戦争画から民家のある風景画へ

2018年1月11日(Thu)
北風が冷たい年の瀬。12月28日。この駅に降りるといつも見かける大学生の姿はまったくない。大学はすでに冬休み。人影もまばらだ。改札口で地下鉄の駅員にもらった地図を頼りに大通りを右折した。少し歩き、左折。横道に入る。この辺りは閑静な住宅街。10分ほど歩いて、道を間違えたことに気づく。誰かに道を聞こうと思ったが、通行人がいない。しばらくしてやっと自転車に乗った初老の婦人に出会う。目的地までの道順を丁寧に教えてくれ、無事美術館に着くことができた。
 世田谷美術館分館向井潤吉アトリエ館は1993年に開館した。この分館は生前、向井が長年住んでいた自宅とアトリエを美術館にした建物である。2017年も終わろうとしているこの時期にここを訪れようと思った理由は単純だ。昨日、戦争画についての資料を漁っていたとき、『美術手帖』2015年9月号の特集が「絵描きと戦争」であることを知った。今日、急いで、自宅から少し離れた市立図書館でその号を借りて読む。この号では戦時中戦争画を描いた画家の中で、藤田嗣治、宮本三郎、そして、向井潤吉が大きく取り上げられており、三人の画家の戦争画についてのテクストが掲載されていた。向井の戦争画については、小杉放菴記念日光美術館学芸員の迫内裕司の書いた「率先して従軍した戦争画の開拓者:向井潤吉」という論文があった (以後、迫内に関する引用はこの論文からである)。この特集号を読んで、戦争画の展示はされていないだろうが、「向井潤吉 1970’s-1980’s 民家集大成」という展覧会が開催されている世田谷美術館分館に行き、彼の絵をじっくりと見たい。そう思ったのだ。
 向井潤吉の絵画について書かれたものの多くは、戦後の「民家の画家」という側面だけが強調され、戦争画家としての側面を正面から論じたものはほとんどない。そういった中で迫内の論文は特異なものであるが、「«突撃» の鬼気迫る表情に兵士の抱える漠然とした不安を見ることが出来るように、また、中国の町並みに日本の戦闘機が影を落とす («影(蘇州上空にて)» (1938) が、どちらかといえば中国側が受ける恐怖感を煽るように、向井の日中戦争の戦争画には、人々が気づかないふりをしていた、事変といいながらズルズル長期化していくこの戦争の闇を浮かびあがらせかねないものが、しばしば見受けられた」といった文章を読むと、向井には反戦的な思想があったような錯覚さえ受けてしまう。だが、それは正しい認識ではない。向井は戦争を熱烈に称賛してはいなかったが、反戦思想からも遠い位置にいた。彼は進んで戦争画を描きたいと考え、戦場に赴き、高揚した心持ちで戦争を記録したのだ。私はこうした向井の絵画制作姿勢が戦後の民家を描いた絵の中にも何らかの形で残っているのではないかと思ったのだ。

この探究のために、ここでは「向井潤吉の初期作品」、「向井潤吉の戦争画」、「何故民家のある風景を描くのか?」という三つの探究視点からの考察を行う。この三つの視点による考察だけで十分に向井の戦争画問題について論じられるかどうかは判らない。しかしこうした問題を正面から取り上げた論文がない以上、このテクストを書くことも無駄なことではないと信じ、拙論を展開していく。

