古い週刊誌(『エコノミスト』1999年11月2日号)に、金子勝『反グローバリズム』に対する間宮洋介の書評が掲載されている。「精緻な議論で、米主導のグローバリズムを切る」という小見出しが付されている。この小見出しからも判るように、極めて好意的な――というよりは、賛意尽くめの――批評である。間宮の高い評価には驚いた。とりわけ、「グローバリズムに対抗するための明確な構想を提示しえている」とする評価がそうである。私は金子の提示した構想にはまったく現実性がないと思っていた。間宮は金子の構想――書評でいうところの「二つの戦略」――が本当に現実性があると思っているのであろうか。間宮は「単なるプランではなく、具体的な方策が示されている」と書いている。この言い回しから判断する限り、現実性があると考えているようにも見える。
だが、『反グローバリズム』で示された金子の提案、例えば、リージョナル貨幣、あるいはアジア「通貨圏」といったものにいかなる現実性があるというのであろうか。金子の提案はたしかに「具体的」ではある。しかし、「具体的である」ことは直ちに「現実的である」ことと意味しないのである。一体間宮はいかなる根拠で金子が「グローバリズムに対抗するための明確な構想を提示しえている」と判断したのであろうか。
そう疑問に思っていた。しかし、ある雑誌に載っていた間宮自身の著作『同時代論』のキャッチフレーズを見て、金子に対する間宮の高い評価の理由が少し判った気がした。キャッチフレーズは、「市場原理主義、『敗戦後論』、脱構築・多文化主義……これらの言説に徹底した批判を加え、公共空間論を提起する」となっている。金子の『反グローバリズム』ではセーフティネットの張り替えに加えて、市場と国家との間に“公共空間”を埋め込むということが戦略の一つとして提唱されている。さらにいえば、『同時代論』のサブ・タイトルは「市場主義とナショナリズムを超えて」である。これもまた金子の『反グローバリズム』にそれを思わせる言説が見える。「公共空間論」といい、このサブ・タイトルといい、間宮の主張は深いところで金子のそれと繋がっているのだろうか。
そんな疑問を持ち、そしてまた『図書』に書かれていたキャッチフレーズに惹かれて、「積読」状態になっていた間宮の『同時代論』を読んでみた。少々驚いた。金子の主張のかなり多くの部分が間宮によって過去にすでに展開されていたのだ。金子はある種の「簒奪」を行っている。例えば、私的空間(個人の住居)の集合によって非私的空間(広場、街路、etc)が形成されるというのは、金子の独創ではなく、間宮が主張していたことなのだ。
間宮はなぜ自分の主張が、何らの断りも無しに「簒奪」されたことを怒らないのか。確かに最近の動きを見ていれば、間宮よりも金子のほうがはるかに注目されている。同じ主張でも、金子の口から出た方が人口に膾炙しやすいということはできる。間宮は、自分の考えが広まりさえすれば、――それが「金子の主張」としてであれ――それでいい、と考えているのであろうか。間宮の「人物の大きさ」として理解すべきかもしれない。しかし、だからといって、金子の「簒奪」はやはり「簒奪」である。
金子は、金子自身がそういっているように、もうマルクスとは無縁になっている。根っからのケインジアンである間宮(それゆえに、間宮は新古典派を激しく批判する)と金子が深いところで繋がっているのもそのせいであろう。だが、そのこと自体を問題にする必要はない。問題は金子による間宮の主張の「簒奪」ということにある。考え方が近いということは、「簒奪」を正当化することにはならないであろう。
金子勝『反グローバリズム』(岩波書店、1999)
間宮陽介『同時代論』(岩波書店、1999)
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