愛国心教育

著者: 藤澤 豊 ふじさわ ゆたか : ビジネス傭兵
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古今東西、隣国同士の関係は、常態的に緊張したものだったろう。お互いに相手国を尊重し友好な関係だったときもあったろうが、諍いの絶えないときの方が圧倒的に長かったはずだ。紛争がなく平和な時代であっても、一方が支配する側で、他方が従う側という時代もあった。この支配-被支配関係を友好な関係と呼ぶのは、お馬鹿な植民主義者ぐらいだろう。隣国同士ではなく地理的にも文化的にもお互いに遠い存在であれば、関係することも希で、お互いの存在が意識の上に登らないし、利害関係も生じない。疎遠が故に、諍いの起きようがない。ほとんど関係がないのだから友好関係云々にもならない。改めて言うほどのことではないが、隣国同士は良くも悪くも緊張関係にあって、互いに影響を及ぼし合う状態にいざるを得ない。
判断基準の確立には面倒だが必須の自己認識や自己規定という基本的な思考の繰り返しが要求される。この面倒な作業を繰り返している人は残念ながらそう多くはない。そのため、自分達がどうなのかと自問すると、必ず他との比較に走る。自国と隣国、もっと身近なことで言えば、我が家とお隣さん、オレとあいつ。絶対評価をし得ない人間の限界故に、自らを評価するのに、手近な比較対象を必要とする。
その上、悲しい人間の性で、放っておくと、「隣の芝生は青く見える」ということわざの通りで、オレよりあいつ、自社より他社、自国より隣国の方がいいんじゃないかと思えてしまうなどという訳の分からない話になりかねない。この落ちは、ある意味、そうなって当然なところがある。フツーの人であれば、自分の至らない点はそこそこ自覚している。一方他人の目立つところは(表面的に)分かっても、困っている内情までは知り得ない。これが企業対企業となると、お互い良い所しか見えないようにするから、自社の問題には苦しめられ、よく知っているが、他社の問題は知り得えず、相手の良いところだけが残る。
企業対企業の場合、他社との比較で自社の優位性を訴求する広告は、少なくとも日本では、法律で禁止されている。そのため、比較の対象は自社の以前の製品ということになる。これが、企業のレベルではなく、国のレベルになったらどのような規制があるのか?勉強不足でよく知らないが、多分、規制と呼べるようなものは何もないだろう。たとえ、あったとしても実質的な拘束力はない。そのような拘束力がないことを、一国の元首や政府高官の言動が証明している。本来、そこにあるのは、あるべきは規定や規制を超えた、もっと高次元の国家として、国家を代表する立場の人として、またその国家を構成する住民としての文化や教養、良識など全ての資質と能力に裏付けられた人としてのあり方のはずだ。この人としてのあり方がその国や社会、国民国家としての成熟度を示している。
この成熟度が独立した個人個人の心情のなかに文化や国家体制、経済体制。。。に対する誇りと愛着を醸成する。醸成されたものを愛国心と呼ぶ。愛国心とはこのようなもの以外ではありえない。ましてや行政による教育でどうのこうのと言うものではない。あったとしたら、そこで言っている愛国心は中身のないお題目までの物ででしかないだろう。お題目は、ただのお題目で終わらずに、ある特定の社会層の利益の為に使われかねない。そのようなもの、ない方がいい。
何時の時代も、問題のない組織や社会、国家などあり得ない。常に問題だらけで、その問題だらけを一つひとつ、解決できないまでも、問題の程度を軽減するために営々と努力してゆくしかない。構成員の間に義務や負担と損益における公平感(Fair)と、将来に対する希望(Vision)があれば、この地道な努力を続けられる。この公平感と希望が広く構成員によって共有されなければ、名ばかりの民主的な社会までしか到達できないし、構成員として誇れる、愛着のある国や社会はつくれない。
公平感も希望も提示しえない社会では、ある社会問題解決への緒(いとぐち)すらはっきりしないうちに問題が山積され一般大衆の不満が蓄積される。そこに自国よりも明らかに経済発展した豊かな隣国があれば、どうなるか?歴史をみれば、友好的だった時代より戦争もしたし、反目し合っていた時代の方が長い。「隣の芝生は青く見える」という認識上のことではなしに、事実として隣の芝の方が青い。間違いなく誰が見ても青いのだが、政府は己の政策の無誤謬性と権力保持のために隣国の問題をことさらながらに論(あげつら)うことに腐心する。この論いが“彼らが言う”愛国心教育”、正しくは“嫌隣国心教育”につながってゆく。
自分達の問題を解決できないどころか、しばしば、その問題がゆえに権力の座にい続けられる権力者階級は多い。この類の輩には問題解決能力がどうのと言う前に解決する意思がない。一般大衆の視点が問題の核心に届かないように様々な策を弄するが、伝統的に使われる策の一つとして、一般大衆の視線を国内問題から逸らし、国外の問題に誘導する。誘導方法の伝統的な手法が“愛国心教育”(“嫌隣国心教育”)になる。愛国心教育であるならば、自国の良い点だけを教育すれば済みそうなのだが、残念ながらそこでは終わらない。放っておけば、「隣の芝生は青く見える」を相殺する以上に、「隣の芝生はプラスチック製の偽物だ」ぐらいのプロパガンダにまで至りかねない。
隣国同士、歴史を見ればいがみ合っていた時の方が長かったが、否が応でもおたがいにうまくやってゆくしかない。地理的、歴史的。。。制約からうまくやってゆくしかない相手を、愛国心教育と称して、将来を担う世代に相手の問題や悪いところを誇張して教育してきたら、この先どうなるのだろう。愛国心教育を推し進めてきた経緯や現在の社会層にとっては、今までのことの結果の一部分を過大に見て、他の部分を削除したものに過ぎないが、過大に見た一部が全てとして教育された次世代が隣国と、ごちゃごちゃしながらもなんとかやってゆく能力を身につけられるとは思わない。巷で耳にする愛国心教育とは、次世代に対する“頭の乱視”教育に見える。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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