初期作品
 向井潤吉の作品は大きく分けて三つの時期に区分できる。向井の絵画制作が開始され絵画技術が完成していくまでの初期 (日中戦争の勃発直前まで)、戦争画を率先して描き自らの絵画的テーマを確固としたものにしていった中期、戦後になり民家のある風景を描き続けた後期である。このセクションでは三つの時期の中で、初期について論述していく。
 向井潤吉は1901年に京都で、父方も母方も共に宮大工である家系に生まれた。だが、父は潤吉の幼少年期に輸出向けの衝立や屏風を作る職人になった。『20世紀日本の美術17:向井潤吉/小磯良平』の中で美術評論家の島田康寛は、「私はその仕事 (著者注:職人的職業のこと) に嫌悪を感じ極力反対して絵の道を選んだ。しかし(つく)る、という点では私は父母の血が正直に流れている職人、であるかもしれないと思っている」という晩年に向井が語った言葉を引用し (以後島田の言葉はこの本からの引用である)、こうした環境にあったことと彼が画家になったこととの関連性を示している。だが、この問題はここでの探究課題と直接関係しないため、これ以上は言及しない。また、潤吉の弟の良吉は1961年に高村光太郎賞を受賞した彫刻家で、武蔵野美術大学名誉教授であったが、このことについてもここではこれ以上言及しない。
 向井潤吉が最初に絵を習った学校が京都にある浅井忠を初代院長とした関西美術院であったことは、その後の彼の作品制作にとって重要であった。彼は1916年にこの学院に入学し、浅井の弟子である黒田重太郎らに教えを受けている。島田は、「向井潤吉はここで、「モデルをデッサンしても、毛髪の一筋一筋、手足の爪の先の光った個所までやるほど徹底」した、いわゆる関西美術院風の几帳面(きちょうめん)な素描をたたき込まれた」と、向井の言葉を挙げながら、この学院の教育方針を述べている。絵のテーマと深く係わるオブジェを詳細に描写する基本的な技術を、潤吉はそこで確実なものにしていったのである。しかしながら、彼の青春期の作品は写実的なものではなく、当時日本に輸入され持て囃されていたフォービズム的色彩が強く反映したものであった。
1927年、26歳のとき、シベリア鉄道に乗って、単身パリに向かう。パリではほぼ毎日、ルーブル美術館に通い、古典的名作を模写し続ける。そして、西洋絵画が西洋の精神や風土を背景とした長い歴史的連続性を持ったものであることを知る。その重厚さを無視して、小手先だけで西洋画を描こうとしていた日本の洋画家の絵画制作態度が如何に稚拙なものであるかを向井は痛感する。こうした日本の洋画家の態度について、向井の言葉を引用しながら、島田は「「その事は古典の作品の前に立つと、実にはっきりと理解できるのであって、私達の持っている技術というものが、実は、痩せこけて然も大甘だということが証明されたのである」というのが、結論であった」という指摘を行っている。パリで、向井は確かな絵画技術を獲得するためにひたすら名画を模写し、自らのタッチを創出するための技を研いていったのである。

 向井は1930年に帰国し、1933年に「ル・バル」と「父と子」という初期の代表作を制作する。これらの作品では、人間が内包する重さ、暗さ、さらには、不気味さ、力強さ、複雑さが表現されている。その後の向井の作品の変遷を追っていくと、この二つの絵は彼の作品の中ではかなり異端的なものである。こうした人間存在が孕んでいる内面性を深く掘り下げようとする作品を描き続けたならば、彼の画家として人生は大きく違ったものになっていただろう。しかしながら、私には向井潤吉がこうした人間の内面を真正面から見つめようという意識が脆弱であったからこそ、後の彼の作品が生み出されていったように思われるのだ。この点に関してはここではこれ以上触れないが、後のセクションで詳しく論述していく。

