恥を知れ

著者: 藤澤 豊 ふじさわ ゆたか : ビジネス傭兵
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三十そこそこのとき友人の労働争議に関わった。彼は欧州駐在員の辞令を受けて断った。優秀な技術屋だったが、欧州駐在員の候補は他にいくらでもいたし、彼が適任とも思えなかった。一人っ子として彼は高齢のご両親の健康を気にかけ、ちょっと遠いが実家から通える距離にある会社に就職した。バイアスを排除して状況を真正面からみれば、活動家としての彼への嫌がらせででしかない。今風の言葉で言えば、いじめだ。

欧州駐在の辞令のちょっと前に、こっちには米国駐在の辞令がでた。研究所から子会社の輸出商社に飛ばされ技術屋への道は既に閉ざされていた。東京の子会社に追い払ったにもかかわらず、しょっちゅう工場に顔をだす。顔を出しては組合事務所に出入りしている。煩わしいからいっそのこと海外に飛ばしてしまえというのが本音だったろう。国払いになった。どうせ、いてもしょうがないところにいる身、多少のためらいも不安もあったが、いいじゃないか。

駐在員の生活は厳しかった。知らぬ土地、不自由な言葉に加え度を超えた恒常的な人手不足。仕事というより戦いのような張り詰めた毎日だった。三年目が終わろうとしていたとき、思わぬ病気になっていることに気がついた。健康診断などないから、気がついたときにはもう入院手術しか手がないところまで悪化していた。現地で病人はかかえられない。薬で症状を抑え、駐在を途中で切り上げて急遽帰国した。手術も上手くいって数ヶ月ほどで職場に復帰した。そこに彼から電話があった。話は聞かなくても分かっていた。話しを遮って、「心配するな、分かってる。事実は事実として全部話してやる。嘘は言わん。」

四年ほどの間に身分保全の訴えの場が千葉地裁から東京高裁に移っていた。弁護士事務所で大筋の話を聞いて、山のように積み上げられた公判記録を目の前にしてちょっと腰が引けた。いやいやたいしたことないからという彼の弁に引きずられていくつかを手にした。情報密度が極端に低く、見た目の量が意味のないことを知った。

彼が重要と考えていた公判記録数冊を渡された。よく存じ上げている一世代前の先輩駐在員の証言もあれば、海外に出たこともなく、どこで海外市場に関与されたのかという人のもあった。当時、仕事で直接お世話になっていた方々が証言してなかったのがせめてもの救いだった。

渡された数冊に目を通していって、なにこれ?という証言に何度も何度も引っかかった。傍聴席で聞ける生の証言ではなく、公判記録として記述されたものを読んだ限りなので、言い方の違いやニュアンスは分からない。ただ、そこには視点の違い、立場の違い、考え方の違いなどなどによる意見や発言の違いとは別の次元の世界があった。よく引合いに出されるコップに水が半分は入っていると言うのか、半分空だと言うのかというような視点の違いによるものではないことは証言された方々が一番ご存じのはずだ。

「駐在員は会社の将来を背負って立つ若きエリートだ。」という虚構の構築がほぼ完了していた。虚構の構成要素を関係者の証言のかたちで作り上げ、それを積み重ねる手堅い手法だった。手法は手堅いが事実がない。あれこれ余計な策はいらない。一見難攻不落に見えるだけの虚構だ、潰せば終わる。

業界によっても違いもあるだろうが、七十年代も末、工作機械業界の米国駐在員の中には冗談半分、卑下半分で自らをデリートと呼んでいた人もいたくらいで、人材という意味でも、待遇をみても五十年代や六十年代の華やかな頃とは全く違っていた。駐在に出れば、組織も設備もないところで専門外どころかどぶ掃除のような雑用も含めてありとあらゆる業務を一人でなんとかしなければならない。それはそれで将来の糧になるが、エンジニアとしての専門分野での成長は望みようがない。

