忠臣というフィクション:富岡鉄斎の「南朝忠臣図」について

 早稲田大学構内にある會津八一記念会館で5月10日から6月16日まで「【富岡展示】近代の日本画」という企画展が開催されていたが、そこに富岡鉄斎の描いた「南朝忠臣図」が展示されていた。これは12枚で一つのシリーズを構成する作品で、一枚の絵に一人ずつ、総計12名の忠臣が描かれたものである。鉄斎の絵の代表作ではないが、この作品は明治期の知の巨人の一人である鉄斎と当時の思想状況を考える上で重要なものであると共に、「忠臣」という歴史的フィクションを考える上でも興味深いコーパスとなるものである。それゆえ、ここでは鉄斎の忠臣図から派生していく歴史的、イデオロギー的な問題を中心として考察していこうと思う。

文人画の最後の巨匠
富岡鉄斎は江戸時代後期から明治期にかけて活躍した儒学者であり、文人画家であるが、このテクストの主要問題の探究を開始する前に鉄斎の絵と思想さらには文人画に関して手短に語っておく必要があるだろう。小高根太郎の『富岡鉄斎』によると、鉄斎は1836 (天保7) 年に京都の法衣を商う大きな問屋の次男として生まれた。幼少年期に胎毒によって耳が遠くなったため商人の道ではなく学問の道を進む。最初に学んだのは国学であったが、後に漢学とくに陽明学を学んだ。絵の手ほどきを受けたのは二十歳少し前であった。
ここで当時の国学と漢学について少し触れておく。国学は江戸時代中期の真言宗の僧侶である契沖によって創られたとされる学問で、国学成立以前の儒教と仏教を中心とする学問傾向に反発して起きた学問である。日本古来の古道を重視した結果、ナショナリズム的側面が強い学問となった。契沖以後、この学問は国学の四大人と呼ばれた荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤によって発展していったが、鉄斎が国学を始めた時期は平田篤胤の理論が国学の中心であった。篤胤の理論で特筆すべき点は、それまで伝統的であった神仏習合を柱とする神道を批判し、尊王攘夷のイデオロギーを強く打ち出した点にある。鉄斎にもこの思想の影響が少なからず存在したゆえに、青年期、彼は尊王攘夷運動に参加している。また、篤胤の考えは後の国家神道への道を開くものであった点も忘れてはならない。
鉄斎は陽明学を春日潜庵に習っているが、高階秀爾は『日本近代美術史論』の中の「富岡鉄斎」において、「(…) 少なくとも、知行合一を説く陽明学の行動主義的教えが、幕末の勤皇の志士たちの大きな精神的支えになったことは疑いのないところ」と述べ、さらに、「(…)春日潜庵の周囲には、薩摩や水戸の志士たちが多く集まっていた。若い鉄斎が、このような雰囲気のなかにあって影響を受けないはずがない」と述べている。高階は陽明学がただ単に知識だけを重視するのではなく知を伴った行動をも重視していた点を強調しているが、この知行合一の精神は鉄斎に深く刻まれていたことは確かである。鉄斎にとって、学的探究姿勢とは研究領域のみに閉じ籠るものではなく、自らの目で確かめることを重んじ、さらに政治イデオロギー的な活動を進んで行うことを意味していた。
それゆえ、鉄斎は文人画の最後の巨匠と言われた。鉄斎を最後として日本における文人画の伝統は消えていく。その後、第二次世界大戦の敗戦まで、西洋的な経済・軍事的近代化政策と天皇を中心とした国家神道による国民教化政策とが重合された日本型植民地主義イデオロギーが強化され、そのイデオロギーに導かれた国家主義思想をベースとした文化が日本を蔽っていったのである。
文人画とは
前のセクションで述べたように、鉄斎は単なる儒学者ではなかった。文人画の伝統を引き継いだ才人であった。だが、文人画とは何にか。この問いに答えるためには、まず文人とは何かについて語る必要がある。中国における文人とは人文科学の幅広い教養を身につけた学者のことであり、武田光一は『日本の南画』の中で、その「学問の中心は、四書五経を経典とする儒学であり、人によってはさらに老荘思想や仏教にも興味を示した」と、また、「(…)次に重要なポイントは、中国ではこの学者が士大夫(したいふ)と呼ばれ、支配階級に属し、政治に参与したことである」と書いている。それゆえ、武田は文人を「(…)一般の庶民ではなく、社会のエリートである (…)」と結論づけている。
そして文人画について、「この文人たちが、学問や政治の余暇に芸術に遊んだ。文人にふさわしい芸術は、古来、詩書画とか琴棋(きんき)書画とされていた。このうち画を嗜んだ場合、これを文人画と言うのである」(注:琴棋書画は琴と囲碁と書と絵のこと)と述べている。この文人画の伝統は2世紀にあった後漢に始まるとされる。また、文人の余技に描かれた絵を文人画と職業画家の描いた絵を院体画と言うが、これは明代の文人である董其昌(とうきしょう)による区分である。
