戦争体験者の魂が乗り移るとき ―敗戦75年に読んだ春日太一著『日本の戦争映画』(文春新書)―

 読み始めてしばらくは、戦後の戦争映画を恣意的に分類する平凡な書物だと感じた。
イデオロギーを排して「ニュートラル」な立場からという態度も消極的でつまらないと感じた。ところが読み進めていくうちに、不満の気分は残る一方で、登場する映画人たちの「魂」や「精神の鼓動」が私の胸に伝わり始めた。特に「第三章 大作と情話」あたりから文章の迫力が高揚する。引き込まれた私は一気に読了した。「魂」や「精神の鼓動」というのは誇張ではない。確かに私の気持に何かが起こったのである。

《愛しくてたまらなくなっていきます》
著者は執筆中に作品紹介を終わったところで、材料が少なすぎたと感じたという。そこで、コロナ自粛期間にも助けられ、新しく映画80本を見、脚本も読んだ。登場人物はほとんどが故人であるから、専ら文書資料を読み込んだ。本書の「おわりに」に次のくだりがある。

「わたし(春日)は気づきました。あまり注目していなかった作品、ただの娯楽映画だと思っていた作品であっても、それぞれに作り手たちの想いがほとばしっている、と。(中略)それぞれの作品、そしてそれを世に送り出した人々のことが、愛(いと)しくてたまらなくなっていきます。本書の冒頭では「できるだけ引いた視点で」と述べていますが、そうできなくなった自分自身がいました。特に、実際に戦争を経験した人たちがいかに戦争映画に向き合ったのか。自らの経験をどう反映させたのか。そのことは、知れば知るほど、『どうしても書きたい!』と思わずにはいられなくなっていました」。

一体、読書の醍醐味は「これが自分が読みたいと思っていた文章だ」と共感する瞬間である。私は本書にそれを感じた。その紹介によって、私は読者を『日本の戦争映画』へ誘いたいと思う。

著者の語る全部を紹介する紙幅はない。そこで人物を「笠原和夫・舛田利雄・須崎勝彌・松林宗恵の4人、作品を『二百三高地』、『連合艦隊』の2本に絞って書く。

《「乃木よ、泣くな」「お前、客は来んぞ」》
 『二百三高地』(東映・1980年)の脚本は笠原和夫、監督は舛田利雄である。
日露戦争で壮絶な戦闘が展開された旅順要塞の攻防戦を大きなスケールで描いた作品である。二百三高地とは旅順要塞のなかでも特に激戦が繰り広げられた場所の名前である。
笠原和夫は「戦争映画は営業以外の何物でもない」といい(雑誌「シナリオ」84年9月号)、戦争映画の基本的な作りは「観客を泣かせる」ことだと認識していた。次の挿話は笠原の心情をよく表現している。
『二百三高地』には、日露戦勝利後に乃木希典(仲代達矢)が明治天皇(三船敏郎)に戦況を報告する場面がある。シナリオ完成までの内幕を、笠原はこう書いている。

「実際は天皇一人だけが聞くんです。それで途中で乃木さんが言葉を詰まらせるんだけど、その時、山県有朋がそばにいて冷たい目でジロッと見てね、明治天皇も冷たい顔をして聞いていたというのが真実なんです。それで乃木は気を取り直して最後まで報告を読むわけだけど、そのとおりに僕は書いたんだよ。そうしたら、岡田さん(東映社長)はそれが困るんだと。それはまあ、真実には違いないんだけど、それだとお客は泣かないというんだよ(笑)。だから、そこは世間でよく言われているとおり、明治天皇と皇后がちゃんとお並びになって、その周りに側近がいらして、反対側には将官がズラッと並んで、そこで乃木がヨヨと泣き崩れると。そうすると天皇陛下が席をお立ちになって、『乃木よ、泣くな』と乃木の肩に手をお当てになられたと――そういうふうにしないと、『お前、客は来(こ)んぞ』と(笑)。何億も制作費をかけてるのに回収できないと言うんだよ」。(『昭和の劇』)

かくして明治天皇が乃木を慰労し、多数の犠牲者を出して「針の莚(むしろ)」にあった乃木が報われるという「泣かせる場面」となった。戦争を通して客を泣かせる作りを、笠原は「戦争情話」と呼んでいう。  

