遊び半分、とぎれとぎれに書き綴っているため、前回のものと重複する部分がままありうるかもしれない。この小論を「書評」と呼ばずに「感想文」としたのは、こういう理由からである。それ故、それらの点は大目に見ていただき、ご一緒に暑気払いのひと時を楽しんでいただければと願いたい。
西門慶とその妻(夫人)たちを中心にした人間模様
前回にも触れたが、この小説の流れ(全体の意図ではなく)は、西門慶の好色とその犠牲の(あるいは逆に彼をうまく利用しながらしたたかに生きた)女性たちとの間の葛藤=人生行路にある。
それにしてもあまりにも大部なので、出来るだけ全体の見取り図を見やすくするため、「解説」を参照して西門慶の主な妻妾たちをタイプ分けしておきたい。正妻呉月娘は真面目な賢夫人型だが少々厳しい女性である、第二夫人李嬌児(元廓の芸妓)は目立った登場人物ではないが打算型、第三夫人孟玉楼は誠実で常識を持った善人型、第四夫人孫雪娥(元小間使いで、ほとんど厨房管理の役)は破滅型、第五夫人潘金蓮は淫婦型兼じゃじゃ馬型で、ほとんどの事件の要因に関わる、第六夫人李瓶児は「情深く、やさしく」気弱な純情型、そして潘金蓮の女中の一人で西門慶が手をつけた春梅は、頭の良い、きかぬ気の娘、というのが大まかなタイプ分けである。
因みに、この中の「潘金蓮」「李瓶児」「春梅」の名前から一字ずつ取って『金瓶梅』というタイトル名が作られたようだ。
厳密には「妻」と「夫人」とは区別されている。この辺はよくはわからないが、「妻」というときには同居する「妾」も含まれているらしく、「夫人」と呼ばれるのは、正式には正妻の呉月娘のみを指しているように思える。
西門慶は、既に死亡している先妻以外に正式の「妻」だけで上述したように六人いる。それ以外にも、それらの妻たちに専属で付き添う女中(各妻に数名)の中の何人かは「お手つき」であり、また廓の女郎を囲い、更には雇人の女房など、これはと目をつけた女性を次々に手籠めにしている。
これだけ内と外に大勢の妻妾、愛人を抱えていると、いくら色欲が強くても、金銭面はもちろん、ご当人のスタミナ面だけ考えても大変なように思う。実際には、金銭面では当時として計り知れないほどの大金持ちへと成り上がっていくため、ほとんど心配無用であるが、生身の人間としてその精力には限りがある。好色男の西門慶と言えどもバイアグラ(精力剤)は必須である。ここに物語の伏線がある。
それはそれとして、彼の広大な邸宅内では、各妻(妾)はそれぞれ離れた別棟を割り当てられていて、西門慶はその時の気分次第で、どこかの棟で一夜を過ごす。金品を管理している正妻の呉月娘は別にして、他の妻たちは彼が来てくれなければ金品(自由になるお金や着物や簪など)も容易に手に入らず、ほとんど女中と同じ余裕のない生活状態に置かれる。この小説中では、第四夫人の孫雪娥がそうだ。しかも主人に逆らえば、打ち殺されるか、丸裸で放逐されるかしかない。
少し横道に入るが、アラブ社会は「一夫多妻」社会と言われる。これは、かつて戦乱状態が長期に続いて、青・壮年男子が極端に減り、逆に寡婦(いわば、戦争未亡人)が増えたことに関連しているという。友人のアラブ人に聞いた話では、妻が複数いても、彼女らを平等に処遇できれば構わないのであり、そのために「契約」を結ぶのだ、という。しかし、現実はどうであろうか…?