向井潤吉の戦争画

1934年、向井は画風を写実主義の方向に大きく転換する。1931年の満州事変。翌年の満州国成立。1933年の国際連盟脱退。そしてこの年の暮れに日本はワシントン海軍軍縮条約を一方的に廃棄する。歴史は戦争の時代へ一直線に進んでいく。そんな中で、向井は写実主義の絵に方向転換しただけではなく、1937年に日中戦争が勃発すると、自ら進んで中国戦線に従軍画家として赴く。彼の戦争画家としてキャリアの始まりである。翌年、上海軍報道部の委嘱を受け、作戦記録画の本格的な制作を行うようになり、終戦まで多数の戦争画を描く。
 迫内が向井の言葉を引用しながら、「来ると思っていた招集令状が来ないならば、画家として、「この異常な経験を介して自分の身体がどれほど酷使出来るか、戦場と云ふ特殊な地域に立つて果してどれほどの神経と視る事に堪へられるかと云う、言い換へれば手段とし方法とし又燃料とも滋養分ともする」ための従軍だった (「従軍画家仕義」『美術』13巻8号、1938年8月)」という言葉には当時の彼の心情がよく表されているが、向井が時流に乗ろうとしたことは確かである。戦争画を描くことによって画家としての地位をより強固なものにしていきたいと思っていたと言っても間違いではないだろう。司修は『戦争と美術』の中で『美術の窓』1991年8月号に掲載された美術評論家や学芸員58人に対する戦争画についてのアンケートに言及している。79%のインフォーマントが戦争画を評価できると語っていることを指摘し、さらに戦争画作家について、「作家のベスト五に藤田嗣治、宮本三郎、中村研一、小磯良平、向井潤吉が上がっています。五作家に共通していることは写実的描写力が優れていることです」と述べている。この発言は、向井の写実主義的画風への転換が戦争画作成のために大いに役立ったということを物語ってはいないだろうか。
 向井の戦争画で最も有名なものは「影 (蘇州上空にて)」であろうが、ここではこの絵と同年に制作された「突撃」、「マユ山壁を衝く」(1944)、さらに1945年に描かれた「水上部隊ミートキイナ奮戦」について考察していく。これら4つの作品を分析することで向井の戦争画の特徴が端的に示されると思うからである。まず、「突撃」と「影」に関しては、冒頭で紹介した迫内の評価には疑問を感じざるを得ない。「突撃」に描かれた兵士の何処に「鬼気迫る表情に兵士の抱える漠然とした不安」が存在しているのだろうか。その表情は殺人者のパッションを表してはいても、そこに人間的な不安の影はまったく見られず、構図としても人間描写としても際立ったものはなく、戦意高揚画の一つであるに過ぎない。また、「影」の「どちらかといえば中国側が受ける恐怖感を煽るよう」であるという考察も曖昧なものであり、理解できないものである。この絵は上空つまりは日本軍側から見たものである以上そこに中国側の視線はなく、それゆえ軍用機の影は日本の力の中国内陸部への浸透として解釈できるからである。「マユ山壁を衝く」は一見すると何処が戦争画であるか判らない。この絵は草木が鬱蒼として茂る山岳地帯を、敵を攻撃するために日本軍が登っている絵であるが、カモフラージュした小さな兵士が描かれているだけで、絵の中心は緑の草木である。詳細に描写された草木は後の民家の絵へと通じるタッチがあるが、この点については次のセクションで詳しく考察する。「水上部隊ミートキイナ奮戦」は終戦の年に描かれたもので、画面全体が黒く塗り込められているため、激しい戦闘の光景を明確に捉えることは難しい。しかしながら、藤田嗣次の「アッツ島玉砕」のように敵味方の判別もつかない壮絶な殺し合いが描かれたものではない。勇敢に戦ったとされる水上隊の逸話に基づき制作された暗がりの中での戦闘場面が描写されている絵である。

 では、向井潤吉の戦争画全体の特質とはどのようなものであろうか。第一の特質は写実性の問題と関係する。この点に関しては、前述した『美術手帖』2015年9月号にある「再録・座談会:向井潤吉×宮本三郎×中村研一×栗原信「僕等は従軍画家だった」」(初掲載は『週刊サンケイ』1956年8月19日号) という座談会の向井の次の言葉を引用すべきであろう。「(…) それまで日本の油画というものは勝手な仕事をしていたけれども、あの戦争画を契機として、写実が新しく考えられるようになり、もう一ぺん根本から勉強しなければいけないというように思われだしたんだ。事実、かなり写実力を持てるようになったんですよ、みんな」。戦争画を描くことで画家たちの写実力がレベルアップしていったことは事実であろう。だが、写実力を養うために戦争画を描く必然性はない。向井の発言を聞いていると、軍国主義国家や軍隊への迎合と戦争協力、さらには、戦争責任という問題に完全に背を向けている彼の姿がくっきりと浮かび上がってくる。第二の特質は実存性の欠如とでも言い得るものである。誰もが藤田が大戦末期に描いた「アッツ島玉砕」のような戦争の実相に迫るような強烈な印象を受ける絵を制作しなければならない訳ではない。だが、向井の絵はあまりにも現にそこにある戦争を遠目で見ているような印象を受けないだろうか。彼の戦争画は、戦争の残酷性や悪魔性とはまったく無縁である。

何故民家のある風景を描くのか?

