忘れてはいけない、覚えているうちに(4)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<2>

 そして、冒頭の件にもどって、苳三は、なぜ、公職追放に至ったのか。

 その経緯は、『ポトナム』の一般会員には、なかなか伝わってこなかった。未見ながら、平成の初め、1989年、『立命館文学』(511号1989年6月)に、苳三の立命館での教え子である白川静が、その「真相」を明かしているとのことであった。以降1990年代になると、苳三について書かれた文献は、その経緯に言及するようになった。後掲の和田周三、大西公哉によるものだった。2000年代になると、白川静により詳細な経緯が知らされるようになった。

参考文献⑨⑩によると、
苳三は、「中川(*小十郎、立命館創立者)総長の意を承けて北京師範大学の日本語教授として赴任され、相互の親善に努力されたことがあり、東亜の問題にも深い関心を持たれていた。それで支那事変が勃発すると、その前線の視察を希望され、軍の特別の配慮(*陸軍省嘱託)で、河北、河南から南京に及ぶまで、すべての前線を巡られた」 *は筆者注
 とあり、『山西前線』から、つぎの二首をあげて、

 〇〇の敵沈みたる沼の水青くよどみて枯草うかぶ
 〇〇の死骸埋まれる泥沼の枯草を吹く風ひびきつつ
  *1939年3月6日作。○は伏字。(下関馬太路附近)「揚子江遡行(中支篇)」

 「この歌集において、あくまでも歌人としての立場を貫かれた。この一巻を掩うものは、あくまでも悲涼にして寂寥なる戦争の実相にせまり、これを哀しむ歌人の立場である。」として、「このような歌集が、どうして戦争を謳歌するものと解釈され、不適格の理由とされ、不適格の理由とされたのだろうか。その理由は、先生の歌や歌人としての行動にあるのではない。それはおそらく、学内の事情が根底にあったのであろうと思われる。」

 参考文献⑩の白川静「苳三先生遺事」では、さらに詳しく、つぎのような状況が記されている。

 「大学に禁衛隊を組織して京都御所の禁衛に任じ、そのことを教学の方針としていたので、もっとも右傾的な大学とみなされ、その存続が懸念されていた。それで、相当数の非適格者を出すことが、いわば免責の条件であるように考えられていた。」(253頁)

 学内では、民主化が急がれ、進歩派とされる人たちと保身をはかるかつての陣営とが入り乱れるなか、学内の教職員適格審査委員会についてつぎのように述べる。

 「故中川総長の信望がもっとも篤かった小泉先生が、その標的とされた。審査委員会は、先生の『山西前線』の巻末の一首<東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦(いくさ)なからしめ>をあげて、『本書最終歌集は、所謂支那事変は、東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ一首である』

 としたが、この一首が、戦争の悲惨を哀しみ、ひたすらに戦争を否定する願望を歌ったものであることは、余りにも明白であり、この程度の理解力で先生の歌業の適否を判断し得るものではない」(254頁)と訴える。その後、白川ら教え子たち17名により再審要求書が中央審査会に提出されたが、覆されることはなかった。

では、『山西前線』とはどんな歌集だったのだろうか。
1938年12月12日に陸軍省嘱託に任ぜられ、22日に日本の○を出港し、28日北支の○港から上陸している。北支篇・山西前線篇一・山西前線篇二・中支篇からなり、天津・北京から前線に入り、兵士たちの戦闘の過酷さ哀歓をともにした記録的要素の高い歌を詠む。当時の立命館総長中川小十郎と支那派遣軍総参謀長板垣征四郎の序文が付されている。そして、この歌集の序歌と巻頭の一首をあげてみる。

 戈(ほこ)とりて兵つぎつぎに出(い)で征(ゆ)けりおほけなきかなやペン取りて吾は(序歌)
心ふかく願ひゐたりし従軍を許されて我の出征(いでゆ)かんとす(従軍行)

 従軍中の1月中旬からは半月以上の野戦病院での闘病生活を経験するが、南京、上海を経て、1939年4月1日に帰国する。巻末には「聖戦」と題する五首があり、最後の一首が「東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦(いくさ)なからしめ」であったのである。
 そこで、ほんとうに、先の一首だけが教職不適格の理由であったのだろうか。不適格判定がなされた年月日、判定の法的根拠は、『ポトナム』の記念号の年表や小泉苳三を論じた文献・年譜には記載がなく、あるのは、1947年6月に「昭和22年政令62号第3条第1項」(*1947年5月21日)によって職を免ぜられた、という記述である。その後の⑦の『立命館百年史』及び⑨⑩の白川静の文献により、判定月日が1946年10月26日であることがわかった。46年10月26日に判定され、翌47年6月に「教職不適格者」として「指定を受けた者が教職に在るときは、これを教職から去らしめるものとする」というのが上記政令の第3条第1項であった。
 上記の判定内容についてとなると、前述の白川文献と『立命館百年史』にあるつぎのような記述で知ることしかできなかった。しかも、『百年史』の方は『京都新聞』(1946年10月29日)の引用であった。