日本の文人画の始まりは江戸時代であったが、大槻幹郎は『文人画家の系譜』の中で、「わが国の文人画は、(…) 黄檗の渡来僧、独立や化林によって先鞭がつけられた」と述べている。ここに書かれている独立とは独立性(どくりゅうしょう)(えき)であり、化林とは()林性偀(りんしょうえい)である。この二人が日本の文人画のルーツである。大槻はまた、日本における黄檗宗と文人画の深い関係性を、「隠元の渡来によって山城宇治に黄檗山万福寺が創建され、引き続き渡来する文人的教養を帯した禅僧たちを中心とする黄檗禅院は、文人画の鑑賞とその制作を促す基盤としての役割を果たすのである」と書いている。日本の初期文人画の発展にとって黄檗宗の存在が如何に大きかったかが理解できるであろう。
だが、日本の多くの文人は元々の定義からすれば文人ではない。たとえば、代表的な文人画家である大雅や蕪村は社会のエリート階級に属していず、また絵を売って生活していた職業画家でもあったからだ。さらに、彼らは政治イデオロギーとは縁遠い画家でもあった。彼らと比べた場合、鉄斎は社会的エリート階級に属してはいなかったが、単に学問に優れて絵を描いただけではなく、政治的な活動にも積極的に参加していた点を考えれば、中国の文人の伝統的定義に近い文人であったと述べることが可能である。
「南朝忠臣図」について
 鉄斎の「南朝忠臣図」は1909 (明治42) 年に描かれたもので、「【富岡展示】近代の日本画展」の「南朝忠臣図」の解説シートには、「富岡鉄斎筆「南朝忠臣図」は、後醍醐天皇に始まる南朝に仕えた公卿や武将を12人取り上げて描かれた作品である」と書かれている。さらに、「明治期は南朝が正統な皇統とされ、楠木正成を祀る湊川神社が創建されるなど、南朝の忠臣が顕彰された時代であるが、鉄斎自身も国学を学び、若い頃尊王攘夷に傾倒していたことも、この作品の制作背景にあるだろう」という重要な指摘もなされている。
 だが、この「南朝忠臣図」について詳しく検討する前に、この12枚のシリーズ画にも示されている鉄斎の絵の特徴について一言述べておくべきであろう。先ほど挙げた武田の本には鉄斎についての記述があり、「鉄斎は儒学者をもって任じ、画は余技とし、自分の絵を見るときは典拠があるので、まず賛を読んでほしいといったという」と書いてある。賛とは画面に書き添えられた絵についての詩句であるが、この鉄斎の言葉を読むと、鉄斎の他の絵と同様に「南朝忠臣図」においても、絵だけではなくその賛も重要であることがはっきりと理解できる。
 前述したように、「南朝忠臣図」は12人の南朝の忠臣が12枚の絵に一人ずつ描かれている作品であるが、その12人とは北畠親房、藤原藤房、楠木正成、北畠顕家、新田義貞、児島高徳、名和長年、結城宗弘、千種忠顕、楠木正行、菊池武時、畑時能である。これらの忠臣のそれぞれの絵に鉄斎は四字句の賛を書いている。北畠親房の絵には「論譔(ろんせん)皇統(こうとう)」(「優れたな天皇紀を表わした」の意)、藤原藤房の絵には「免冠頓首」(「官を辞して額ずき謝る」の意)、楠木正成の絵には「増輝日月」(「正義が輝きを増す」の意)、北畠顕家には「殺身成仁」(「義のために死す」の意)、新田義貞には「忠肝義胆」(「義を貫く精神」の意)、児島高徳には「文武偉略」(「文武と作戦能力に優れる」の意)、名和長年には「義集一門」(「一族挙げて義を成す」の意)、結城宗弘には「勤皇先鞭」(「他の者に先駆けて天皇のために尽くす」の意)、千種忠顕には「丹心炳如(たんしんへいじょ)」(「真心があることが明らかである」の意)、楠木正行には「垂名竹帛(すいめいちくはく)」(「歴史に名を残す」の意)、菊池武時には「父子報国」(「父子共に国に報いる」の意)、畑時能には「一身為胆」(「大胆で勇敢である」の意)と書かれている。ほとんどすべての句が後醍醐天皇のために忠義に励んだことを称賛するための句である。
 しかしながら、ここに描かれた多くの忠臣たちは南朝のためにひたすら尽くし、後醍醐天皇に忠実であり、あらゆる命令に従ったというのはフィクションである。このことはたとえば、亀田俊和が『南朝の真実:忠臣という幻想』の中で詳しく語っている。確かに、亀田のこの本はいたずらに南朝時代の出来事を現代的な出来事と比較して示すという歴史的虚構へと通じる危険な単純化を行っているが (こうした時代的特質を考慮しない提示方法が歴史的幻想の第一歩となる可能性を孕むことに対して亀田はまったく警戒心を持っていないようである)、それでも南朝の忠臣たちの逸話は皇国史観的フィクションによって作り上げられたものである点を正しく指摘している。だがこの点に関してはここではこれ以上触れず、次のセクションで改めて考察しようと思う。
