底流する母性神話の盲点 ― またもや、若い母による「子どもの置き去り」

今は、予期しえなかった「コロナ」の時代である。「新型コロナウイルス」という「DNA内包のタンパク質」?の特質も未だ十分に解明されていない状況下で、私たちは、「何をなすべきか」を手探りしながらウロウロしているのが実態である。

そのような憂鬱な時に、大田区蒲田での3歳の女の子の「置き去り」事件が報道された。母親は24歳。女の子の名前は稀華(のあ)ちゃん。その母は「のんたん」と呼びかけながらその子と外で遊んでいるのを、よく見かけられていたという。

だが、その母親は、鹿児島の男性宅に出かけていて、稀華ちゃんの元に帰って来たのは「8日目」のことだったという(2020.6.13)。もっとも、これまたコロナ禍の時期、帰りの飛行機もスムーズには取れなかったというが。それにしても、どんな顔をして、どんな思いで稀華ちゃんの元に帰って来たのだろう。8日の間、稀華ちゃんのことを少しでも思いやった時間があったのだろうか。

 確かに、このようなニュースを聞くと、とっさに「何という母親だ!」と呻いてしまう。「若い」ことも、「母親本人の過去の虐待」なども、いっさい弁解不用!と思ってしまう。それほどに、痛ましい事件であり、「起こるべきではない」事件だと思うからだ。

だが、この事件は、私たちが「初めて」出会うケースではない。

 

10年前の大阪2児餓死事件

それでも、上記の事件から早くも10年が過ぎている。符号が合いすぎるが、丁度10年前の2010年7月30日、大阪で2児の遺体が発見されたのだ。母親は当時23歳。子どもは3歳の女の子(桜子ちゃん)と1歳9カ月の男の子(楓ちゃん)だった。

母親は、離婚して子ども二人を引き取った後、別れた元夫にも、実家の親たちにも、子育ての「ヘルプ!」を求めることはなかったという。

そして、夜のホステスの仕事をしながら、そこの関係するアパートの一室で、子どもたちと生活し、仕事の間は、子どもたちにお菓子や飲み物を置いて出かけていたのだと。

「子どもたちだけ」を置いて出かけることに、いつの頃から感覚が麻痺したのだろうか。あるいは最後は、無自覚のままに「自暴自棄」になっていたのだろうか。子どもたちの元に帰ったのは、何と50日ぶりだったという。

10年前の6月、7月は、今年の長梅雨と違って、強烈な「猛暑」だった。見つかった子どもたちは二人とも、素っ裸になっていたそうだ。寂しさ、恐怖、飢えに加えて、激しい渇き、そしてともかく堪えがたく暑かったのであろう。

この事件は、先に上げた今年の事件以上に世間的にも衝撃を与えた。「50日」もの間帰らなかったということ、子どもたちからはすでに異臭が漂っていた、というニュースの内容に、多くの人たちは言葉を失ったに違いない。

そのためもあったのか、最高裁の判決は「懲役30年」という厳しいものだった。

そこには、先に私も思わず口にしてしまった、「母親なのに・・・」「何という母親なんだ!」という、この社会に根強く巣食っている「母性神話」が、無意識的にも作用したに違いない。

しかし、10年の年を隔てて、今年、またもや似たような事件が起こるとは!10年前に、加害者を厳しく罰するだけでなく、さらに踏み込んで、この事件の社会的な背景や、二度と似たような事件が起こらないための社会的な施策が考え直されたのだろうか。

答えは、現実の事件が端的に物語っているように、「否」である。

 

「母性神話」を前提にする施策・制度

  • 戦後の「男女平等論」― 不十分だった?「母役割」批判

もちろん本来ならばもう少し丁寧なフォローが必要なところであるが、ここではあえて大まかな流れを追うだけに限定しよう。

戦後の「男女平等論」はもちろん、戦前の「家」制度への批判から出発したのであるが、主要には、女の「経済的自立」および男女の「経済的平等」が志向された。したがって、「手に職を」つけて自立した女が目指され、それゆえに「夫に養われる専業主婦」が厳しく批判された。

