そんなに大きくないボール箱を開けてみたら、なんと、日記と思しき手帳が30冊くらいびっしりと入っていた。忘れていたわけではないが、一番古いのが「昭和27年」、これは中学校受験と中学校入学までの4カ月間の記入しかない。しかし、ここで、私は一つのつらい体験をしている。ある私立女子大学の付属中学校を受験して不合格となった。それだけならあきらめがつくのだが、一緒に受けたクラスメートが合格した。不合格だったことを担任に報告しにいくと、なぜか「成績が悪かったわけではなかったんだよ」「だいじょうぶ、こんど、がんばればいい」と、職員室の先生たちから慰めたり、励ましてもらったりして、「成績では負けていないはずなのに」のくやしさもあって、思わず涙をこぼすといった体験をした。そして、後から受験した国立の付属中学校に、運よく合格したので、何とか気持ちがおさまった、という経緯があった。
次の年、「昭和28年」は、それでも1月から9月まで続いている日記で、小さな横罫のノートにややなぐり書きにも近い勢いで書いている。今から70年前の1953年の正月には、いったい何があって、何を書いていたのだろう。
「初春のよろこび」
1月1日(木)晴、くもり、午後風:今年こそ、一年間、日記を書き続けるぞ、の覚悟と人には絶対見せないから、書きたいことを書く、とも記されている。
2日(金)晴、くもり:宿題の書初めは「初春のよろこび」で、池袋東口の西武デパートに書初めの紙を買いに行っている。商店街をやって来た出初式の人に、父が二百円あげたら「はしごの途中までいってちょっとさかさまになっておりてきた。ほんとに貧弱なもんだ。竹やさんや自転車やさんはさすがにすごかった」とご祝儀の差をまざまざと見せつけられたらしい。
3日(土)晴:「今日も朝湯にいった」と店の向かいの銭湯「平和湯」に出かけ、夜は、家族と「百人一首」、次兄と「はさみしょうぎ」で遊んでもらっている。
放送討論会と「ひめゆりの塔」
1月4日(日)晴:「昨日あたりからさわがれていた秩父宮がおなくなりになりました。秩父宮様は天皇階下の一つちがいの弟です。なんとかむづかしい病名だが結局はじ病の結核だろうと思う」など、一応敬語が使われているが、「陛下」を「階下」と疑いもなく書いている。もっとも、語源からすると、「陛」も「階」も同じらしいが、戦前だったら不敬罪。なんと、同じ日に、豊島公会堂でのNHKの放送討論の中継放送を見に行っている。たぶん母と一緒ではなかったかと思う。議題は「各政党の情勢判断とその対策」で、講師は自由党総務星島二郎、改進党幹事長三木武夫、右派社会党書記長浅沼稲次郎、左派社会党書記長野溝勝、司会河西三省で、いずれも懐かしい名前である。日記のその先は少し長くなるが引用してみる。
「討論会はなかなか大変なものでやじも多く、質問も多かった。星島二郎は自由党らしくすましていて何を言われてもへいちゃら。改進党の三木はちょっと小さい声を出して皆を引きつける。そしてあんまり人気もなく、質問も少ない。かえって司会者から「三木さんへの質問ある方」といった調子。稲次郎は、相変わらずのがさがさ声をだし、結局はみんなこの人の話に興味をもちひきつけられたよう。野溝書記長は、ちょっとおもしろい顔している。質問の答が一番多かった」
学校に提出する日記とはちがって、勝手なことを書いているが、この頃、政治への関心というより、政治家への関心があったのか、今から読むと笑えてしまう。
9日(金):映画「ひめゆりの塔」を次兄と見に行っている。入場料80円。この映画のロケが、母の実家のある、私たち家族の疎開先であった千葉県佐原附近でなされたと聞いていて、見たかった映画だったらしい。「映画はあんまりばくげきばかりやっておもしろくなかった。そして最後のところはいそいだせいか、まとまりがぜんぜんなかった」との感想も。
皇族の葬儀は質素がいい
1月12日(月)小雨:この日は始業式だったのだが、学校帰りに、都電組の級友5人で、「秩父宮様の御そう儀のお見送りにでも」と護国寺下車。秩父宮妃、高松宮・同妃、三笠宮を目の当たりして、やや昂った様子だが、「花輪はスポーツ界が最も多かった。豊島岡墓地をで、また護国寺停車場の方に戻り、並んでくるのをまった。ほんとうに質素なもので護営なんかずい分すくない。ということは世の中が進歩した。また前のようにならずにほしい。貞明こうごうより質素、この次は秩父宮様より質素となっているのだから、今さら前のようにやろうというのは一般がゆるさないだろう」と。添削したくなるような誤字や文章だが、皇族の葬儀の簡素化を期待していたなんて。ちなみに、貞明皇后の場合は、国費から2900万円準国葬、秩父宮の場合は宮廷費から700万円国の儀式として閣議決定されていた。
再軍備をめぐって、父と兄とが大激論
1月30日(土):この頃、大学生だった次兄と父親が何かにつけて口論になることが多かったようだ。この日は、再軍備論だった。次兄は「(日本は)武器を輸出したり、作りはじめている。輸出された武器は、朝鮮で人を殺したりしている・・・」と。父は「その武器を輸出しているから日本は成り立っている。人の国で人を殺したって、日本がもうかるならいい。そして日本は昔のように大帝国、五大国にならなくては・・・」と。「光子は、お父ちゃんの話を聞いて気持ちが悪くなった。日本の武器によって人間が死んでいる。その人たちは日本に住んでいないだけの事で、世界中の人間が死んではいけない。光子は半泣きで色々話した」と書いている。当時、私は、一人称を使うことができないで、家でも自分のことを「光子は」「光子が」と話したり書いたりしていた。いまの私には、晩年の父の老いのイメージが強く、こんなひどい、おそろしいことを主張していたとは、あらためて驚いている。父は、両親を早くに亡くし、その後、二十歳そこそこで、薬剤師になって朝鮮に渡り、兵役を済ませてから、シンガポールのゴム園で働き、大正末期に帰国、結婚している。日本の植民地での<いい思い出>ばかりがよぎっていたのだろうか。夏休みの8月4日にも、父と次兄は、この問題で口論になっている。父は相変わらず、愛国心と日の丸は大和民族の誇りみたいなことをいい、アメリカは教育に力を入れているところが優れている、だから、勉強が大事という結論?になったとある。次兄は、いまから思えば<アメリカの民主主義>に一種の憧憬を持っていて、父の反対を押し切って「英米文学科」を選んだのではなかったか。赤坂のアメリカ文化センターにもよく通っていたようだった。(続く)
初出:「内野光子のブログ」2023.1.1より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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