 島田は上記した本の中で、民家を描くきっかけとなったエピソードを語った向井の次のような言葉を提示している。「空襲中、壕から出たり入ったりの生活のとき、緑草会発行の民家図録を見ていて、日本の民家の美しさ、こういう風土でしかできない形の美にはじめて気づいた。(…) これがなくなるのはしょうがないが、せめてなくなる前に、昔からの民家のよさを絵に残しておけば何かの役に立つのではないかと考えた (…)。」向井が民家を描くきっかけは描き写すこと、記録することという側面が強いことが理解できるが、そうした側面は彼が戦争画を制作するときの態度と同じものではないだろうか。しかし結論を急がずに、向井の民家の絵を具体的に観察していこう。
 向井は戦後すぐに日本の伝統的な建築様式によって造られた家を探し、日本中を旅し、それを油絵にしていった。1995年に死去するまで、彼はこうした絵を描き続けた。民家のほとんどは茅葺屋根で、山村部に建てられたものである。彼は約50年の間に2千軒にも上る民家を描いた。記録することへの執念を感じる。だが、こうして創作された民家の絵の特徴とはどのようなものだろうか。世田谷区が制作し、1993年7月29日に放映された「風は世田谷」という番組の中で、当時の区長だった大場啓二は向井の民家のある風景画について、「ただそこに古い民家があるだけではなくて、そこの中に住んでいらっしゃる人たちの息遣いみたいなものを感ずる」と述べているが、大場は本当にそう思っているのだろうか。自分が区長をする世田谷区に長年住んでいる文化人に阿諛追従した発言ではないだろうか。向井の民家を見ていると私は昆虫標本を思い起こす。何故なら、大場の発言とはまったく逆に、そこに住んでいる人間の生がまったく感じられないからだ。
その理由は大きく分けて二つある。一つは絵の構図に関係するものである。向井の描く民家の絵にはほとんど人間が登場しない。登場しても小さな影のように表されているだけである。確かに、民家が主題なのだから人間がそこに表されていなくとも問題はない。しかし、2千点もの民家のある作品を描いた中で、一点も民家と同じような大きさの人間が登場しないのは何故かという疑問が沸く。向井にとって人間は問題とならず、小さく描かれるだけのその存在は絵の付属物に過ぎなかったのではないだろうか。そう考えれば私が彼の民家のある絵を昆虫標本のように感じたのも納得できる。問題となるのは古い日本の伝統を象徴する対象であり、それを取り囲む草木や川や山であり、人間性という余計なファクターを抱える事物は排除すべきものなのだ。二番目の理由は繊細なタッチと関係する。民家を取り囲む草や木は細かく描写されているが、それは前のセクションで触れた「マユ山壁を衝く」の写実性の系譜を継いだものである。そのタイトルにも係わらず、この作品においても中心は草木であって日本軍兵士は付属物である。向井が人物描写を得意としていなかったのであれば、あるいは、人物画をほとんど描いていないのであれば納得はいくが、そうではない。1996年に発刊された「向井潤吉アトリエ館 名品目録」を見ると、向井は戦後も水彩による多くの人物画を描いているだけではなく、どの絵も人物を的確に捉えているのだ。協力して労働している生活力のある絵もある。1946年作の「まひる」はそうした労働の力強さをしっかりと捉えた油彩による代表作と見なし得るものであるが、この作品以降、向井はこうしたテーマの絵を油絵で制作することはなく、ひたすら民家の絵を描き続ける。それは何故か。これは私の仮説に過ぎないが、向井は常に動いていく時間の流れの中で、未来に向けて変化していく人間像を中心に据えた絵画をまったく重視せず、古さが問題となる伝統性や幾時代も変わらないと思われる自然といった過去に連なるものだけをクローズアップしたかったのではないだろうか。それは伝統を重んじるという姿勢ではなく、復古主義的で、彼が描いた戦争画から漂ってくる大東亜共栄圏の旗手たる大日本帝国の栄光の残滓がこびりついているものではないだろうか。

 人工的で標本のような絵画という点と復古主義的色彩を持った絵画という点は両立し難いものであるように思われる。しかしながら、この二つの点が民家のある風景というテーマを通して融合しているように私には感じられるのだ。この点に関してはこのセクションではこれ以上の検討はせずに、後続する拙論の結論部分で詳しく考察していく。

