長年『人権と教育』でお世話になった石川愛子さんから頂いた本、『虐待の子だった僕』のサブタイトルは「実父義父と母の消えない記憶」である。虐待を受けた当事者からの率直な意見を紹介したいと思う。
名前の「ブローハン聡」からも推察されるように、彼は、フィリピン人の母親と日本人の父親との間の婚外子として生まれた(1992年2月29日・うるう年!)。
そして、婚外子のまま、「認知」もされていなかったので、14~15年間、無国籍状態が続いていた。実父はその当時は、自分の家庭を守るためだったのか、認知はしなかったが、「聡」という名前はその実父の命名という。「聡明で、なおかつ文武両道で精神と肉体のバランスのとれた豊かな人に育ってほしいという願いがこめられていると母から聞きました」(p.20)。
その後、彼が4歳の時、母親は別の日本人男性と結婚し、彼を「連れ子」として生活する事になったものの、「養子縁組」はしないまま、「自分のことはクーヤ(フィリピンのタガログ語で‟お兄さん”)と呼びなさい」と言ったという。「義父」にもなる気がなかったことは明らかである。
それならば、逆に割り切った「年長の男と年下の男子」として、母も含めた共同生活も可能だったろうが、それは無理だったようだ。ブローハン聡にとっての物心ついて以来の激しい「虐待」が、ここから始まった。
― 間違った銘柄の煙草を買ってきたといって、罵られ、平手打ちが続く。
― ミスをする度に、まずいご飯を無理やり食べさせられる。包丁も飛んで来る。
― 銭湯では、水風呂に頭を沈められる。
― 酔って帰って来た夜などは、僕の頭の上に枕を置き、その上で何度もジャンプをする。
― 寝ている僕の頭に爪楊枝を刺す。
これらの「虐待」は、ほとんど母親が働きに行っている夜。ブローハン聡は、「母親に告げ口する」ことは自分でシャットアウト、その分、痛みを感じている間、「意識を飛ばして」!ひたすら「耐える」ことに徹していたという。
そして、11歳、(1年遅れで)5年生になった頃から、何故か「義父」は、「ライターで彼をあぶる」という新しい虐待法?!を思い付き、外から見えない臀部を狙っては、あぶっていた。お尻のアチコチに火傷を負った彼は、学校の椅子にも普通に座れなくて、身体を傾けて座っていた。
さすがに、それは目立つだろう。教師に呼び出され、黙ったままの彼もついに校長や保健の教師たちによって、体の火傷を見つけられてしまう。彼が「虐待」を受けていたことが、初めて公になったのである。そして、児童相談所のケースワーカーと連絡がつき、学校から直接「児童相談所一時保護所」に送られた。
「一時保護所」について
ブローハン聡の解説によれば、2020年7月の時点で、一時保護所は全国に144カ所あり、年間延べ2万人の子どもが、ネグレクトを含む虐待などを理由に預けられている。
一時保護の期間は原則2カ月で、その間に、児童相談所のケースワーカーが子どもの心身の状態や家庭環境などを調べて、家に帰せるかどうかを見極める。家庭に帰せないと判断した場合には、児童養護施設に入所させたり、里親に委託したりする。
「一時保護所」に居る間は、親や虐待している義理の親その他から「無理やり連れ戻されたりする」ために、通学も取りやめになる。その事情に対して、「それは可哀想!」という声も少なくないが、ブローハン聡は次のようにきっぱりと述べている。
「かわいそう、と思う方もいらっしゃるかもしれません。でも僕は、一時保護所で子どもを隔離するのは、必要な措置だと思っています」。「(僕は)いつもどこかで待ち伏せされているのではないかという警戒心がありました」。「・・・だから、一時保護所に隔離され、守られているということは大事なことだと僕は思います」(p.52-53)。
しかし、現在、日本には社会的養護下の子どもたちが約4万5000人いるが、児童虐待の増加によって社会的養護の必要な子どもたちはどんどん増える一方。ところが児童養護施設はすでに一杯なので、一時保護した子どもをなるべく家に帰す、というのが児童相談所の役目のようになっている。そのため、本当は保護が必要な子どもたちが家に戻されることもしばしばである。その見極めは非常に難しくて、判断を誤ると虐待死につながってしまう。いまの児童相談所の悩ましい状況である。
杉並区の児童養護施設に入所、杉並第九小学校に転校
ブローハン聡は、現在の状況下では、幸運だったのだろう、一時保護所で「順番待ち」のような形で、3カ月ほど一時保護所で過ごした後、杉並区の児童養護施設に入所した。
そこは、昔ながらの「大舎制」、50~70人くらいの子どもたちが居る。ただし、その中は、10~15人ずつのグループ(ユニット)に分かれ、ユニットリーダーと呼ばれる先生が一人、子どもたちと生活を共にしている。