そのため、将来企業の個々の部隊の中枢を担うことを嘱望されていた人材は出張までで駐在に出さなかった。証言された何人もの方々は、こう証言すれば、こう虚構の構築が進むことを知っていて、よくぞそこまでと驚くほどの真っ赤なウソをついて虚構の構成部品を作っていた。公判という公の場で、ウソが偽証罪に問われることも承知で、会社という組織を防衛するという大義名分の下、集団で役割分担さえしながら真っ赤なウソを繰返しついていた。

その方々、年齢からして就学年齢に達した子供もいたはずで、家に帰れば子供にウソはダメと言い聞かせているはずの人達だ。どなたも自らの意思で証言台に上ったのではないだろう。会社組織のなかで明示か暗黙かにかかわらず何らかの強制力をして、労働争議などなければ、ただの善意の人で過ごせた方々に組織だった虚構構築をさせていた。

会社にとって都合のいい証言を拒んだところで、当時職を失うことはなかった。ただ、間違いなく冷遇されただろう。会社のためという都合のいい大義名分を持ち出して保身を正当化する中堅社員。ロジックで身分保全の正当性を主張してきた従業員一人満足に説得できずに、虚構の正当化を会社組織ぐるみで進め、暗黙のうちだとしても脅迫じみた環境ででしか従業員に服従をせまることができない経営陣とその従者達。偽証が、偽証を依頼、指示したことが適法かどうかの問題ではない。ことは、経営者、会社員、従業員などである以前の人としての存在そのもの、人としての尊厳の問題になる。虚構構築に関与した方々も、ウソも方便とか視点の違いとか考え方の違いとかいう逃げ口上が通用しない性格であることくらい理解する最低限の知能はあったはずだ。知能だ、あえてあの人達に良識を求める気もない。その後、自らがなさったことを次の世代になんと説明してきたのか。大方、口を噤んで隠し通して来たのだろう。それで一社会人としてまっとうに生きてきたとでも思っているのか。“恥を知れ”という以外の言葉が見当たらない。

東京高裁で、当時労働争議を専門とした総資本のお抱え金満弁護士-言動はヤクザのような痴れ者-の挑発に乗って言い合わざるを得なかった。恫喝に近い言い方で支離滅裂な論理を振り回して突っかかってきた。しょうがないから一つひとつ事実をならべて、まともに何も言えなくなるまで論破した。弁護士先生にもこの程度の者がいることを知った。できる限り色をつけずに事実を事実として話した。事実は事実、否定のしようがない。ヤクザのような辣腕弁護士でも築き上げてきた虚構の崩壊を防げなかった。あっけなく崩れてなくなった。馬鹿弁護士が周辺の話しで突こうとするものだから、後になって突いてくるかもしれない隙間も埋め尽くせた。数手先までも読む必要もない詰将棋のようなものだった。もう、会社側に大勢をひっくり返すような手は残っていない。虚構にのって虚勢を張ってたのが去勢されたかのように急におとなしくなった。なにかの拍子で顔を合わせる度に人を睨みつけていた人事総務畑の使いっ走りが顔を伏せて足早に逃げてゆく。謝罪のひとつもなしに示談を言いだした。もう失う体面もないものがそれでもまだ失う体面が残っていると思っていた。

最も基本的な部分でウソで作った虚構が必要な組織は最終的には持たない。国のレベルでいえば、ソ連の崩壊も歴史上の多くの独裁国家も、たとえ一時の輝きがあったとしても、最終的には崩壊を免れなかった。あれから三十余年、ウソで守ろうとした会社も倒産して、きれいさっぱりなくなった。人間の尊厳まで堕して、あの人達はいったい何を守ろうとしたのだろう。守ろうとしたものにどれほどの価値や意味があったのだろう。

残念ながら今でも似たような状況にある組織や人も結構いらっしゃるだろう。個人ができることは限られている。限られてはいるが、個人が生きないところにまともな社会があろうはずもない。まともな社会にいたいと思う。その社会で後悔も恥もできるだけ少ない人生をおくれたらと思う。
2013/9/18

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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