 

向井潤吉の戦争画から民家のある風景画への絵画的連続性についての探究のまとめとして、ここでは以下に示す美術的領域とは大きく異なる分野に基盤を持ったアプローチによる横断的分析を行うつもりである。何故なら、こうした多分野に跨る横断的分析を行うことによって、向井の絵画制作姿勢というものを社会的、歴史的、イデオロギー的により的確に位置づけられるからである。そのためにここでは二つの視点からの分析を提示する。第一のものは一般言語学における統辞論の探究方法と向井の絵画制作姿勢との類似性に関するものである。第二のものはフランスの経済学者・思想家のフレデリック・ロルドンの唱えたスピノザのコナトゥス (Conatus) という概念に基づく理論と向井の絵画制作姿勢に係わる視点である。

 アンドレ・マルティネの機能主義言語学の学派に属する文法学者のフェルナン・ベントリラは、パリ第5大学の統辞論の講義の中で、「統辞論の考察作業は大きく分けて二つある。“同定”と“クラス分け”である。同定は文法構造を構成する要素の特性を決定する作業で、クラス分けは各構成要素をクラスごとに分類していく作業である」といった内容のことを語った。構造分析に関する学的な基本姿勢を初めて聞いた私は、これから学ぶ言語学の根本原理に触れたような気がした。しかしよく考えてみれば、こうした作業は統辞論に特有の体系化作業でもなければ、言語学に特有の体系化作業でもない。構造を問題にするならば必ず行う必要のある作業である。だが、もしもこうした作業を学的探究においてではなく、画家が行ったならばどうであろうか。向井潤吉の絵画制作姿勢の中に、こうした学的アローチと同じ態度があるのではないだろうか。上記した『美術手帖』の冒頭には漫画家の今日マチ子と美術評論家の椹木野衣との対談が掲載されている。この対談の中で椹木は向井の民家の絵について、「どうも、空襲を生き残った茅葺の家を描く、ということのようなんです。だから、戦争中は作戦記録画を描いて加害者の立場に立ちながら、戦後になると一転して被害の側からの視点になってしまう。逆に言えば、両者は表裏一体で、向井の民家を描いた絵が持つ「暗い叙情」は、彼の作戦記録画にも同様に漂っていた。両者を分けずに見ることが重要なのだと思います」という意見を語っている。しかし向井潤吉の戦争画から民家のある風景画への絵画的連続性は破壊されるものを見つめるという同一視点に立脚しながらも、加害者の視線で見ることから被害者の視線で見ることへと転換していったものなのだろうか。また、向井の絵に「暗い叙情」といったものを感じるだろうか。私は椹木の意見には賛成できない。確かに向井の戦争画と民家のある風景画とは連続している。しかしその連続性は破壊されていくものを見つめているという一貫性に起因するのではなく、同定し、クラス分けする、つまりは、体系化し、記録していこうとする学的と呼び得る態度の一貫性に起因しているように思うのだ。それは主観的であることよりも客観的であることを重視しているように見せかける疑似学術態度の表出ではないだろうか。この点に関しては、次の視点の考察においてもう一度詳しく論述する。

