朝日新聞が8月5、6の2日間の紙面でいわゆる従軍慰安婦問題をめぐる過去の報道を検証する特集記事を組んだ。過去30年余にわたるこの問題の報道に一部誤りを認めて取り消し、他にも間違いがあったことを認めた。これを受けて、インターネット上では激しい朝日批判の議論が飛び交い、新聞も産経や読売が朝日批判を展開している。
ただこれらの批判のなかには、相手の歴史認識やイデオロギーの非難、攻撃に踏み込んだものも多く、報道のありようをめぐる批判の枠をはるかに越えた議論も目立つ。
吉田証言の誤り認める
朝日が明確に誤りを認めたのは、戦争中に朝鮮・済州島で女性を集め強制的に慰安婦として戦地に送り込んだと証言した吉田清治氏(故人)の話を基に1982年以降、16回にわたって報道したこと。吉田氏の著書や話の内容に裏付けがなく、虚偽であったと判断した。また労働力として動員された「女子挺身隊」を慰安婦と混同して報じた事実のあることも認めた。
一方、朝日を批判する側は、朝日の従軍慰安婦に関する報道が「日韓関係悪化の発端となった」(産経社説)、「韓国の反日世論をあおっただけでなく、日本について誤った認識が世界に広がる根拠となった」(読売社説)と指摘し、朝日の責任を追及している。さらに問題の発端から今回の検証までに30年余の時間が費やされたことも指摘している。
またネット上の議論では、朝日は「謝罪していない」「開き直っている」「論点をすり替えている」など、朝日に対するより強い不満と非難が向けられている。そうした議論は、慰安婦問題が朝日による意図的な「捏造」であり、それによって日本人の尊厳と国際社会における日本の地位が大きく損なわれた、という見方を拡散している。慰安婦問題はすべて朝日の報道が引き起こしたもの、という主張がはびこっている。
確かに吉田証言の誤りを認めるまでに時間がかかり過ぎた。慰安婦と挺身隊の混同や「強制連行」の解釈をめぐる違いの説明も、もっと早い時期に明確に説明することはできたはずだ。それを朝日が怠ったために批判する側に無用の攻撃材料を提供してきたことは否めない。
しかしそれにしても、慰安婦問題に関わる政治的、外交的問題のすべてを朝日の報道の責任とし、朝日の存在そのものを否定するかのようなネット上の言説は、あまりに短絡的な暴論と言わねばなるまい。さすがに新聞の紙面にはそうした極端な議論は目につかないが、「慰安婦問題=朝日の捏造報道」といった発想の基調は一部の新聞の論調、報道にも見え隠れする。
色濃い歴史認識批判
慰安婦検証報道をめぐる朝日批判の特徴の一つは、その矛先が報道上の失敗や不手際に対する批判というより、朝日の歴史認識に対する批判の色合いを濃く帯びていることである。批判派は、日韓関係の悪化や日本の国際的な威信低下などをもたらした諸悪の根源を、朝日の慰安婦報道に求めようとする。朝日が裏付けのない吉田証言を繰り返し伝え、しかも強制連行という形で政府当局の関与を示唆したことなど、これらをすべて朝日による「捏造報道」と決めつけている。
朝日の検証記事によれば、朝日の記者は当初、吉田証言の虚偽を見抜けなかった、「強制連行」には誤解があったことなどを率直に認めている。しかし批判する側は、それらを取材の不十分さや判断の誤りとは認めず、朝日側の意図的な「捏造」と決めてかかっている。それは、慰安婦問題に象徴的に表れた朝日の歴史認識を受け入れがたいと見なしているからに他ならない。
慰安婦問題の責任は朝日の報道にあるとする批判のもう一つの問題は、「強制連行」や軍の関与がなければいわゆる「慰安婦問題」はなかったかのような主張がなされていることだ。朝日は日本の当局が慰安婦を強制的に徴用するといった狭い意味での「強制連行」はなかったとしながらも、軍が戦地で慰安所の設置や管理に関わるなどの広い意味での関与があったことを指摘している。「慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質」だと、朝日は考える。しかしこうした朝日の姿勢を批判派は「開き直り」「論点のすり替え」と受け止める。
朝日批判の言説の中で「捏造」という言葉が頻繁に使われていることにも違和感がある。捏造とは「事実でないことを事実のようにこしらえていうこと」(広辞苑)である。ニュース報道の世界では「盗用」と並んで最悪の罪と考えられる。それだけに、他を批判するのによほど確固たる裏付けがなければ使える言葉ではない。が、今回はそれがいとも安直に使われている。
報道記事の捏造や盗用は記者個人が関わる場合に成功する可能性もなくはないが、朝日の慰安婦報道のように複数の記者が長期間にわたって関わる取材、報道活動ではまずあり得ない。むろん記者の思いこみや偏見が取材上の不注意や不勉強などと重なって誤報や偏向報道につながることはあるだろう。しかし30年余にわたる朝日の慰安婦問題の報道を「捏造」で片づけるのは、裏付けに乏しい批判であり、説得力もない。
背景に人権意識の高まりも
慰安婦問題が内外に大きな波紋を呼んだ原因の一つに朝日の報道があったことは否めまい。しかしすべてをそのせいにするのは一方的に過ぎる。慰安婦問題が大きな関心を集めた1980年代以降は、世界的に人権意識が高まり、とりわけ女性や子どもの地位や権利をめぐる議論が注目された時期でもあった。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を機に「戦時の性暴力」の問題が注目されもした。慰安婦問題が大きく報道された背景にそうした事情があったことも見逃せない。
慰安婦検証報道について朝日の責任を厳しく問う議論についてもう一つ気にかかるのは、強制連行や軍の関与の有無には強い関心を払う半面、従軍慰安婦が存在したこと自体にはさほどの関心を寄せているように見えないことである。強制連行や当局の関与がなければ日本の責任は軽減されると考えているかに見えることである。朝日の慰安婦報道を批判する人たちや日本政府の本音はおそらく、従軍慰安婦の存在そのものをできるだけ小さく考えたいのだろう。
しかし日本の当局による強制連行はなかったとしても、慰安所や慰安婦がなかったことにはならない。軍が慰安所や慰安婦の存在を認め、さまざまな形で関与していた事実にかわりはない。戦時中の日本政府の責任がまったく不問に付されると考えるには無理がある。戦時下では他国の軍隊も同じことをしていたといった、ネット上に行き交う主張も、日本政府の責任を免除する根拠にはなりにくい。
慰安婦検証報道を受けて朝日を批判する人たちがひとしきり厳しい朝日糾弾の矢を放ったあとも、いわゆる従軍慰安婦問題は残り続ける。問題の扱いをめぐって日韓両政府は依然、対立を続けている。朝日の検証報道をめぐる立場はいずれの側にあっても、日本人として今後とも慰安婦問題に向き合わねばならないことには違いはない。
公正の原則に照らした議論を
慰安婦検証報道をめぐる議論は、背景の歴史認識に関わる政治的要素をそぎ落とせば、本来は報道の公正さをめぐる問題に絞られる。朝日の吉田証言やその他の材料の取材、報道がどれほど適切、公正であったか、である。30年後の検証の結果、誤報や不適切な内容があったことが確認された。しかし公正さをめぐる検証は、朝日を批判する側のメディアも逃れることはできない。
よりよいジャーナリズムを目指すためのより建設的な批判をするには、むしろその部分に焦点を当てた議論が必要なのではないか。歴史認識を意識し過ぎた一連の批判は、報道の公正の原則を置き去りにした不毛の批判のように思われてならない。
(「メディア談話室」2014年9月号 許可を得て掲載)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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