「まるで平和運動の一時代の終了を告げるかのような訃報だ」。私がその訃報に接した時、とっさに脳裏に浮かんできた感慨はそのようなものだった。日本山妙法寺の僧侶で平和運動家だった佐藤行通(さとう・ぎょうつう)さん。3月1日に肺炎により死去、99歳だった。その一生は、ひたすら原水爆禁止運動の発展にささげられたものだったと言ってよく、とりわけ日本の運動を欧米の平和運動や国連と結びつける上で佐藤さんが果たした大きな役割は長く記憶されてしかるべきだろう。
とにかく、波瀾万丈の生涯だった。
1918年(大正7年)、秋田県阿仁合町(現北秋田市)に生まれた。教師だった父が兵庫県西宮市の小学校に職を得たため西宮へ。そこで小学校を終え、1931年、大阪府立北野中学(現北野高校)へ進む。自由主義的な校風で軍人志望は少なかったが、親戚に軍人がいて、「ソ連の膨張に備え、日本は軍備拡張を急ぐべきだ」と吹き込まれ、プロの軍人になろうと決心する。
父や教師の反対を押し切って陸軍士官学校へ進む。そこから、重爆撃機の操縦者を志して陸軍航空士官学校へ。しかし、埼玉県所沢市の上空を練習機で飛行中、エンジンの故障で不時着。ショックで左目の視力をほとんど失った。これでは操縦者になれない。やむなく通信部門へ。卒業後は中国東北部(満洲)で航空通信網の整備にあたった。
帰国後は航空通信の開発・改良に携わり、1945年(昭和20年)8月15日の終戦の詔勅は東京・八王子の第四陸軍航空技術研究所で聞いた。その時、26歳、陸軍少佐だった。
「無条件降伏」には絶対反対だった。「まだ戦力は残っている。死に物狂いで戦えば対等の講和に持ち込める」。上司に面会を求め、「無条件降伏を画策した君側の奸(かん)を除き、天皇に翻意を促すため決起すべきだ」と主張。同じ考えの陸海軍青年将校らの愛国グループ同志と埼玉県豊岡町(現入間市)の陸軍航空士官学校へ乗り込み、決起を呼びかけた。
どこからも願っていたような返事は返ってこなかった。万事休す。「そうだ。降伏文書の調印が行われる敵艦ミズーリ号に特攻機で突っ込もう。そうすれば、終戦はご破算になる」。両親と妻あての遺書を書き残すと、8月22日夜、土砂降りの雨の中をトラックで宇都宮基地へ。重爆特別攻撃隊を出撃させるためだ。が、佐藤さんの説得に隊長は応じなかった。「それなら、おれ1人でゆく」と単独操縦を試みたが、離陸できなかった。
東京に戻ると、同志たちの姿はなかった。宮城(皇居)前に向かったという。彼らがやろうとしていることは察しがついた。「おれも一緒に死のう」。急いで宮城前に駆けつけると、同志ら13人はすでに自決していた。
何も手が着かない虚脱状態が続いた。見かねた愛国グループの指導者が「それなら、出家したら」と、日本山妙法寺の藤井日達山主を紹介してくれた。藤井山主を訪ね、弟子入りする。1945年11月のことである。
藤井山主は、宗教学者の山折哲雄氏が「百歳の長寿を全うした人である。その足跡はインドをはじめとして全世界に及び、平和運動と伝道活動に献身した稀にみる国際的な仏教者だった」「敗戦以後、日本の仏教諸教団はこぞって平和主義を宣揚し、そして例外なく平和運動の戦列についた。しかし、そのときから今日にいたるまでの半世紀をふり返るとき、その平和運動の持続性と徹底性において、藤井日達の日本山妙法寺に及ぶものは一つもなかったといっていいだろう」(日本山妙法寺発行の『報恩』。2011年刊)と述べているように、平和運動に生涯をささげた僧侶だった。
佐藤さんは、その藤井山主の傘下で平和運動に邁進する。原水爆禁止運動、内灘米軍試射場反対闘争、再軍備反対・平和憲法擁護運動、全面講和・中立堅持を要求する運動、日米安保条約改定阻止闘争……。原水禁運動では、東京と広島を結んで行われる平和行進に加わった。
長身でがっしりとした体つき、丸坊主で精悍な顔つき。黄色の僧衣をまとって、「南無妙法蓮華経」と唱え、うちわ太鼓をうち鳴らして行進する佐藤さんの姿は異彩を放ち、人目を引いた。平和運動関係者の間では「ぎょうつうさん」と呼ばれた。