 第二の視点の検討に移ろう。ロルドンは『私たちの“感情”と“欲望”は、いかに資本主義に偽造されているか?』(杉村昌昭訳、原題は « La société des affects: pour un structuralisme des passions ») の中で、スピノザの考えに依拠しながらコナトゥスを「「(…) おのおののものがおのれの存在のなかに居続ける [ために] 」行なう努力」と定義し、「人間はコナトゥスである」という発言を行っている。すなわち、主体という主観的要因と構造という客観的要因の交差によって生まれる力としてのコナトゥスこそが人間の方向性を決めるとロルドンは主張している。このことを戦争画との連関性から考えてみよう。戦争画を積極的に描いた向井をはじめとする多くの画家が、時代が戦争を求め、日本という国家を構成する国民に求められたゆえに戦争画を制作したと語っている。われわれは他者に影響され、しばしば他者の力に押し切られる存在である。だが、われわれは他者に影響を及ぼし、しばしば他者に自らの力を行使する存在でもある。画家は時代精神とも述べ得る国家や国民の要求に応えるという受動的な存在に過ぎない。こんなことを誰が主張できるだろうか。画家は第一に、創造者であり、時代精神に多大な影響を及ぼす存在である。それゆえ、描くことは他者を救済することにもなり得るが、他者を殺すことにもなり得るのだ。前記した『美術手帖』の号に掲載されている菊畑茂久馬のインタビュー記事の中で、菊畑は以下のように述べている。「絵画表現は、夢見るような言い方でしか語れないと思うんです。「彼岸」でも「夢のまた夢」でもいいんですが、そういうものを求める精神や気持ちが表現の営みの中に連綿と続いている。それは人間の生命力の大事な一要素です。それから、芸術はいつの時代も権謀術数が巻きついてきます。重要なのは、画家一人ひとりの自覚。」主観と客観との、あるいは、主体と構造もしくは制度との交点についての興味深い指摘であり、菊畑のこの意見はロルドン=スピノザの考えと類縁性を持つものである。二律背反すると思われるものを同時に抱えているゆえに、画家は自らが被る力を言い訳とするのではなく、自らの絵の力によって被害を受けた人々がいることも自覚しなければならないのではないだろうか。こうした認識の欠如が戦争責任を戦時中の国家体制や国民全体に押し付け、自らは責任なしとする多くの戦争画家たちの発言の中に刻み込まれている。そうした画家の一人が向井潤吉である。彼は戦争画を描いた時と同じ制作姿勢で民家のある風景画を描いていった。人間を排除し、中立的であるがゆえに自らの絵は弾劾されることは絶対にないと彼は思った。私はそうした歪んだ自尊心を彼の戦争画から民家のある風景画への系譜の中に見出す。

 戦争画の問題は重く、複雑である。それぞれの画家がそれぞれの立場で戦争画を制作し、ある者はその罪を問われ日本を追われ、ある者は沈黙し、ある者は過ぎ去ったものとして自らの過去の行為を消し去った。向井潤吉の戦後の絵画制作姿勢が特殊であった訳ではない。逆に、彼の態度は戦争画を描いた多くの画家たちが戦後取った典型的な態度であったとさえ言い得るものであった。ここまで書いて、私はふと、宇佐美承が『池袋モンパルナス:大正デモクラシーの画家たち』の中で引用している小川原脩という戦争画を描いた一人の画家の言葉を思い出した。「私は時に <個> と <群> ということを考える。<個> は <個> なのだし <群> は <群> なのだ。その関係に優劣はない。しかし <個> は常に <群> の中に放置され、<群> の内部の多様な相関関係の中を浮遊する。<個> が <群> に取り囲まれながらも自分自身であるためには、<群> そのものが押しつけてくる様々なエレメントを、消しゴムで一つ一つ消し去っていかなければならない。」戦争画を描いたことで、美術文化協会から除名され、それ以後、東京の画壇からは遠く離れ、故郷の倶知安で絵を描き続けた小川原。彼の代表作の「子犬」(1977)は、<群> から疎外された一匹の子犬の絵だ。今引用した小川原の言葉は歴史との対話という問題を表しているように私には思われる。それは過去の「私」との対話であり、過去の時代性精神との対話である。もちろん、その対話はバフチン的な意味のものであり、ベンヤミンの過去の歴史を今として生きるという問題と連関するものである。小川原は過去を抱え、過去との真摯な対話を通して、過去に今の力を与えようとした。向井潤吉にはこうした過去の歴史をもう一度生きてみようという姿勢がなかった。もしも彼にこうした姿勢があったならば、向井潤吉の絵の中に温かい何かが宿っていたかもしれない。

予想通りアトリエ館には受付の女性が一人いるだけであった。一階から二階へと、ゆっくりと向井の民家の絵を見ていく。二階には絵と共に向井が初めて洋行したときのパスポートと旅券が陳列されていた。興味深い史料かもしれない。だが、私は向井が愛用していたというカメラが気になった。記録することを停止した骨董品的な存在。そこに向井の存在の影は感じられず、役目を終えた機械の鈍い輝きがあるだけであった。

初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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