家族。貧しくても幸せな毎日は、祖父が経営していた印刷会社が倒産したあおりをうけ、家中に差し押さえの赤紙が張られて幕を下ろした。父は心労のため倒れた。
住んでいた場所はすぐ見つかった。辺りには見知らぬ景色が広がっていた。一帯にビルが立ち並んでいるなか、不思議なことに、わが家があった場所は空き地で駐車場になっていた。
ここが玄関、風呂場、居間、などと想像してはみたが、懐かしさよりも過ぎ去った年月の喪失感に強くとらわれていた。幼な友だちは都市化の波に呑まれて「行方不明」としか言いようがない。年月の残酷さを思い知らされた。家の前にあった大学のテニスコート場跡に建てられた12階建のリーガロイヤルホテルに宿泊。窓から見える景色を呆然と眺めつづけた。
「私は何者か そして どこに行くのか」
思いつきの故郷探しだったが、ここにも故郷はなかった。死ぬまで、これまで以上に「生きよう」という決意のようなものが湧いてきた。
新宿区戸塚町1丁目19番地。家の前を神田神保町、上野広小路、厩橋(うまやばし)行きの都電が走っていた。小学校の校歌で歌われた「清き流れの神田川」はドブ川になっていた。
<ヒロシマ・ナガサキ平和大行進に参加して>
7月19日、東京オペラシティでチョン・ミョンフン指揮、東フィルの『新世界より』を聞く。故郷を喪失した者には「家路」のメロディが身にしみた。
その翌日、我孫子市を通過する平和行進に参加した。この平和行進は広島を目指して根室を出発したものだ。
ノーモアーヒロシマ・ナガサキ世界大会に合わせて毎年各地で催しが開かれる。1958年から始まった平和行進もそのひとつ。沿線の地域住民たちがリレー式で行進に参加する。集合時間の9時に私を含めた40人ほどが集まった。
被爆の体験と核戦争反対の声を次の世代にどう伝えるかが大きな関心事になっているが、今年は韓国の檀国(タングク)大の学生アン・スルギさん(20)(写真左)が参加し、日本の学生4人も加わって行進は大いに盛り上がった。
彼女はスポーツ学を専攻する活発なお嬢さんだ。あらかじめタブレットに書きこんだ日本語で挨拶をして参加者を感動させた。もし韓国語のスピーチを通訳しろと言われたら、私の額から汗がどっと噴き出したことだろう。
彼女は7月2日、水戸を出発して我孫子まで約3週間かけて歩いて来た。疲れを見せず通行人に明るく手を降る姿はほほ笑ましく、熱中症が心配される暑さの中で行進参加者全員が約2時間半も元気に歩けたのはアンさんと若者たちのおかげだったといえる。
休憩時間にアンさんの周りに、いたわりと感謝の言葉を伝えようとする人たちが集まった。彼女は紛れもなくその日の行進のマドンナだった。
本人が「多く集まり過ぎた」と言うほど多額のカンパが集まった。長崎大会に参加予定の学生たちにも3万円を超すカンパが集まり、こちらもニコニコ顔だ。
我孫子市の副市長が参加して横断幕を持って先頭を歩いた。その光景に北海道から歩いて来た男性が感心していた。
我孫子市は毎年、平和学習の一環として中学生を広島・長崎に派遣し、報告集会を市の公式行事として行っている。また行進の到着地になった手賀沼公園には、市が建立した広島で被爆した石で作った「平和の記念碑」と、広島から分火した「平和の灯」がある。<下写真>
他ではあまり例のない我孫子市独自の平和への取り組み。市民たちの長年にわたる運動が実った。ここにも白樺派発祥の地、理想主義、ヒューマニズムの精神が根づいているのを感じる。もっともこれは私の少々飛躍気味の感想ではあるが…。
記念碑の前で記念撮影を終え、迎えに来た隣町の柏市の人たちにバトンタッチ。横断幕とアン・スルギさんたちを見送った。
政府の「韓国バッシング」が連日報道されるなか、アンさんの参加は参加者に感銘を与えた。「仲良くしなければいけない隣国との対立を煽ってどうするの」という声が女性たちの間からあがった。
反核、反原発、平和の思いは日韓市民共通の願いになっている。今回の彼女の参加で、さらに大きな市民の連帯と友情の輪が広がることだろう。
国益と隣国の脅威ばかりを主張する愚かな政治によって失うものは余りにも大きい。それを乗り越えるのは賢い市民たちだ。
<ああ 投票率48.8%>
参議院選で改憲発議3分の2を「阻止」できたことを素直に喜びたい。それにしても有権者の半数以上が投票しなかったとは信じがたい。議会制民主主義が問われなどと月並みの感想は言わない。政治に期待せず投票する権利を放棄する風潮。日本人全体が考えなければならない宿題だ。「戦前に逆戻り」を心配する先輩がたくさんいた。「まさか」。若かった私は冗談半分に聞いていた。先輩たちの感性が次の句に重なる。
戦争が 廊下の奥に 立っていた 渡辺白泉
俳人は1940年「京大俳句」弾圧事件で特高に検挙された(1913~1969)。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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