1962年には、広島からアウシュビッツまでの平和行進を敢行する。前年に「ベルリンの壁」が出現。佐藤はさんは、こう思い立つ。「このままだと、世界大戦が起きるかもしれない。今こそ、各国の市民が平和を守るために手を結ばなくては。そのことを訴えて歩きたい」。広島とアウシュビッツの街を結ぶことにしたのは、そこで第2次世界大戦における最大の殺戮が行われたためだ。
62年2月、広島を出発。行進には東大大学院生、東大生、上智大OBが加わった。翌年1月、アウシュビッツ収容所跡に到着した。同年8月に広島に帰着。訪れた国は33カ国、旅程は9万キロに及んだ。
行進中、佐藤さんは各国の平和運動家と懇意になった。それが縁となって、世界的に著名な平和運動家が日本を訪れるようになった。フィリップ・ノエルベーカー(英国、ノーベル平和賞受賞者)、ショーン・マクブライド(元アイルランド外相、元国際平和ビューロー<IPB>会長)、ペギー・ダフ(英国、元軍縮と平和のための国際連合書記長)……。これが、日本の原水禁運動が欧米の平和運動や国連と結びつくきっかけの1つとなった。それまでの日本の原水禁運動は、社会主義諸国や非同盟諸国の団体とのつながりが強かっただけに、これは画期的なことであった。
佐藤さんは、ショーン・マクブライドらの推奨でIPBの副会長に就任する。
佐藤さんが国際的な舞台で最も活躍したのは、1978年の第1回国連軍縮特別総会と82年の第2回国連軍縮特別総会(開催地はいずれもニューヨークの国連本部)の時だろう。第2回総会の時はニューヨークで、欧米と日本のNGO(非政府組織)が「百万人の反核デモ」を繰り広げたが、佐藤さんは国際連絡事務所に詰め、各国代表団の受け入れにあたった。
第1回国連軍縮特別総会を前にして開かれたNGOの会議に参加した佐藤行通さん(左端)。その右はペギー・ダフさん、その右はショーン・マクブライド氏。1978年、ニューヨークで=山下史さん提供
国内でも東奔西走の日々だったが、最も力を注いだものの1つが1968年から始まった成田空港反対闘争だ。航空機の離着陸を阻止するために農民や共産党系団体と協力して4000メートル滑走路敷地内に「平和塔」を建立する。これは空港公団によって撤去されてしまうが、空港建設阻止の運動形態の1つとして話題を呼んだ。
ところが、絶頂期の佐藤さんは突然、思ってもみなかった奈落に転落する。1983年、師匠の藤井日達山主から、「下山」を言い渡される。「お前はいつまでも軍人気質が抜けない。驕慢(きょうまん)である」「金づかいも荒い」。いわば、破門であった。
追いかけるように、84年には、それまで所属していた原水爆禁止日本協議会の国際部長を解任される。原水協で内紛が起き、代表理事らが解任されるが、佐藤さんがその代表理事を支持したからだった。
これを機に、佐藤さんは茨城県大洋村(現鉾田市)に引きこもった。それ以来、内外の平和運動で佐藤さんの姿を見ることはなかった。
1995年、私は佐藤さんを訪ねた。釈尊像を安置した仏壇の前で、佐藤さんは語った。「蟄居(ちっきよ)して、ざんげの日々です」。再婚した女性の稼ぎと軍人恩給が頼りで、ここから出ることはほとんどない、とのことだった。
それから23年して訃報に接したわけだが、3月1日といえば、「ビキニ・デー」である。1954年の3月1日に太平洋のビキニ環礁で米国の水爆実験が行われ、静岡県のマグロ漁船・第五福竜丸が被ばくし、無線長の久保山愛吉さんが亡くなったことを記念して設けられたのが「ビキニ・デー」で、この事件を忘れまいとして誕生したのが原水禁運動だった。その記念すべき日に死去するとは、平和運動に生涯を賭けた佐藤さんにふさわしい最期のように思えた。
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