ミュンヘンのホーエンツォレルン通りを見下ろす一室に着いて一週間がたった。この部屋で私はもっぱら仁斎『論語古義』の現代語訳原稿の整理に励んでいる。「公冶長」と「雍也」の二篇の原稿整理を終えた。日本でやったら二月も三月もかかる仕事を一週間で終えることができた。空間的に自分を日本から隔離しても、ネットは通じている。「道なき邦」の情報は容赦なく私のパソコンに流れ込んでくる。そのことは私の仁斎による『論語』解読作業を妨げることにはならない。むしろ私の『論語』解読作業の動機をいっそう強めるものでもある。私の『論語』を読む作業は「道なき邦」への思想的対抗作業でもあるのだ。
孔子は「道なき邦」を去ることをしばしばいう。「道行われず。桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん」(公冶長)といい、「邦に道なきに、富みて且つ貴きは恥なり」(泰伯)といい、「邦に道あるときは則ち知、邦に道無きときは則ち愚(邦に道あるときには知者として行動し、邦に道なきときには愚者として振る舞う)」(公冶長)などという。
ここには春秋戦国という乱世に諸国を巡遊する教説家としてあった孔子の生き方がある。だが私がいまこれらの孔子の言葉に注目するのはその生き方においてではない。私が注目するのは「有道」「無道」という国家評価のあり方についてだ。孔子は「道なき国」を棄てたのである。「国家」よりも重く、貴いのは「道」であった。そういえば、「道」の教説家である儒家として、それは当然の言説だと人はいうかもしれない。だがこれを当然とするのは、儒家というものの成立以降の後世的立場によってである。われわれが今注目すべきなのは、「道」が国家よりも、その支配者よりも優先する第一のものであることをいった最初の言説が孔子に成立したことである。 私は「国家」が「民族」が優先する現代から驚きをもって孔子の「道」の言説を再発見する。彼は「道なき国」を見捨てたのである。
「道」とは何か。それは人間世界がそれをもって成立する地盤であり、それに由ることで人間が人間でありうる大路である。この「道」のない国家は国家ではなかった。孔子は「道なき国」で地位をえて富み、栄えることを恥としたのである。
われわれの国の政治家にとって「国家」すなわち「日本」に優先するものは何もない。ただひたすら「日本」をいうこととは「道なき国」の自己主張であり、自己証明でしかない。私はこの「道なき国」への対抗として『論語』の解読作業を進めている。
(16年8月5日)
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2016.08.05より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/64719464.html
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