閑話休題。優雅で裕福な生活を保持するためには、主人(西門慶)を自分のところに引き留めることが何より重要である。そのために、あの手この手の手練手管が駆使される。この誠に手の込んだ駆け引きもこの小説の見どころだ。泣いたりわめいたり、甘えたりすねたり、様々に科(嬌態)を作って男を攻め落とすのだ。
しかも、これだけ多くの妻妾プラスα(廓の女郎や人妻、男妾=小姓など)がいるということは、彼女たちの間に嫉妬心や、虚栄心や、あるいは欲得ずくに絡む熾烈な争いが起きることは必至である。実際に陰口をたたいて、ライバルを蹴落としたり、ありもしない事件をでっちあげて罠にはめたり、生まれたばかりの赤子に飼い猫をけしかけて死ぬように仕向けたり…、マキャヴェリも顔負けするほどの陰湿な権謀術策が、また相互の疑心暗鬼が生まれるのである。
中には、潘金蓮のようにちゃっかりと近侍と浮気をした挙句、一切の罪をその男に押し付けて(例えば、簪をその男に盗まれ脅迫された、などの虚偽報告)、男を半殺しの目にあわせて追い出し、自分はのうのうと元の鞘にとどまるしたたか者もいる。あるいは美人局まがいのことをして西門慶から金品を巻き上げ、優雅な生活を獲得するなんとも上手(うわて)な夫婦(韓道国=西門の番頭とその妻・王六児)もいる。まさに「不誠実とだまし合い」によって織りなされた人間模様というところである。こういう複雑で奇妙な西門一家の家庭事情を当時の中国の「腐敗」社会を映し出す鏡として細密に描き出すところに、この作家の傑出した腕前がうかがえる。
そのために、登場人物の多さも桁外れである(おそらく、数百人か?)。しかも、いちいちの人物が、ただ名前だけの登録で終わっているのではない。ちゃんとその役割を付与されて活躍しているのだから恐れ入る。これは他に類をみない中国文学の特徴かと思う。トルストイも、バルザックも、シェイクスピアもここまでは及ばないだろう。
見事なストーリー展開
全部で岩波文庫10冊分にもなる浩瀚な作品であるが、私の手元には半分の5冊しかない。仕方なしに、近くの市立図書館に借りに行った。ところがあきれたことにこの図書館には蔵書はそろっておらず、平凡社がずいぶん前に出した「中国古典文学大系」も上巻のみしかないという有様。文庫本は凄まじく汚れたものが2~3冊あるだけだ。
因みに、この平凡社版は、上、中、下の三冊本で、今どき珍しい二段組、平均すれば各巻550ページの分厚さである。
せっかく手元の文庫本5冊を読了したのだから、いまさら放り投げるのも癪にさわる。係の人に聞くと、他の図書館から借りることもできるとのこと。さっそくお願いした。しかし貸出期限はきっちり3週間で、延長なし。併せて『紅楼夢』も読んでいる私にとっては、さすがに少々苦痛かと思われた。
それでも、こういう機会はおそらく人生の中でこれ一回しかないだろうと覚悟を決めて、借りて読むことにした。もちろん『紅楼夢』も続きの文庫本2冊借りた。
今夏の異常に長く続く酷暑の中で、小さな扇風機一つの炎熱地獄のような部屋にこもって、これら長大な分量の古典と取り組む、この一種「マゾヒスティックな遊び」(私にはこういう性向はないはずだが?と訝しく思いながら)をやっている。もちろん、これだけの日常生活ではすまない。住んでいるマンション内のごたごた問題がひっきりなしに持ち込まれてきて、地方裁判所への提訴が現実化してきている。ビラ作り、ビラ撒きは、主に私の任務である。…まあ、こういうことをぼやいても仕方がない。
しかし、こういう苦労に耐える以上の楽しみがこれらの本から得られていなければ、おそらくとっくの昔に読書を中断していたであろう。実際に、この大部の本は、読んでいて飽かせないのである。よくぞ次々とこれだけいろんな事件を考案できたものだ、しかも見事にそれら錯綜する事件の間に脈絡を付けて、軸を外さないように集約させているのである。
普通には、これだけ多くの登場人物が、てんでんばらばらにその固有の性格で活躍する様子を描き取ろうとすれば、物語は拡散して、訳がわからないものになりそうなはずだ。しかもこれら主要人物に更に加えて、あちらこちらで無数の挿話が差し挟まれ物語全体を彩色している。
