忘れられている“社会法”の意義 労働法・社会保障法の強化で勤労者救済の施策を

 法律と特段縁があるわけではないのだが、昨今の法を巡る推移を見ているとやはり口を閉ざしているのもいかがなものかと思い筆を執らせていただきたい。法の専門家ではないので若干の齟齬はご容赦いただきたい。
 
 最近、法律の話と言えば、日本国憲法改正について、特に憲法9条を巡る議論に収斂される傾向があることはいうまでもないと思う。事の重要性に鑑みれば当然と言えば当然の話であろう。しかし、何かしっくりこないと言うか、何かが抜け落ち、忘れ去られているように思えてならない。平和憲法下で法令遵守・コンプライアンスが叫ばれているにも関わらず、勤労者は法に守られるどころか増々厳しい状況に追い込まれて来ているからだ。
 新型コロナ感染症拡大が進むに連れ、派遣労働者やアルバイト労働者等の立場の弱い方々から職が失われ、整理解雇と同時に社宅等からも追い出され路頭に迷う方が増えて来ている。繁華街の駅前には2008年末の年越し派遣村以前のようにホームレスの方々が溢れ始めている。日本国憲法では「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」、「勤労の権利を有し、義務を負ふ」となっているわけだが、ホームレスの方々が増えてきているということは、法が守られていないということの何よりの証であろう。
 
 なぜこうした事態になってしまうのか? 平和憲法下の法体系がありながら何故人々を守り切れないのか? 法はどこに向かおうとしているのか? 等々多くの疑問を抱く機会が度々あった。だが、現在の法律はそもそもが近代市民法であり、資本主義の発展過程と近代市民法の発展過程を改めて振り返って見れば、抜け落ちていた何かが何であるか、次第に腑に落ちる様に解って来た。
 
 1959年の岩波新書、渡辺洋三著『法というものの考え方』などを読み返してみると、封建身分制を脱した近代市民が自由と平等と独立を掲げながら法を整備し資本主義社会を構築して行く中、資本を持たない労働者が市民法に対する社会的規制を求め、市民的自由を規制する社会法(労働法や社会保障法等)を獲得したことで人権が守られてきたことが伺い知れる。渡辺氏は著書の中で「社会法は、人間関係を単に市民と市民との関係としてではなく、資本関係すなわち資本の支配と被支配との関係のなかにおかれた具体的人間関係としてとらえる。そして、資本に対し被支配の立場におかれた人間の具体的不自由・不平等・隷属を救済・保護しようとする。そのため、資本所有者側の『市民法』的自由を具体的に制限するものである」と書き残している。
 
 ここで、日本の現行法体系を一般教養レベルで簡単におさらいすると、実定法と自然法、成文法と不文法、国際法と国内法、公法と私法と社会法、実体法と手続法と体系的に区分整理されていることを押さえておきたい。
 市民法とは:権利平等・私的所有・私的自治(自由・平等・独立)の三原則に基づく内容を定めたもので私法、具体的には民法などが該当する。
 社会法とは:市民法がもたらす問題を修正・解決する内容を定めたもので労働法、社会保障法などが該当する。
 実体法とは:権利・義務など法律それ自体の内容を定めたもので憲法、民法、商法、労働法などが該当する。
 手続法とは:実体法を実現するための手続きを定めたもので民事訴訟法、刑事訴訟法などが該当する。
 こうしたフレームが頭に入っていれば、難しいことはさて置き、現在の法律がどこからどこに向かっているか、どの部分が変化しているかが容易に見えてこようかと思う。

 少し具体的に話をすれば、現在の日本社会で現実に取り組まれている政策は近年一貫して規制緩和であり、市場経済優先、大企業優遇が図られてきている。租税特別措置により大企業は総計数兆円もの減税恩恵を受け、内部留保金を増やしてきている。
 その一方、現場で働く勤労者の地位は派遣労働等の増加にみられるように不安定となり、生活保護基準を下回るような生活水準に追い込まれてきている。年収が200万円に届かない勤労者も1000万人に及ぶ事態となっている。
 そうした状況下にあっても消費税は増税され続け、リストラ解雇は後を絶たず、法律は労働審判等で金銭和解解決ではどうかと迫ってきている。多くの場合、勤労者側はどんな理不尽な解雇でも雀の涙ほどの和解金で引き下がらざるを得ない状況に追い込まれ始めている。
 
 こうした状況から、法律というものは憲法が変わらなくても、租税法等の改正で大企業優先の方向が作られれば、本来社会法で守られるはずの勤労者側は派遣期間制限等の名目で雇用が打ち切られ、裁判の長期化を避ける等の名目から作られた労働審判法により数回の審議で僅かばかりの和解金で半ば強引に退職させられて行く姿が見て取れる。
 つまり、規制緩和の中にあっての法は、問題を修正する役目の社会法(規制法)の部分が骨抜きにされる方向に進むということであり、社会法が弱体化する中で法令遵守が求められれば、間接的に私法強化、私的所有強化に貢献する仕組みの中に置かれてしまっているという訳だ。
 これでは安心して働き平和に生活できる環境が維持できるはずはないであろう。また、近代法の中での手続法は、実体法に定められた諸権利を実現するための手続きを定めたものだとされているが、各種訴訟法などの手続法は諸権利が実現できなかったことに対する紛争事後処理の法であり、諸権利をどう実現するかの事前規制の法ではないという点も押さえておきたい。
 
 今日現在の日本及び世界各国は新型コロナ感染症対策で天手古舞であり、法体系の事まで考えている余裕はないといった感は否めないところだが、ほとんどの国では新型コロナを事前規制しウイルスに感染しないようにと努力していると承知している。ロックダウンなどもそのためであろう。新型コロナ対策の各種法改正も被害を出さないための事前対策として行われていると言えよう。
 しかし、勤労者に対しては勤労の権利も義務も後回しであり、この態度はやはり疑問と言わざるを得ない。日本の法曹界の内部事情まで知る由はないが、何故、社会法が骨抜きにされることに強く声があがらないのか? 勤労者の権利を担保する社会法の根幹が揺らいでいることに対し多くの法律家が沈黙しているのは何故か? 法律家の方々のご意見を伺いたいところだ。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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〔opinion10303:201121〕