平野郷の夏祭り

梅雨が終わりに近づき、夏の気配がする今頃に決まって思い出すのは、私の母春子の生まれた平野郷の夏祭り。 それも数十年も前のことになってしまった昔の祭りである。

私の母は、大阪市の東の外れの平野で生まれ育った。 その昔は、平野区と云う行政区は無く、東住吉区に組み入れられていて、平野区になったのは、戦後、それも可成り時日が経過した後のことであるが、そうした行政上の経緯は母等の住民には関わりが無く、昔も今も住民にとっては、平野、若しくは、平野郷、と意識されているようである。

母によれば、平野の言葉も大阪市とは少し違いがあったらしい。 ただし、大阪市の郊外、河内の言葉である河内弁とは全く相違する。 幼児の折には、母から教えて貰ったものの、河内に住む身では、話す相手もいないので、何時しか忘れてしまった。 ただし、亡父も大阪市出身であったので、我が家では、河内の言葉には馴染めないまま、私も当地の言葉、河内弁には通暁しないで今に至っている。 どちらにしても、今や話す人も居ないので、同じことだが。 今や、大阪市も平野も河内も、言わば、標準大阪弁で話す社会になったのである。

しかし、昭和20年代の末から、30年代の始めにかけては、地理的にも遠く、平野へ行くには、田圃の中のバス停から、一時間に数本の近鉄バスを待ち、トロトロと西を目指すしか無かったのである。 言葉も違いがある筈で、今の尺度では測れない時代であった。

田舎に生れた私は、夏祭り時に帰省する母に連れられて平野へ行く日には、旅行に行く気分であった。 バスが平野へ近づく頃には、祭りらしく鉦や太鼓の音が聞こえて気分を更に煽る。 車上から母の実家を右手に観て、通り過ぎ、杭全神社近くの停留所で降りると其処から、国道筋に東へ行けば、母の実家がある。 実家までの道は、全て舗装がされていて、地道が続く河内の寒村とは大違いであった。 街並みを観ながら歩き、実家に着けば、祖父母と叔父一家が待ち構えていて、賑やかなことこの上無かった

白い歯を見せびらかすように笑顔を振りまく母は、祖母に似てとても笑顔が綺麗で、子供心に嬉しかった。 その様子は、実家の人気を一人占めしているようでもあり、祖父母が可愛がっていたことが知れた。

人気は、実家だけではなくて、母と商店街を歩けば、彼方此方から声がかかった。 「春子ちゃん、帰ったはるのん? こちらが春子ちゃんの御子さん?」と気さくに声をかける商店主と話す母は、何の用事で商店街に出かけたのかが分からずになるようであった。 そうして実家への茶菓子一つを買うにも満面の笑顔を披露しながら長時間の長話が続いたものであった。

その年の暦に依っては、平野の夏祭りに実家に帰る母とともにお父ちゃんが来ることもあったが、そうしたことは偶々、会社が休みの折のみであった。 通常は、帰社時に平野に寄り、祖父母と共に夕飯を頂き、杭全神社境内に出る夜店を冷かしてから一家揃って河内の田舎へ帰るのであった。

ところが、或る年の祭りに、お父ちゃんは会社が休みなのか、朝から、母とともに平野へ行くことになり、一家揃っての祭り見物をすることになった。 お父ちゃんも、一時は、平野に住んでいて、結婚後暫く平野に居たことがあるので、懐かしかったのであろう。

その日、夕刻には平野公園で、花火大会があり、一家揃って国道を渡り、公園の入り口に詰めかけた。 平野公園の玄関口北側には、綺麗に舗装した道路を隔てて、昭和30年代当時、既に、今で云うスーパーの先駆け「主婦の店」があり、その西側には、阿倍野まで路線が伸びるチンチン電車の停留所まで長く続く平野の商店街があった。

当時、我が家の家族が、多くの観客とともに、三々五々に花火大会会場である公園の南側を目指して歩き始めるや否や、行き成りの雷鳴が響き俄雨となり、皆が濡れたが、母が心配したのは、お父ちゃんで、早く商店の軒先に避難するように急かせたものであった。 私は、空模様から雷鳴とともに俄雨となるのを予期して、公園の中程で母と様子見をしていたので、余り濡れなかった。 何でも夢中になると我を忘れるのがお父ちゃんであった。 空を見れば雲行きが怪しいのが分かった筈なのに。 五十数年後にそう言っても無駄なのだが。

ところで、此処で私が言うところの夏祭りとは、7月11日から14日までの4日間行われる杭全神社の夏祭りのことで、平野には、他にもたくさん祭りがあるのは言うまでもないことである。 ただ、杭全神社の夏祭りは、「9台の地車(だんじり)が宮入する13日夜の宵宮をハイライトとして、30万人を超える人手で賑わう盛大な祭り」と平野区誌が書き記すようにその規模と勇壮さでは、近在の夏祭りには比肩すべきものが無い祭りである。 ただ、私が、期待と楽しみとしたのは、勇壮な地車でも疾風の如く駆け抜ける神輿でも無く、広い杭全神社の境内に出る夜店であった。

夜店を巡るには、母と共に神社に出かけるのが一番で、お父ちゃんが居ては、落ち着かなかった。 何故なら、お父ちゃんは自分が夢中になり、子供が居るのを忘れるのである。 特に、鉄砲で景品を得る遊びには眼が無くて、他の夜店が眼中に無くなる。 困ったものであった。

私と母は、夜店を眺めるのが楽しくて、手を出すのは、金魚掬い程度であった。 薄紙を貼ったポイで掬い捕った金魚を貰えれば、我が家に持ち帰り、金盥に入れて育てるのであったが、殆どが育たず可哀想であった。 でも、中には、大きく育つ金魚も居て可愛いものであった。 そうして育てた金魚を近在の野池に放したこともあったが、野池には、他にも多くの金魚が育ち、農家では、田圃の雑草取りに使われていることもあった。 今で云う無農薬栽培である。 田圃の金魚は掬い取りしてはならないのは云うまでも無いことである。

夜店を一頻り巡り歩き満足して祖父母に礼を言い帰途につく頃には、眠くなり、幼児の折には、父母の何方かが抱いてくれて寝床まで直行し、それで安心すると朝までそのまま眠りについたものであった。

 そうした平野の夏祭りの記憶は昭和30年代で終止符を打った。 祖父母の葬儀の後、母とともに平野の夏祭りを見物した記憶は無い。 特段の言葉を思い出すことは無いが、優しい微笑みを送る祖母と、職人気質で無骨ながら愛情豊かな祖父が亡くなり、平野の夏祭りの火が消えたのか、お祭りを観に行こうか、と誘うことが無くなった母であった。

 あの頃に、共に、杭全神社の境内を歩いた家族は、今は誰一人として居ない。 境内の鉦と太鼓の音とさんざめきも消えて、終演の幕が下りるのを待つ者が居るだけである。 だが、私の耳には、あの鉦と太鼓の音が附いて離れない。 何時か母の待つところへ行けば、また、一緒に境内の喧噪に紛れるのを楽しみにしておこう、と思う。

                           (平成27年7月18日更訂)

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