創作された忠臣
 南朝の忠臣を作り上げるベースになったものは江戸時代の国学者たちが唱えた尊王攘夷思想であるが、この思想は江戸時代末期に大きな政治イデオロギーとなった。京都国立近代美術館で1997年に開かれた「文人画の近代:鉄斎とその師友たち展」の図録の中にある冒頭のテクストにおいて加藤類子は江戸時代末期の志士たちについて、「彼らは自身の思想や信条の矛盾には無頓着に、国学の育てた偏狭なまでの国粋主義と儒学や道教を受容した生活が同居したまま、幕末という時代を突っ走ったのである」と述べ、さらに、「鉄斎もその時代の子であった」と述べている。確かに忠臣のフィクションが国民全体に浸透していったのは、日本に天皇制ファシズムの嵐が強烈に吹いた時期、平泉澄が中心となって展開した皇国史観の多大な影響によってである。だが、このフィクションのベースは江戸期末期にすでに存在していたのである。
 史実に照らして南朝の忠臣について、前記した本の中で亀田は「(…)現実の南朝も室町幕府と同等、否それ以上に内紛まみれの政権であった。南朝は、平泉が論じるように「吉野の君臣の忠烈、日月と光を争っ」てなどいない。普通の人間たちが、普通に欲得づくで行動する普通の姿しかない。「南朝忠臣史観」など幻想に過ぎないのである」(平泉は平泉澄であり、引用文中の平泉の言葉は『少年日本史』にある) と語り、忠臣の虚構性を強調している。その根拠として忠臣と呼ばれた武将の実像を亀田は詳しく分析している。たとえば、忠臣中の忠臣として祀り上げられた楠木正成に対して、亀田は『梅松論』の記述に基づきながら、後醍醐天皇側が足利尊氏を九州に敗走させたとき、楠木正成が新田義貞を打倒し尊氏と講和をするように後醍醐天皇勧めた点に言及している。正成は武士たちの人望は義貞よりも尊氏の方がはるかに高く、現実的に考えれば義貞を撃って尊氏と手を組むことが最善であると判断するようなレアリストだったと亀田は述べているのである。この点だけを考慮しても、忠臣の神話は崩れ去るが、亀田によると千種忠顕も実際には、「建武新政開始後は後醍醐から莫大な恩賞(おんしょう)を与えられるが、富と権勢を手に入れたことにより毎日酒宴を開く贅沢な性格を送って世間から顰蹙(ひんしゅく)を買ったらしい」と書いている。また、名和長年や北畠顕家などに関しても、忠臣とは言い難い行動があった史実を亀田は提示している。
 ここで、何故忠臣が必要であったのかという問題について考えてみたい。南朝の忠臣神話は先ほども触れたが江戸時代末期の尊王攘夷思想を主張する国学者が創出したフィクションであったが、このフィクションが強化されたのは明治期であった。明治維新によって日本は近代国家への道を歩むことになるが、この時代、国家統一の精神的支柱となり得る中心的イデオロギーが必要であった。それが天皇を国家の中心に据える祭政一致に基づく国家神道精神であった。村上重良は『国家神道』において、「(…)南朝の忠臣を祀る神社は、明治前半を中心に、集中的に創設された」と述べている。さらに、村上の「南朝の忠臣を祀る神社の創建、列格に見られる政府の異常な力の入れかたは、靖国神社の創建とともに、天皇への忠誠を顕彰し、「臣民」の模範とするという露骨な国民教化のねらいを物語っていた」という指摘は大きな意味を持っている。国民教化の名目で行われたイデオロギー操作としての忠臣神話は天皇制ファシズム期に確実に国民をコントロールする支配装置となっていたのである。
 あるイデオロギーを強固なものにするためにフィクションが用いられる。その虚構を国民が簡単に信じ込み、支配体制に迎合していく。第二次世界大戦前夜と大戦中の日本の様相を観察すれば、こうしたことが実際に起き得ることが明確に理解できる。しかしながら、この支配装置は短期間に容易に構築されたものではない。最後にこの問題と、この支配装置確立の中で鉄斎の「南朝忠臣図」が果たした役割について検討し、このテクストの考察を終わろうと思う。
