《サラリーマンと学者の認識ギャップ》
私は金融マンの定年退職後に大学院で日本近代史を学んだ。
だからサラリーマンの「歴史観」をよく知っているし、アカデミズムの「歴史認識」も少しは知っているつもりである。二つのグループの認識に共通するものはあるか。
企業人は高校で学んだ日本史で知識が止まる。しかも今や「日本史」は必修科目ですらない。その後は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』や半藤一利の『昭和史』で日本近代史を学ぶのが一般である。熱心な読者は大手出版社の日本史通史シリーズや加藤陽子の現代史を読むだろう。学者の書いた新書、文庫の歴史書も読むだろう。一方で「新しい教科書をつくる会」に連なる藤岡信勝、西尾幹二、小林よしのりの著作を読んで得心するサラリーマンも多い。彼らは雑誌『WiLL』の記事に喝采するが、学者主流は「つくる会」を「歴史修正主義者」と呼んで秘かに軽蔑している。
大衆と学者の認識ギャップは大きい。しかも双方がそのことを自覚していない。これが私の実感である。勿論、あらゆるジャンルで大衆と学者に知識ギャップがあるのは当然だ。しかし人々は「日本人は歴史好き」を自認している。それでも現実を直視しない。たとえば中国や韓国が日本の「歴史認識」を非難する事態が屡々起こる。厄介なことである。
日本近代史研究者成田龍一(なりた・りゅういち、日本女子大教授)の『近現代日本史と歴史学―書き換えられてきた過去』は、読み方によってはこのギャップを埋める恰好の著作たり得るかもしれない。「あとがき」に著者はこう書く。「本書の原型は、歴史の教員を目指す学生たちへの講義にあります。歴史の教員となったときに、史学史を踏まえた歴史教育を行ってほしいという思いからの講義でした」。本書を読んで歴史の教員のアンチョコを先取りすればよいのである。
《史学史とはなにか》
ここでいう「史学史」とは何か。それは文字通り歴史学の歴史である。
著者の史学史を私は、日本近現代史(著者は意図あって「近現代日本史」という)の「研究史」と理解した。著者によれば戦後の歴史学は、「戦後歴史学」と「現代歴史学」に大別され、細かくは三期に分けられるという。
第一期は、1945年から60年代にわたる。この時期は、マルクス主義の唯物史観による経済史的な分析が主流であった。あの戦争をなぜ防げなかったのか。そういう戦争に結果した日本資本主義の発展法則に迫るという問題意識が強くあった。
第二期は、60年代から90年代までの期間をいう。上記の方法に「民衆史研究」が追加された。60年安保や70年代の市民運動、住民運動、学生運動の高揚によって主体としての「民衆」が注目された。
第三期は、70年代半ば以降から現在に至る時期である。
この期には、前二期と異なる学問潮流が台頭してきた。それは「国境」と「学問の境界」の自覚と越境である。「近代」、「国民国家」、「日本」といった自明とされていた枠組みが相対化された。世界の歴史学研究との交流からもたらされた傾向でもあった。
《分析対象と「大正デモクラシー」の場合》
それぞれの時期において、日本近現代史の史実がどう分析されたか。どう言語化・概念化されたか。著者は、三期の研究に即して緻密に追跡する。
その場合のキーワードは何か。
明治維新、自由民権、大日本帝国、日清・日露戦争、大正デモクラシー、アジア・太平洋戦争、戦後社会、講座派、国民国家、天皇制、軍隊・家族・女性、国語・衛生・身体、帝国主義と帝国、植民地、総力戦体制、戦争責任論。これらである。
例えば同名の自著もある「大正デモクラシー」に関する分析がある。そこで展開される、吉野作造・普通選挙・治安立法を巡っての、信夫清三郎、松尾尊兊、宮地正人、鹿野政直らによる、個別研究や基本概念の解釈が変化するさまを読むと「歴史学とはこんなに面白いのか」と強く感じる。20年代が30年代のファシズムへの道を拓いたという見方もある。総じていえば、歴史学の本質的な論点である「普遍と特殊」、「連続と断絶」、「構造と主体」が、三期のあいだに、マジックのように変化する場面を読者は読むことになるのである。
《二者のギャップを埋めたくなる》
「読み方によっては、このギャップを埋める恰好の著作」と書いた。
サラリーマンに本書は専門的すぎる。読みこなすのは容易でないだろう。しかし戦後歴史学が、かくも多様・多彩な問題意識をもって、研究と史料を蓄積してきたことは容易に理解できるだろう。河村たかしや桜井よしこのデマゴギーはこれらの研究成果によって一蹴されるであろう。
学者にとっては、どのように有用か。私も歴史研究者のはしくれのつもりだが、本書の丁寧な研究史叙述に圧倒された。279頁から286頁まで、小さな活字で「参考文献」が列挙されている。通史シリーズ、単著、論文集、個別論文、翻訳書が紹介されているが各一点とカウントしても400点を超える。数えようによっては数倍に達するかも知れない。本書は大学院生などの若手研究者に最適な研究案内になるだろう。もちろん熱心な一般読者にとってもである。
《見事な整理から「大きな物語」への可能性は》
むしろ問題は著者の研究史整理が見事過ぎることである。
個々の研究は巧みに説明された上、ジグソーパズルの一片のように埋め込まれている。それに伴い個別論文に移入された研究者の情念や心情も閉じ込められたようにみえる。ジグソーパズルはこの一枚ではない。個々の研究者は各自がおのれのデザインを創造しなければならない。それがタフな課題に感じられるほど整理がうまいのである。
第一期の戦後歴史学のもった輝かしい栄光と挫折についての分析はもっと深く知りたいと思う。更には、世界的な金融恐慌と東日本大震災を体験した現在、我々の歴史学は第三期の特徴であるらしい「相対化と細分化」の衣装を脱ぎ捨てる必要はないのか。第一期の示した「大きな物語」の再登場が必要ではないのか。
とまれ本書は日本近現代史の研究史に新たな一頁を開く力作である。
■成田龍一著『近現代日本史と歴史学』、中央公論新社、2012年刊、860円+税
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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