憲法理念を大切にし続けた松本光寿君の逝去を悼む

(2020年6月3日)
松本光寿君が亡くなったという連絡を受けて茫然としている。50年前、23期の同期司法修習生として司法制度の在り方や法律家の使命などを語り合った仲。享年76、まだ逝くには早すぎる。彼のことだ。此岸には、大きな未練があったはず。

彼は鳥取の人。修習を終えて、郷里鳥取で弁護士となった。登録間もなく、社共統一の鳥取市長選に立候補し、当選には及ばなかったが善戦している。その後、弁護士らしい弁護士として常に革新の立場を堅持した。

修習生時代の彼は、性温和、飄々たる風貌と物腰だった。付き合い始めた当時、大言壮語することはなく、激した行動もなかった。その彼が、いつの頃からか隠すでもなく検察官志望だと口にし、いつの頃からか隠すでもなく青年法律家協会会員ともなった。

当時、裁判所の内部には、憲法擁護を掲げる青年法律家協会裁判官部会の勢力が強く、右翼と自民党と最高裁当局とが、一体となってこれを潰そうと策動していた。これを「ブルーパージ」と言った。われわれ23期修習生活動の共通スローガンは、「同期の裁判官志望者のなかから、任官拒否者を出すな」というものだった。青年法律家協会の会員が、最高裁から疎まれ、その思想故に、あるいは団体加入故に、差別されて任官を拒否されるのではないか。憲法を護るべき裁判所にそのような自殺行為があってならない。その運動のボルテージは高かった。

当然のこととして、裁判官志望者は青年法律家協会の会員であることを秘匿した。その雰囲気の中で、松本光寿君は、ただ一人、青年法律家協会会員として検察官志望者であり続けた。彼は、「憲法の理念実現を掲げる青年法律家協会の会員であることと、検察官であることとに何の矛盾もあるはずはない」と言っていた。

それは、まことに真っ当な見解であった。が、問題は、裁判所も法務省も、けっして真っ当ではないことにあった。彼は、何度か、青年法律家協会からの脱退を勧告されたという。それでも、飄々たる風貌と柔らかい物腰に見えた彼は、けっして動揺しなかった。頑固だったと評することもできよう。

そして、彼は検察官としての任官を拒否された。もしかしたら、彼こそは、その思想故に検察官任官を拒否された、歴史上たった一人の人物、なのかも知れない。

松本光寿君が検察官への任官を拒否されたと同じ時期に、同期の裁判官志望者7名も任官を拒否された。そのうち6名が青年法律家協会の会員だった。当局は、どのような手段でか正確に司法修習生の個人情報を把握していたということなのだ。

われわれ同期は、この裁判官任官拒否に大いに怒った。その怒りが、修習修了式の阪口徳雄君の研修所長への一言の質問となり、阪口君罷免にまで発展した。一方、松本君の検察官任官拒否事件には、抗議はしたものの大きな運動にはならなかった。裁判官志望者に対する任官拒否と、検察官志望者への任官拒否とは、自ずと重要さが異なるという暗黙の考えがあったからであろう。

裁判所は、また裁判官は、独立していなければならない。右翼や自民党の攻撃に屈して、憲法の理念に忠実であろうという裁判官を攻撃してはならない。そのような裁判官志望者を排除してはならない。その強い思いは共通していた。しかし、検察官志望者について同じレベルの問題とはとらえていなかった。

黒川弘務検事長の定年延長問題で、検察官の準司法機関としての役割が強調されている今、松本君の検察官任官拒否の問題について、もっと深く考えるべきだったかと思う。

その後、ときたまに会った。会えば、あの頃のことに話が弾む。印象に残る2度の機会があった。

その1は、私も彼も、スモン訴訟に携わった。どちらも、第3グループの投薬証明皆無の患者の立証に苦労を重ねた。私は盛岡から彼は鳥取から、東京に出て会議に参加してその都度顔を合わせた。

その最初の機会だったと思う。「私もとうとう自分の顔に責任をもたねばならない齢になった」と彼が言うのだ。リンカーンの言葉を引用して、40歳になった感慨の述懐なのだ。とすると、あれは、36年前のことか。