ヘーゲル的に考えれば、ある事柄を理解する(概念把握する)ために、それをその周囲の事柄に関連付けて考えようとすれば、一般的には最初の事柄は周囲の諸関係へと拡散して見えなくなってしまう。つまり、同時に集約を伴わない限り、意味不明な相対主義へと雲散霧消してしまうことになる。その事柄が意味を結ぶためには、中心の主体による固定化(自己内反省)という作業がどうしても必要になる。この場合の主体とは何を指すのであろうか。私見では、何人かの主要な登場人物に仮託(廣松流に言えば「憑依」)させて、著者が様々な経験を内在化させつつ自己を語る、という点にそれが示されているように思う。つまり、舞台上での展開はあくまで個々の登場人物でありながら、同時にfür unsたる著者(これはすでに特定の個人ではなく客観的精神においてある)がそれを観傍(Zusehen)しながら全体を一種の体系知として構成するやり方である。
少しストーリーそのものに沿ってみてみると、かなりの部分は当然ながら西門慶の女誑しであり、当時としては極めて珍しいと言われる「濡れ場」に充てられている。この赤裸々な「濡れ場」の描写が、出版当時から今日に至るまでさんざん物議を醸したことは、広く周知の事実であろう。
この点で主役の西門慶と多情で淫乱な潘金蓮が大活躍することは言わずもがなのことだ。しかし、好色な二人の乱脈ぶりだけをただ追いかけるだけなら、三流読み物としてすぐ飽きられる。そこで作者は、潘金蓮の対極的な人物として、純情で優しく、どこまでも慎ましい女性、李瓶児を登場させる。
彼女は妊娠して、男の子を出産する。もちろん、たとえ妾の子であろうと、この子以外に男子がいなければ(西門には、先妻の生んだ娘がいるのだが)、この子が西門慶の跡継ぎである。そして当然ながら、その生みの親たる李瓶児は六人の中で別格の待遇を得ることになる。西門の寵愛も一入というところである。しかしこの子は、生まれながらに極度に神経質で虚弱である。
そしてここで事件が起きる。先にもほんの少し触れたが、彼女に対する嫉妬心から潘金蓮は猫を飼い、それを巧みに赤子にけしかけて、ついにはその子を死へと追いやるのである。しかも、子供の死を強く悼んだ李瓶児までもが絶望のあまり病死する。心中喜んでいるのは、ただ潘金蓮だけという始末。
この李瓶児の死をめぐる幾つかの回(=章に当たる)はなかなかの傑作である。彼女が瀕死の病床でみせる西門とのやり取り、女中や乳母への気配り。また、インチキくさい医者、祈祷師・占い師、坊主、尼僧などの登場。更にこの時代の金持ちの豪勢な葬式の様子。そこへ弔問客として登場する人々の顔触れと供物の多さ、特に弔問に訪れた二人の宦官による宮中のうわさ話にかこつけた体制批判。ここにこの作者の真骨頂が見事に滲み出ているように思う。
それにしても、当時の中国社会のセレモニーにかける「情熱」(エネルギー)のすごさに唖然とさせられる。冠婚葬祭だけではない、頻繁に誕生祝があり、栄転の祝い、引っ越しの祝い、また都から人が来ての祝い、それ以外に季節ごとにある年中行事(仏事や祭りごと等)、それらすべてに相互に物凄い散財をして大パーティーを催すのである。
良く体が持つものだと、ただただ感心するのであるが、西門慶ばかりでなく、彼の親友の応伯爵以下の取り巻き連中は、日常的に朝から夜遅くまで浴びるように酒を飲み、脂濃いごちそうを毎回たらふく詰め込んでいるのだ。
実際に、この応伯爵が西門に向かってこういう意味のセリフを吐いている個所がある。「あなたはそんなに太っていて、しかも毎日脂分の多いものばかり食べて酒を飲んでいる。今に脳梗塞を起こしますよ」と。
李瓶児が亡くなった当時の西門慶の歳は、まだ32歳であり、身体は小太りというように設定されている。
彼女の死にあってさすがの西門も、何日間も泣き暮らし、食事ものどを通らなかったと書かれている。彼女の純な愛情がこの好色男をしてついに心を入れ替えらせたかに思える場面である。
しかし、もちろんそうではない。のちに西鶴が世之介を考案して、「女護島」でその一生を終えることにしたのと同じである。色欲も死ななきゃ治らないのだ。 今回はここまでにして、次回で締めたいと思う。
参考文献:『金瓶梅』笑笑生作 小野忍・千田九一訳(岩波文庫1967/83)
2025. 8.27 記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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