《「戦争情話」を超えた作品になった》
 「日本人が戦争映画を見るとき、どういう視点で見るかというと、“戦争情話”なんだね。何故かというと、日本人というのは単一民族で、皆んなで涙流したり喜んだりというのが好きなんだな。欧米人というのは、個人と個人が対立し、闘ったりするという関係。だから戦争映画作ってもシビアなんだ」、「お客は、戦争情話を見にくるということからも、俺は抵抗できないんだよな。多額の金を投入して回収しなければいけないんだから」(「シナリオ」84年9月号)
「情話」を『広辞苑』で引くと、「①真情をうちわけて語る話。また人情のこもった話 
②男女の愛情に関する物語 ③男女のむつまじい語らい。むつごと」と書いてある。

笠原和夫(かさはら・かずお、1927~2002年)は敗戦時、18歳。海軍大竹海兵団に所属していた。舛田利雄(ますだ・としお、1927年~)は17歳。学生時代に軍事教練に反抗して退学処分を受けている。
二人は、東映経営者の圧力に抵抗した。小学校教師(あおい輝彦)と少女(夏目雅子)の恋が、あおいの戦死で悲恋に終わる場面に日露友好のメッセージを挿入した。あおいがロシア兵と差し違えて死ぬ場面について舛田はこう書いている。
「最後の最後、あおいがロシア兵と差し違えるシーンは、アクションというより狂気そのものだね。最後は一対一の戦争になる。突き詰めて行くとそういうことになる。もちろん、あおいは戦争の犠牲者ではあるけど、同時にロシア兵からみれば、加害者なんだよね。笠原和夫の脚本のデッサン力は、そういうところに出る」、「戦場の狂気のなかで、登場人物のアイデンティティすら壊れていくわけでしょう」、「武器がなくなったら、相手の頸動脈を噛み切って、それで止めを刺そうとするわけだから、ここで戦場での極限の人間の行動を描こうとするいうのはありました」(自著『映画監督舛田利雄』)。
『二百三高地』は、笠原・舛田の魂によって「情話」で終わらない戦争映画となった。春日はそう評価している。

《「回天」から「大和」まで」》
『連合艦隊』(東宝・1981年)は、脚本が須崎勝彌、監督は松林宗恵である。
須崎・松林のコンビは日本の戦争映画に多くの作品を残した。特に『人間魚雷回天』(新東宝・1955年)は初期の名作である。「回天(かいてん)」は人間が自ら中に入り、潜水して操縦し敵艦に命中させる特攻用魚雷のことである。「人間魚雷」と呼ばれた。映画はその特攻兵に選ばれた若者の苦悩と葛藤を描いた。

脚本の須崎勝彌(すざき・かつや、1922~2015年)は敗戦時に23歳。東北大学から学徒出陣、海軍少尉。海軍特攻隊の一員だったが飛び立ってはいない。多くの戦友を見送った須崎は、自著『カミカゼの真実』にこう書いている。
「僕達は重い勲章を一杯胸に付けた死刑囚でしかなかった。死刑囚の考える明日は、永久に陽の上がらぬ明日でり、太陽の輝きは、及ばぬ空想の中で光るのみであった」、「人間の死は、果たして一艦の沈没に値するであろうか、否」

監督の松林宗恵(まつばやし・しゅうえ、1920~2009年)は、敗戦時に25歳。龍谷大出身で僧侶でもあった。42年に東宝入社、同時に日大芸術学部にも通う。海軍予備生徒として、砲術学校を経て44年に海軍少尉となり、中国厦門(アモイ)の陸戦隊長として150名の兵を率いた。敗戦で捕虜となり厦門大学に収監される。帰国後、東宝に復帰。松林の『人間魚雷回天』に寄せる想いを弟子の映画監督瀬川昌治(せがわ・まさはる、1925~2016年)はこう語っている。

「生を抑えこむがんじがらめの状況下で、決死でなく必死を志願し、志願しながらもいかに死を納得するかに悩み、悩みを尽きることなく時間に押され、自らの死をもって敵を殺しに赴く若い命を、同じ目線で描こうと一心になっている、そういう作品だ。後に残るのは空しさ。人が人に強いる暴挙の底知れぬ愚かしさ。しかし決して絶叫はしない。最後まで学徒としての誇りを持ち続け、残る恋人も入水して後を追う。どこにも救いはない。だから二度とやってはならない。そういう訴えだ。」(『映画監督松林宗恵 まことしやかにさりげなく』)