「小泉藤造(苳三)教授(国文学) 従軍歌集を出版し侵略主義宣伝に寄与」

 そして、⑪の来嶋による資料の提供で、全貌が明らかになってきた。苳三から窪田空穂にあてた「再審査請求」するに際して「御見解を御示し下され度御願ひ申上候」という手紙とともに学内の教職員適格審査委員会委員長名による「判定書」と苳三自身による再審査請求のための「解釈草稿」を読むことができたのである。「判定書」の理由部分は、画像では読みにくいので核心部分を引用する。『山西前線』の刊行経緯を述べた後、つぎのように述べる。

 「本書(*『山西前線』)によれば氏の従軍は他からの強制といふが如き事に由るのではなく、自らの希望に出たものである事は明らかであり且本書最終歌(東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦なからしむ)は、所謂支那事変は東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ一首となつてゐる」

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来嶋靖生「ある手紙からー小泉苳三〈教職追放の闇〉」『ポトナム』90周年記念 2012年4月

 これに続き、「更に氏の主宰するポトナム誌には」として、誌上に発表された、「撃ちてしやまむ」「八紘一宇の理念ぞ輝け」などと歌う六首を無記名であげ、「もとより以上は和歌によるとはいへ、その和歌を通して、また上記の行動によつて侵略主義の宣伝に積極的に協力したもの、もしくはこの種の傾向に迎合したもので」明らかに法令に該当する者と認められるので「教職不適格と判定する」としていた。「判定書」の後半には、苳三が主宰する『ポトナム』に発表された六首が具体的に引用されていたことを知った。この部分への言及がなかったのは、六首の作者へ同人たちへの配慮であったのだろうか。
 一方、苳三は、判定理由について、当時発表していた著述論文などには一切触れず、「私が歌人として中国に旅行し、その歌集山西前線を刊行したこと、及び戦争中の多数の作品の中から僅か六首の歌をとりあげて、私への不適格の理由としてゐる。私が中国に旅行したのは、戦争といふ現実を、国民として身を以て体験し、真実を歌はうとする文学的な要求からであった。戦場を通るには、軍の取り計らひがなくては不可能であつたことは、常識的にも分る筈である。旅行の目的は、私の実際の作品によつて実証されてゐる。(後略)」と「判定」へ反論をしている。
 来嶋は、苳三の依頼に空穂がどう対応したかは不明としていたが、白川文献によれば、前述の17名による再審査請求書とは別に、窪田空穂・頴田島一二郎の両名が個人として「意見書」を中央審査会に提出していたことが明らかになっている。
 なお、上記大学の教職員適格審査委員会による苳三に対する「判定」根拠法令は、「教職員の除去・就職禁止及び復職の件(昭和21年勅令263号)」(*1946年5月7日)と同時に、この勅令を受けた「教職員の除去・就職禁止及び復職の件の施行に関する件(閣令・文部省令1号)」の範囲を定めた「別表第一」の「一の1」によるのではないかと思う。来嶋文献では、「別表第1の11号」と読めるが、別表第一には11号がない。「別表第一」の「一の1号」は、以下の通りであった。

「一 講義・講演・著述・論文等言論その他の行動によつて、左の各号に当たる者。」
 侵略主義あるひは好戦的国家主義を鼓吹し、又はその宣伝に積極的に協力した者及び学説を以て大亜細亜政策、東亜新秩序

 1.その他これに類似した政策や、満州事変、支那事変又は今次の戦争に理念的基礎を与えた者。」

 ここで、GHQによる公職追放の流れと立命館大学の対応と小泉苳三の動向以下のような年表にまとめてみた。

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  苳三は、1951年報道などにより、追放解除が近いことを知ると、夏には、つぎのように歌う。その後に歌われた、わずかな追放関係短歌から選んでみた。いずれも『くさふぢ以後』からである。

歌作による被追放者は一人のみその一人ぞと吾はつぶやく
追放解除の訴願を説く友に吾は答へず成り行くままに
省みて四年過ぎしと思ひをりあわただしくてありし月日を
天皇制を倒せ学長を守れといふビラ貼りてあり門の入口に
(*以上1951年作)
図書館の暗きに歌書を調べをり久しく見ざりしこの棚の書を
(*1952年作)
正面の図書館楼上の大時計過ぎゆく時を正しく指し居り
(*1953年作)
病み臥してかなしきおもひ極ればそのまま眠に入れよとねがふ
(*1954年作)
追放解除の後の生活がやや落ちつくに病み弱くなれり
(*1955年作)