一つのユニットには、2歳から18歳まで、各年代の子どもたちが割り振られていて、「他人が集まっているというよりは、兄弟の多い生活というイメージ」である。ただ、それも毎年4月になればメンバーの入れ替えが行われる。その意味では、メンバーの変わらない家族とは異なるが、でも「学校のクラス替え」のように「楽しんで」迎えることもできる。
ブローハン聡が入所したのは2003年だった。正式に「親や施設の長」の体罰が法的に禁止されたのは2019年児童福祉法・児童虐待防止法の改正、施行されたのは2020年4月からである。しかし、国連総会で「子どもの権利条約」が採択されたのは1989年、発効は1990年、日本の批准は1994年、さらに児童虐待防止法の制定は2000年。したがって、親や教師、施設の長による「体罰禁止」の風潮は、すでに社会的に広まってはいたと思う。
施設などでも体罰が当たり前に行使されていた時代は、「一番年上の子に下の子どもたちを仕切らせて、先生は上の子に命令を下すだけで統率がとれるようにしていたそうだ」。時代は明らかに変わっていた。だから、「僕は施設に入って、やっと虐待のない『ふつう』の生活を送ることができるようになったんです」と、ブローハン聡は言う(p.68)。
「もちろん、施設で暮らすことにモヤモヤしたものをまったく感じなかったというわけだはありません。/正直、どうでもいいような細かいルールがいっぱいあるのには閉口しましたし、先生方とのかかわり方にも難しさを感じることがよくありました」(p.74)。
その後、2006年11月29日、彼が14歳、中学2年の時に、最愛の母が、乳癌のために死亡。大きな哀しい転機である。その後のフィリピン国籍取得(14~15歳)、さらに17歳、高校2年生の時に、実父の認知も得た上で日本国籍を取得。しかし、日本では国籍法により、22歳までには「国籍の選択」を迫られるという法的根拠により、泣く泣くフィリピン国籍を破棄することになる。日本の国籍法の‟頑なさ”という問題も、彼にとっては切実である。この問題も曖昧にはできないが、ここでは指摘するだけに留めておく。
児童養護施設と里親、どちらで育つのが幸せ?
最後に、彼自身が設けたコラム、「児童養護施設と里親、どちらで育つのが幸せ?」の内容を紹介しておこう。
彼は言う。
「施設より里親のもとで育つのが幸せだろう」
おそらく、多くの方がそのように考えるのではないかと思います。
ですが、実際に施設で育った僕からすると、「施設より家庭のほうがいい」とは一概にいえないと思っています。
「施設での生活は楽しかった」
「安心だった」
そのように感じている施設出身者は僕だけではありません(p.201)。
厚生労働省は2018年に、社会的養護の必要な6歳以下の未就学児は、里親の元で育てる割合を、7年以内に75%に、就学児は10年以内に50%に引き上げるよう、各都道府県に求めている。事実、新聞にも一面広告を出して、「すべての子どもに家庭のぬくもりを」と里親制度の拡大キャンペーンを打ち上げたりもしている。
「家庭のぬくもり」がキーワードであろう。日本では「家庭=暖かい=ぬくもり」という「家庭幻想」が今なお根強い。「家庭もさまざまである」という現実をなぜか見ようとしない結果であろうか。
ブローハン聡は言う。「国の方針として『施設から家庭へ』の流れを加速させようとしていますが、僕からすると、ただ海外のまねをしようとしているだけのような感じがして、ちょっと心配になります」(p.202)。
「施設について、いまだに『少年院』のようなイメージをもっている人がいらっしゃるのも、しかたのないことかもしれません。実際、僕が施設出身者だとわかると『かわいそう』というイメージをもつ方も少なくありません。/でも、それはおおきな誤解です。」「僕のいた施設も、とてもいいところでした。僕の施設での経験をお話することで、児童養護施設に対するそうした偏見を少しでもなくすことができたらいいな、と思います」(p.203)。
ブローハン聡は、その他、18歳以降の「施設から社会へ」の移行に対する社会的配慮の無さを指摘する。就職・進学はもちろん、そのための住宅問題、保証人問題など、現実的な問題がこれまで配慮されないままだったことを問題にする。彼が、今や管理責任者を務めている「クローバーハウス」(=児童養護施設退所者等アフターケア事業)の今後の活動に声援を送りたい。また何らかの支援もできればと思う。
最後にもう一度彼の言葉を挙げておこう。
「子どもを救うことはもちろん重要ですが、それだけでは虐待問題を解決することはできません。虐待している親も救われる社会にならないと、本当の解決には至りません」(p.223)。
「僕自身は虐待、施設出身という『当事者』ですが、・・・取り組んでいかなければならないのは単に虐待の問題だけではなく、貧困、生活保護、外国人労働者、教育、就職のシステムなどなど、社会のいろいろな問題にかかわっていることを実感します」(p.235‐236)。
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