しかし、1950年代後半から60年代以降、社会的に拡大・定着していく「性別役割」のなかの、「母役割」批判には、どこまで自覚的だっただろうか。概ね、高学歴・高所得の「共働き家庭」では、さしたる無理をすることもなく、自ずから子どもたちの「受験を支えるママ」役割をも同時にこなしていったケースが多かったのではないか。

 

◎「母性神話」を引きずる保育所制度

私自身、これまでにも、戦前、戦後にかけての保育所制度を「幼保一元化」という観点から批判を繰り返しているが、ここでも簡単に述べておこう。

言うまでもなく、戦前はもちろん、戦後30年くらいの間は、保育所とは「保育に欠ける」家庭の子どもが通える福祉施設であった。子どもが幼い間は、「自分の手で・胸で」暖かく子どもを育てるべきなのに、いろいろな事情があって「止む無く」日中在宅できない母・家庭のための「必要悪」的な福祉施設というニュアンスが強かった。そのため、職場から「就労証明書」をもらえない不定期・非正規の場合や、生活と就労が混然としている自営業などで働く場合は、なかなか保育所に入所できなかった。

一方、「保育に欠けることの無い」専業主婦家庭は、本流としての「幼稚園」に当たり前に通わせたのである。

しかし、その後の経済成長時代、「マイホーム」のため、あるいは「子どもの受験のため」その他、主婦たちは「少しでも家計の足しに」と職場に出て行った。もちろん「子どもたちにオカエリナサイ!を言えるように」と、母役割や、妻役割をも前提にしての「パート労働」が多かった。現在の「非正規労働」に繋がっていくのだろう。

こうして、保育所を希望する親たちが増えていくのだが、1997年の児童福祉法改訂でも、保育所の入所条件は「保育を必要とする」子ども・家庭という条件が付されたままである。誰でも、希望すれば入れる保育所ではないのだ。したがって、待機児童が幾分少なくなっている現在でも、「入所」するためには、「保育を必要としている度合」が、行政の審査によってランクづけられる。

今の時代、母親が正規であれ、非正規であれ、働く場を見つけられず、家で子どもを育てている場合、「保育所」は充分な手を差し伸べてはくれない。せいぜい「母子ともども」の「子育て広場」を提供する程度である。「母には母だけの時間と場所」が、「子どもには母以外の大人や友達との時間と場所」が求められているというのに・・・。保育所は、本務で精一杯、「家庭に居る母よ、頑張ってください!」とエールを送るだけなのだ。

 

  • 行政仕事?「子育て世代包括支援センター」

今回のコロナ状況の中で、保健所が病院と並んで大きな役割を果たしていることが注目されている。1994年の地域保健法以来、「市町村」単位となったようだが、数的にはかなり整理されてきていることが、改めて憂慮されている。いま一つ、コロナ禍だからであるが、PCR検査を担っている保健所が「土日休み」を、当初は当たり前に厳守していたという事実である。何という「お役所仕事」だろう。

母子保健法も同じく1994年に改正され、「1歳6カ月児」や「3歳児」の健康診査も市町村の実施となっている。

また、2008年の児童福祉法改訂および2013年の「子ども・子育て支援法」によって、「乳児家庭全戸訪問事業」(こんにちは赤ちゃん事業)と「養育支援訪問事業」が「地域子ども・子育て支援事業」として位置づけられている。

確かに、これらの事業が、必要な人員によって、丁寧にかつ徹底的に運用されれば、救われる「母子」や「家庭」も少なくはないかもしれない。しかし、どこまでも「行政のかけ声」に終わっている嫌いがなくはない。健康診査に漏れている子どものチェックも不十分だし、何よりも、これらの事業が、どこまでも「家庭に居る母子」のための「相談事業」でしかない点である。現在の子どもにとっても、母にとっても、「家庭」以外の「育児サポートの場」が実際に現実に必要であることが、まったく考慮されていない。

 

・10年前の大阪事件の直後からでも、「母一人での子育て」を真にサポートする社会的なフォロー体制がつくられるべきだったのだろう。それがない所で、若い母親が、「誰にも頼らない子育て」に頑張れば頑張るほど、それはやがて力尽きて、為す術もなくなってしまうのかもしれない。無惨だし、周りの責任も大きい。

 

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〔eye4749:200802〕