 最初の3首は、口惜しさとあきらめがないまぜになった心境だろうか。4首目は、1951年9月に追放の指定解除がなされた後の年末、かつての職場の立命館大学を訪れた折の作で、「R大学 十二月八日」の小題を持つ一連の冒頭歌である。敗戦直後から立命館大学学長に就任し、大学の民主化を目指した末川博を詠んだものである。末川は、1933年いわゆる「滝川事件」で京大を辞職し、大阪商科大学教授となっていたが、前述のように乞われて立命館大学学長となって、数々の大学民主化を図ったとして有名である。しかし、苳三にとっては「教書不適格者」と「判定」した最高責任者であった。前述の『立命館百年史 通史2』によれば、「巣鴨入りで石原を失った末川が強力なリーダーシップを発揮したことはほぼ間違いであろう。」とも。さらに続けて「適格審査に末川の意向がどれだけ影響を及ぼしたかを語る資料は残されていないが」としながら「、末川の勇み足ともいわれたような事件も起こっている」として、1946年10月の教職不適格者判定と同時に、休職処分としてしまったことをあげている(113頁)。本来ならば、「判定」後、指定が決定するまでは、身分保留にしなければならい制度であったという。
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小泉苳三は、2回ほど登場した、大岡信「折々のうた」。上段の歌は、上記の1首目、学内の教職員適格審査委員会は「烏合の衆」とまで評されている(2007年2月23日)。

 5首目は、すでに1940年苳三が自ら収集した近代短歌史の膨大な資料の大半を寄贈していた立命館大学図書館を訪ねた折の作である。埃をかぶっていたり、見当たらない図書もあったりしているのを嘆く一連の一首である。この資料群は、没後にも遺族から立命館大学図書館に追加寄贈され、「白楊荘文庫」と名付けられ、現在も、近代短歌資料の貴重な文庫として利用されている。この文庫については、参考文献⑬に詳しい。6首目は、指定解除後、関西学院大学教授となり、あたらしい職場となるキャンパスの図書館の時計塔を歌っているが、学究としての意欲をも伺わせる一首ではないだろうか。晩年の作となる最後の二首は、自らの病や出版社経営上の苦境などが重なって、さびしい死を遂げる前兆のような気がしてならない。
 戦中・戦後を変わり身早く、強引に生き抜いてきた歌人たちもいる。戦犯と称される政治家たちが再登場するのをやすやす受け入れてしまった国民の在り様、戦前回帰や保守一強を願う人たちがいることを目の当たりにする昨今ではある。ほんとうに責任をとるべきだった人たちがいたことを忘れてはならないだろう。
これまで、私自身、曖昧にやり過ごしてきたことが、『ポトナム』創刊100周年記念を機に、少しはっきりしてきたのでなかったか。

<参考文献>

①岡部文夫「ポトナム回顧」『ポトナム』1954年11月/中野嘉一『新短歌の歴史』昭森社 1967年5月(再版)
②新津亨「回想のプロ短歌」/内野光子「小泉苳三著作年表・編著書解題」、ともに『ポトナム』600号記念特集 1976年4月
③和田周三「小泉苳三の軌跡」/大西公哉「創刊より復刊まで」、ともに『ポトナム』800号記念特集 1992年12月
④和田周三「小泉苳三・人と学芸」『ポトナム』小泉苳三生誕百年記念1994年4月
⑤和田繁二郎(周三)「小泉苳三先生の人と学問」『立命館文学論究日本文学』61号 1995年3月
⑥大西公哉「山川を越えては越えて―ポトナム七十五年小史/ 和田周三「小泉苳三歌集『山西前線』」、ともに『ポトナム』創刊75周年記念特集 1997年4月、所収
⑦『立命館百年史 通史』1・2 同編纂委員会編刊 1999年3月、2006年3月
⑧拙著「ポトナム時代の坪野哲久」『月光』2002年2月(『天皇の短歌は何を語るのか』所収)
⑨白川静「小泉先生の不適格審査について」/片山貞美ほか「小泉苳三の歌」(小議会)」、 ともに『短歌現代』2002年11月、所収
⑩白川静「苳三先生遺事」/白川静「小泉先生の不適格審査について」(栞文⑨の再録)/上田博「生命ありてこの草山の草をしき」、ともに「『小泉苳三全歌集』2004年4月
⑪来嶋靖生「ある手紙から 小泉苳三<教職追放>の謎」『ポトナム』90周年記念特集 2012年4月
⑫安森敏隆「小泉苳三論―『山西前線』を読む」『同志社女子大学日本語日本文学』2012年6月
⑬中西健治「白楊荘文庫のいま」『ポトナム』創刊100周年記念特集 2022年4月

ほか『ポトナム』記念号・追悼号など。

           <再掲>

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ポトナム短歌会と立命館大学図書館・白川静と用文字文化研究所との共催で『ポトナム』創刊百周年記念の展覧会が開催されている。立命館大学図書館の特殊コレクション「白楊荘文庫(旧小泉苳三所蔵資料)を中心とした展示となっている。衣笠キャンパスでの開催は終わったが、現在は大阪いばらきキャンパスで開催中、10月7日からは、びわこ・くさつキャンパスでで開催される。私も、コロナ感染が収まったら、ぜひ出かけたいと思っている。お近くの方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

初出:「内野光子のブログ」2022.8.12より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12279:220814〕