 島薗進が『国家神道と日本人』の中で指摘していることでもあるが、先ほど触れた『国家神道』において、村上は忠臣神話を必要とした国家神道は明治期に国教としての地位を確立するが、神道は宗教ではないという立場を日本政府が取ったことを重要視している。明治期以降第二次世界大戦終了まで、政府は国家方針として日本が天皇を中心とする祭政一致の国家であるという立場を鮮明にしていたが、国家神道は宗教ではなく国家の支柱となる理念であり、個人が信じる宗教とは別次元のものであるとしたのだ。しかしながら、神道に宗教的性格がないと言うのは誤魔化しにしか過ぎない。政府が「神道は宗教に非ず」といくら叫んでも、神道の宗教性は否定できない。すなわち、ダブルスタンダードを掲げることによってしか国家神道は成り立たなかったのである。この矛盾を乗り越えるには理論よりもフィクションが必要であったに違いない。
 ロラン・バルトは『神話作用 (Mythologies)』の中で、「(…)最初から毅然として示すべきこと、それは神話がコミュニケーションシステムであり、メッセージであるということである。そこから、神話が対象や概念あるいは観念ではあり得ないということが理解される。それは一つの意味様式であり、一つの形式なのである」という言葉を語っているが、この言葉は注記すべきものである。何故なら、神話はある形式 (「シニフィアン」と呼ぶべきだろう)を取って作用することによって伝達機能を担うが、それは神話がその内容 (「シニフィエ」と呼ぶべきだろう)よりもシニフィアンの方が優先する特性を持つものであり、神話的展開とはシニフィエの伝達ではなくシニフィアンが多くの他者に伝わっていくことであるという点を示しているからだ。シニフィエに対するシニフィアンの優位という問題はジャック・ラカンが彼のセミネールの中で語った大問題であるが、この問題はある個人において現出するものであるだけではなく、国家が大衆誘導を行うために用いる装置の基盤とて機能するという問題をも示すものである。神話にとって重要なことは中身ではなくその言葉自身にある。まさに、「シニフィアンの優位」がそこにある。さらに、神話を増幅するために言語記号以外の記号も動員され、神話が強化されていく。絵画記号は神話増幅装置としての機能を明確に提示するものである。
 村上や島薗が言うように。国家神道には確固とした理論はなかった。それゆえ教義を語るためには他の宗教を取り込む必要があった (寄生する必要があったと言ってもよいだろう)。キマイラ的なものは自己と他者との境界が崩れなければ存在できない。そこには確固とした実体を持つものは存在しない。フィクションに守られていなければ存続できない。シニフィエが欠如したシニフィアンの上に、新たなシニフィエの欠如したシニフィアンを重ねていくこと。それを繰り返すことによってしかキマイラ的なものは存続することができないのだ。
 では国家神道が作り上げた神話はどのように国民に浸透していったのか。この問題を考える上で鉄斎の「南朝忠臣図」の分析が一つの答えを与えてくれる。「南朝忠臣図」は前述したように単なる絵ではなく、賛も書かれた作品である。それゆえ、異なる記号によってフィクションが増幅されていることにわれわれは気づく。だがそれだけではない。この神話作品は国家の強制によって鉄斎が描いたものではない。鉄斎の中に尊王攘夷思想があったとしても、明治維新による近代化は尊王攘夷思想を流行遅れのイデオロギーにしたことは確かである。それにも係わらず、鉄斎は明治政府の国家神道政策をバックアップするようにこの絵を描き、忠臣たちの墓を全国に建立した。鉄斎はナショナリストだったためにこうした行動を取ったのだろうか。そうした一面があったことは事実であろう。しかし問題となることは、鉄斎を含めて当時の多くの国民がそこに強制力があったにせよ、忠臣という神話を受け入れ、受け入れた後に急速にそれを信じる方向に向かったということである。忠臣というフィクションが広い範囲に亘って浸透していくためにあらゆる記号が用いられた。次から次にフィクションを創造することによって、虚構も真実のように思われるようになってしまうのだ。フレデリック・フランソワは彼の言語学のセミネールの中で、「真実というものよりも真実らしさの方が重要な場合がある」と語ったことがあった。忠臣というフィクションも様々な記号表現を通して提示されることによって、真実よりも真実らしい虚構となっていったのではないだろうか。だが、この国家的フィクションの確立には国家の強制力だけが作用したのではない。それを下支えした在野の知識人も存在していたのだ。「南朝忠臣図」は富岡鉄斎もその一人であったことを明らかに示している作品である。歴史は上からの強制力だけでは作られない。この12枚の絵はそのことをはっきりと語っているのである。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study983:180709〕