後藤新平の自治三訣に感銘  「人の世話をせよ、そして、むくいを求めるな」

 「LGBT(性的少数者)は子どもをつくらない、つまり生産性がない」。自民党議員による暴言、失言が後を絶たない。全部の議員とは言わないが、国会議員の質的な劣化が進んでいるように思えてならない。そんなことを考えていたら、明治・大正期の政治家、後藤新平の言葉に出合って感銘を受けた。戦前には、こんな政治家もいたんだな、と改めて思い知らされた。

 7月末に藤原書店から内山章子著『看取りの人生――後藤新平の「自治三訣」を生きて』が刊行された。
 著者の内山章子(うちやま・あやこ)さんは、当年90歳。民法学者で法政大学教授、札幌大学学長などを歴任し2002年に亡くなった内山尚三氏の夫人だが、明治・大正期の政治家であった後藤新平(1857~1929年)の孫である。

 朝日新聞社編の『日本歴史人物辞典』によれば、後藤新平は岩手県水沢市の出身。医学で身を立て、内務省衛生局に勤務するが、その後、台湾総督府民政長官、貴族院勅撰議員、南満州鉄道初代総裁、外務大臣、東京市長、内務大臣などを歴任する。「大風呂敷」とあだ名されるほどアイデア溢れる施策で新分野の開拓に貢献。政治家としては本流からはずれた政界の惑星的存在であったが、大隈重信と並び国民に訴えかける政治家として人気を持っていたという。

 後藤の長女・愛子と衆院議員・著述家の鶴見祐輔(戦後、第1次鳩山内閣の厚生大臣に就任)が結婚したのが1911年(大正元年)で、2男・2女が生まれる。長女が後の社会学者・上智大学名誉教授の鶴見和子、長男が後の哲学者・評論家の鶴見俊輔、次女が章子さんだった。
 
 章子さんによれば、これまでの人生の大半は、高齢になってから病に倒れ、長期の療養生活を余儀なくされた母・愛子、父・祐輔、姉・和子の看護に費やされた日々だったという。このため、大学進学の夢を絶たれた章子さんは、和子を看護中の2004年に大学入学資格検定試験に挑戦、合格すると京都造形芸術大学を受験し入学する。そこを8年かけて卒業する。その時、84歳になっていた。
 
 『看取りの人生――後藤新平の「自治三訣」を生きて』は、60余年にわたって両親、姉を看護し、看取った経験を書きつづった記録である。日本における希有な一族の歴史を、その1員、いわば「黒子」として内側から見続けてきた回想録だけに、まことに興味深い。

 本書の中でとりわけ印象に残ったのは、章子さんが母からことあるごとにたたき込まれたという「後藤新平の自治三訣」である。
 章子さんによれば、それは「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そしてむくいを求めぬよう」というものだったという。これは、人間は自立して生きよ、社会奉仕をせよ、その際、報いを求めるなということだろう。おそらく、後藤の日常生活でのモットーであり、座右の銘であったと思われる。
 私がこの言葉に感銘したのは、今日の日本人に自立意識が乏しく、あまりにも「大勢順応」の気風が強い上に、今の日本社会を支配しているのが『今だけ カネだけ 自分だけ』という刹那的な私益追求第一主義の風潮だからである。

 私は、後藤新平という政治家がいたことは知っていた。が、どんな人物なのか、どんなことをしたのか知らなかった。これまで耳にしたことと言えば、東京市長として関東大震災後の東京の復興に尽力したということぐらいだった。これを機に彼について勉強してみたい、と思うこのごろである。

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