《「鎮魂」と「父と子」》
 さて本題の『連合艦隊』である。
真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦、レイテ沖海戦、戦艦大和の沖縄特攻の戦闘を描いたスペクタクル巨編である。空戦、海戦を戦う将官に三船敏郎、池部良ら東宝のオールスターキャストを配し、庶民代表には軍隊に志願する弟(金田賢一)と学問のために「お前は生き残れ」という兄(永島敏行)の葛藤を置く。松林は娯楽映画「社長シリーズ」の職人監督として活躍した人である。
戦争映画とは『太平洋の翼』(1963年)以来、四半世紀近く離れていた。『連合艦隊』の監督を依頼されたとき、松林の枕許に多くの将兵が現れた。米内光政、山本五十六、予科練兵士、下士官、兵隊が次々に出てきた。そしてこう言った。

「松林、お前を生きて帰らせたのは、お前は第一線に出ても役には立たん。俄か作りの海軍士官じゃ、戦争では大して役に立たん。映画会社に籍があるのだから、将来映画監督になって、「連合艦隊」という映画をつくってくれ。我々がどういう気持ちで国を護るため戦争で闘ったかを。後の世の日本人に見せてやってくれ。そのために生きて還らせたのだそ。だからこの映画はお前が監督しろ、お前がやるのだ」(松林宗恵『私と映画・海軍・仏さま』)

松林はあらためて作品に二つの場面を設定した。
一つは、戦友への鎮魂である。松林は作品中の人物に「中鉢」という名前を与えた。須崎脚本では別の名前だった兵士である。中鉢は対米戦闘時に艦船甲板上で米機機銃掃射で松林の近くで腹を裂かれて死んだ水兵の名前だった。それと同じ名前を出すことで若い兵士の無念を少しでも供養したいと考えたのだと著者春日は解釈している。
二つは、子供への視点の提示である。松林は自分が子供を持ってから、その子供を戦場へ送る父親の気持を掘り下げたいと考えた。ラストシーンは一組の親子で締めくくった。大和に乗り込んだ父(財津一郎)と、特攻隊として上空から大和を見下ろす息子(中井貴一)である。
大和は沈み始める。谷村新司の主題歌「群青」が流れる。艦内で若者を助けようとして奮戦して落命した父の姿が映し出される。歌の一番が終わり羽田健太郎の弾く間奏のピアノが流れている間に、上空の息子の書いていた遺書が独白として読み上げられる。それは「群青」に感激した松林がこの間奏に合わせて入れたいと思い立ち、須崎に書いてもらった遺書であった。
「お父さん、親よりもほんの少しだけ長く生きていることが、せめてもの親孝行です。さようなら、妹たちよ、姉さん、さようなら……」
読みおえたところで歌の二番が流れはじめる。そして大和は沈み、息子の乗る戦闘機は空のかなたに消えていく。『連合艦隊』は松林にとっても須崎にとっても、最後の戦争映画となった。

《新世代の戦争映画論を》
 4人の映画人の、「魂」と「精神の鼓動」は、私の紹介で読者に伝わったであろうか。
日大大学院博士課程終了、娯楽映画や人気俳優に関する著作から見て、著者はエンターテインメントとしての映画に関心があるようである。しかし本書執筆で「戦争映画」に深く関わってしまった。戦前の戦争映画、戦争映画の国際比較、戦争論そのものついても新しい世代としての研究を進めて欲しい。
本書の『第三部 戦争映画の現在地』で、著者は『この世界の片隅に』(2016年)のアニメ映画監督の片淵須直(かたぶち・すなお、1960年~)と対談している。

『真空地帯』、『きけ、わだつみの声』、『ひめゆりの塔』から出発した世代の私に、『この世界の片隅に』も春日・片淵対談も新鮮であった。新世代の更なる戦争映画論を熱望して筆を擱く。(2020/08/05)

■春日太一著『日本の戦争映画』、文春新書・(株)文藝春秋、880円+税

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion10008:200808〕