思い出のキャンパス、学習院大学

  

小雨のなか、左は輔仁会館、正面に西五号館を望む。2025年10月16日撮影。
 「貞明皇后と華族」展の開場は10時、目白には早めに着いたので、小雨の中、キャンパスの一部をまわった。私の最初の職場が目白の学習院大学だったのだ。卒業間際、学習院から非常勤で出講されていた先生と指導教授の勧めで、ようやくもらった内定を蹴って? 研究室勤務の「助手」になった。1964年の政経学部から法学部と経済学部への分立を目指しての「助手」の数合わせの一員ということで、5人が採用された。研究室の雑用係とでもいうか、お茶出し、電話取次、昼食の出前注文、複写、資料作り、校正手伝い・・・などなど。最初の一年は、著名な先生たちの研究室の暮らしに直に触れられるのが楽しかった。私たちの「共同研究室」北一号の2階からは、できたばかりのピラミッド校舎も見えた。北側には、木造の北別館が残っていて、アプローチの階段も木製で、靴の音が気になる、木の床が光っているような印象だった。新しい中央図書館もできたが、先生方が、実際によく利用されていたのは、北一号館の1階にあった政経学部の図書館だったと思う。かつての輔仁会館には簡単な食堂と蓁々会の売店があったか。1964年4月、政経学部から法学部が独立した。しかし、その仕事は一生続けられるものではないことはわかっていたのに「なぜ」の思いに苛まれ、新卒でもない女子の採用は難しく、公務員試験に備えるしかなかった。

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左、1964年5月撮影、新図書館屋上より今はなきピラミッド校舎を望む。右、1965年3月撮影、退職を控えて、北別館を望む。手前のスズカケは大正13年に植えたとのメモ書きが。


在職していた頃の学習院年表、ミュージアムの常設展より。

 すっかり様変わりしていたキャンパスだったが、北一号館こそ残っていたが、キャンパス内には、高層ビルが立ち並び、体育館も輔仁会館も新しくなっていて、食堂も広く、セブンイレブンも、紀伊国屋書店も入っていた。

現在も60年以上前の面影を残す北一号館。2025年10月16日撮影。

 しかし、変わらなかったのは、西門から入ったところのグランドとテニスコート、山手線沿いに残る血洗いの池をめぐる緑地であった。かつては手入れも行き届かず、いまのような遊歩道も整備されていなかった。そして、キャンパスのあちこちには桜の木も多く、建物の間には、高木古木が残されていたことだった。守衛さんからもらったキャンパスマップによれば、都電荒川線学習院下に近い一番奥にある馬場やプールは、そのままのようだったし、職員宿舎の辺りはテニスコートになっているらしい。

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血洗いの池の遊歩道は整備されていたが、足元には銀杏や木の実がいっぱい。2025年10月16日撮影。

あらためて、もう一度、ゆっくり回りたいものだと思っている。

<おまけ、貴重な写真?>


1964年2月、弓道場の前で、NHKドラマ「虹の設計」のロケで来ていた佐田啓二と。事務局の人も一緒に、撮ってもらった。「あなた方は、勤務時間中に何をしているのですか」と労働法のM先生にきつく叱られた思い出の一枚。

初出:「内野光子のブログ」2025.10.19より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2025/10/post-6b4e19.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion14481:251021〕