2度目は、憲法制定60周年の日弁連人権擁護集会である。場所が鳥取だった。彼は、地元鳥取県弁護士会の会長だったと思う。受け入れ側を代表する立場だった。私は、日弁連の憲法問題対策本部の一員として、憲法制定60周年を記念するにふさわしい宣言案起草に携わっていた。

何しろ、全弁護士が加盟する日弁連の決議である。紆余曲折いろいろあったが、日弁連の対策本部から最終的な成案としてまとまったのが、下記の宣言案である。今、読み直しても、なかなかよくできたものだと思う。

この宣言案の採択は、議場で大いに揉めて簡単には行かなかった。2時間半の「激論」が続いたと記録されている。右からの攻撃を想定していたが、議論は改憲派との間では起こらなかった。左からの攻撃を受けた。「9条2項の戦力不保持に関する姿勢が曖昧」「これでは、自民党の提案と変わるところがない」とまでの発言があったと記憶する。

私も予定にはなかったが発言した。「個人的な憲法観を宣言に持ち込むよう要求してはならない」「特定の立場からの憲法観を盛り込んだ日弁連の宣言は、国民に対する影響力を弱めることになる」などという内容だった。

思いがけなくも、松本君も発言した。地元会を代表する立場での発言として、満場が注目した。彼は、落ちついた態度で、力強く語った。「この宣言案を弱いとか、不十分とする意見は、世の常識とかけ離れている」「これを自民党案と同様などと言うのは、ためにする議論で児戯に等しい」「日弁連はこの宣言案を満場一致で採択して、世に憲法理念の大切さを訴える責務を果たさねばならない」などという内容と記憶している。大きな効果を発揮した演説だった。

ああ、松本君。髪の色は変わったが、こと憲法に関する姿勢は、あのときから変わっていないのだと感動を覚えた。その松本君が5月初旬に亡くなったという。

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立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言

日本国憲法制定からまもなく60年を迎える。

基本的人権の擁護と社会正義の実現を使命とする当連合会は、1997年の人権擁護大会では「国民主権の確立と平和のうちに安全に生きる権利の実現を求める宣言」を行うなど、全国の弁護士会、弁護士とともに、日本国憲法と国際人権規約などを踏まえて人々の基本的人権の擁護に力を尽くしてきた。

ここ数年、政党・新聞社・財界などから憲法改正に向けた意見や草案が発表され、本年に入り衆参両院の憲法調査会から最終報告書が提出され、自由民主党が新憲法草案を公表するなど、憲法改正をめぐる議論がなされている。

そこで、当連合会は、自らの責務として、また進んで国民の負託に応えるべく、本人権擁護大会において、日本国憲法のよって立つ理念と基本原理について研究し、改憲論議を検討した。

日本国憲法の理念および基本原理に関して確認されたのは、以下の3点である。

憲法は、すべての人々が個人として尊重されるために、最高法規として国家権力を制限し、人権保障をはかるという立憲主義の理念を基盤として成立すべきこと。
憲法は、主権が国民に存することを宣言し、人権が保障されることを中心的な原理とすべきこと。
憲法は、戦争が最大の人権侵害であることに照らし、恒久平和主義に立脚すべきこと。

日本国憲法第9条の戦争を放棄し、戦力を保持しないというより徹底した恒久平和主義は、平和への指針として世界に誇りうる先駆的意義を有するものである。

改憲論議の中には、憲法を権力制限規範にとどめず国民の行動規範としようとするもの、憲法改正の発議要件緩和や国民投票を不要とするもの、国民の責任や義務の自覚あるいは公益や公の秩序への協力を憲法に明記し強調しようとするもの、集団的自衛権の行使を認めた上でその範囲を拡大しようとするもの、軍事裁判所の設置を求めるものなどがあり、これらは、日本国憲法の理念や基本原理を後退させることにつながると危惧せざるを得ない。

当連合会は、憲法改正をめぐる議論において、立憲主義の理念が堅持され、国民主権・基本的人権の尊重・恒久平和主義など日本国憲法の基本原理が尊重されることを求めるものであり、21世紀を、日本国憲法前文が謳う「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」が保障される輝かしい人権の世紀とするため、世界の人々と協調して人権擁護の諸活動に取り組む決意である。

以上のとおり、宣言する。

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2020.6.3より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=15011

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

〔opinion9813:200604〕