岡本磐男氏には、「武田明・熊王信之両氏の憲法問題の論争について考える」の御投稿により、御議論を頂いたところです。 ただ、私の言葉足らずが原因でしょうか、少し誤解があるように思われましたので、補論と致しまして投稿した次第です。
まず、日本国憲法でも世界の何処の国の憲法でも、憲法の論議をする折には、共通の認識があることを理解して頂く必要があるように思われます。 それは、憲法は他の法と同じく、法規範であるために、その理解には法の一般的理解に必要な事項を前提にしていると言うことです。
また、法学では、法規範の論議とその実質的法規範の論議とを混在した形式で論争はしません。 一般に法の規範的論議とその実質が相違するのは、法が有るべき姿を規定するものである以上は、当然で、例えば、日本国憲法でもその事態を予期しているからこそ、国民に憲法の実質的意義の達成を期待しているのです。
更に、憲法を題目にマルクス主義を対比する折には、憲法規範に対応した部分を比較するのが当然で、マルクス主義の全般を問題にしている訳ではありません。 マルクス主義が社会科学全般に何を語っているかは憲法論としては関知しないことであり、それこそ学問の自由であり、思想の自由でしょう。
これは、反対にマルクス主義憲法学から観れば当然の論理で、例えば、戦前には思想の変遷があったようですが、マルクス主義憲法学理論で有名な故鈴木安蔵氏の憲法学原論等には、限られた対比点が究明され、日本国憲法を「ブルジョア」国家の憲法と究められています。
私自身は、見解を異にしますが、マルクス主義の立場を取られるのであれば、長谷川政安著「社会科学としての憲法学」でマルクス主義憲法学の方法論が詳細に展開されていますので、そちらを参照されれば、「ブルジョア憲法」である日本国憲法を「精確」に理解されるのではないのでしょうか。
例えば、こうした観点からは、岡本磐男氏が言われる「熊王氏は、日本国憲法における国民主権は「人類普遍の原理」である点を力説されており、これに私も異存はない」との立場は、ブルジョワ民主主義の規定を絶対視するものであり社会主義国家樹立の折には清算され、「プロレタリアート独裁」、或は、用語を替えて「人民主権」が規範化されることになるのでしょうが、現代のマルクス主義の立場は違うのでしょうか。 その昔の憲法講座での論議を思い出しますが、「社会科学としての憲法学」を唱導されていた同窓生とともに論争をしたものです。
上記の諸点は、法学論では当然ですが、浅学菲才の私が言えば信頼性に欠けるのかもしれませんので、各地で開催される憲法の学習会で質問されれば的確な回答を頂けるものと思われます。