怒れ!国民!ちきゅう座的行動と理論を考える日本革命序論(11/2社会主義理論学会「ウクライナ問題」まであと5日)(11/8現代史研究会まであと11日)

まずはこちらをご覧下さい。

 

http://revolutio.exblog.jp/21250790/

 

記事が流れていくのが早いので、面白い思ったものを抜粋してみました。

 

まだまだ面白いものが沢山ありましたが僕自身の時間の余裕がなかったため最近のもので語り足りなく感じていて保留中とした記事です。

 

現代歴史ウクライナ問題の研究会二つが迫っていますね。

 

それはさておき。

 

今日掲載された『「現在」から考える歴史論―吉本隆明から三木清へ―』の問題意識は、良く聴かされていたものの復元を感じられ興味深く感じていました。

 

つまり、近代と資本主義との進化や成長とは何かの根本的問題であり、改善や抵抗とは何か?の問題です。

 

マルクスさえあるいは、経済至上主義の中で、資本主義の中での成長の中で共産主義を模索していた錯視があるのではないか?

 

人類史、有史の中で、資本主義の歴史やら日本では、江戸時代の歴史が長いと言えどもたかだか、数百年に過ぎない。

 

それに比べて、縄文時代の方が遙かに長いであろうし、ガリレオの地動説以前の世界、近代以前方が、圧政は、あったとしても人間は、豊かに過ごしていたのではないか?

 

「近代化」「進化・成長」と「資本主義」こそが、問題なのではないか?

 

それが、クロード・レヴィ=ストロース以後の構造主義、文化人類学の問題意識であり、白土三平と言う『カムイ伝』を描いている「赤い巨人」にまで影響を与えています。

 

仏教は、進化論的ではない。

 

キリスト教も近代以前であり、進化論的基盤にはない。

 

サルトルは、近代的であり、理性に重きを置いていた。

 

マルクスもその意味では、両義的であり、資本主義的進化論信奉の中で、進化方向、成長方向を批判している狭い範囲に留まっているのではないかと言う批判は、良く聴くものであり、大衆の側からの知識階級、左翼進化論、資本主義成長論インテリゲンチャ―批判として、歴然とあるように感じているわけです。

 

これについては、「あれかこれか」ではなく、新しい弁証法、資本主義成長幻想に対しての真性の社会主義的止揚を常々考えなくてはならないと思っていた個所でもあります。

 

先日の池上彰の暴動を考えるニュース解説、ベルリンの壁、国民は、東ドイツから西ドイツへ亡命したがっていたこと。

 

本来、人間の顔をした社会を目指していた社会主義でありながら、それは、社会主義ではなく、古い太古の権力、圧政の社会でしかなかった反省、

 

そして、今、香港の学生暴動の問題、「中国は、金の卵を産む香港を残すために、一国二制度を採用していたが、本土中国の経済成長によって、それを、凌駕する勢いにある故におこった問題」と解説。

 

この中国の在り方は、研究に値する面白い段階にあり、それは、本当に、共産主義であるのか?

 

それとも、資本主義、かつての歴代中国王朝的支配の延長であるのか?

 

それについてもまだまだ、語るのは、情報が足りない状況であろうと思うのです。

 

しかしながら、かつてのソビエトなどの社会主義の方法では、資本主義的技術力に全く及ばなかった。

 

怠惰な大衆、労働者の混乱は、何故、資本家の支配から脱して真に自由になったはずなのに、考える事をやめてしまったのか?

 

考えて、工夫する技術立国たるべき、労働者国家であるはずなのに、怠惰な混乱を持ったのか?

 

その根本的「社会主義の失敗と教訓」の問題意識がここにある問い設定そのものの様に感じているからです。

 

しかし、僕としては、吉本隆明氏には、まだまだ不満があります。

 

それは、時間があるときにゆっくり書き出したいと思うのですが、今は、問題意識の共有点を明確に書き出しておくにとどめて、ウクライナ問題、ロシアとアメリカの最新の動向を見守りながら、更に、根本的な思想・哲学的整合性に至るまで考えあわせていかねばならない点です。

 

廣松渉氏も護教派としては、近代化資本主義的成長論派、経済至上主義派であったかも知れません。

 

だが、しかし、今こそこの問題にメスを入れていき、真性社会主義論として、体系的にも仕上げていかねばならない時であると僕は、日々是、考えているわけです。

 

今回も導入部分だけになりますが、じっくり討議にあげていきましょう。

 

取り急ぎ今回はこのくらいで。