戦争画を描かない画家たちがいた -板橋区立美術館の「池袋モンパルナス展」-

著者: 岩垂 弘 いわだれひろし : ジャーナリスト・元朝日新聞記者
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 あらゆるものが動員された「十五年戦争」。画家も例外でなかった。多くの画家たちが、自ら進んで、あるいは生活のため心ならずも戦意高揚のための戦争画(戦闘の場面や戦時における兵士や市民の生活を描いた絵画)を描いた。が、ごく少数ではあったが、戦争画を描くことを潔しとせず、あくまで「描きたいものを描く」という画家の志を貫いた画家たちがいた。1月9日(祝日)まで、東京の板橋区立美術館で開かれている「池袋モンパルナス展」には、そうした画家たちの作品が展示されている。

 東京・池袋駅西口から西武池袋線椎名町駅にかけての一帯はビルや住宅が建ち並ぶ市街地だが、ここに戦前、昭和の初めから敗戦までの時期(1926年から1945年まで)に多数の画家や画家志望の青年が住んでいた。5つのアトリエ村があり、アトリエは全部で150~200戸を数えた。そこを根拠にした絵描きは500~600人にのぼったと伝えられている。
 当時、この一帯は低湿地だったので、住宅もまばらだった。地価が低いこの一帯を何とか活用できないかと一部地主が考えだしたのが、画家向けの安い家賃のアトリエ付き住宅だった。その狙いが当たって画家や画家志望の貧乏青年らが続々とここに集まってきて、一つのコミュニティを形成するに至ったのだった。
 ここを「池袋モンパルナス」と命名したのは、詩人で画家だった小熊秀雄だ。1938年(昭和13年)のことである。フランスのパリにモンパルナスという丘があり、ここに1910年から1930年にかけて画家など芸術家たちが多数集結して集落を形成し、その活動が世界的な注目を集めていたことと「池袋のアトリエ村」を重ね合わせた命名だった。「池袋モンパルナス」の絵描きたちは、互いのアトリエや酒場に集まっては芸術論を闘わせた。アトリエ村には「反骨」「自由志向」の空気が漂っていた。

 しかし、戦争が、絵描きたちの生活を一変させる。日本が1931年に満州事変を起こし、「十五年戦争」に突入したからだ(日本は満州事件後、1937年に日中戦争が始まり、次いで1941年には太平洋戦争に突入する。その太平洋戦争は1945年に敗戦を迎えるわけだが、満州事変から足かけ15年にわたって戦争をしていたことになり、「十五年戦争」の呼称が生まれた)。
 政府は、戦争遂行のためにあらゆるものを総動員したが、美術の利用を重視した。国民の「戦意高揚」、「国民精神の発揚」のためには美術が大きな役割を果たすとみていたからである。このため、画家に要請したり、あるいは画家を徴用して戦意高揚に資する作品を制作させた。
  

1938年には、陸軍が小磯良平、藤田嗣治、中村研一、宮本三郎、川端龍子ら著名な画家十数人を戦地に派遣し、作戦記録画を描かせた。これらの従軍画家が陸軍の支援を受けて「陸軍美術協会」を結成すると、それにならった、画家たちによる海軍美術協会、航空美術協会などが次々と誕生した。1943年には、政府の肝いりで大政翼賛会の一翼として「日本美術報国会」(会長・横山大観)が発足するが、これには280余人の画家が参加したとされる。画家たちが描いた戦争画は、新聞社や政府が主催する聖戦美術展、大東亜戦争美術展、戦時特別美術展などで展示され、おびただしい数の入場者を集めた。

 戦争画に対する画家たちの対応だが、積極的にそれを描いた人と、あまり気が進まないけれど描いた人がいた。
 積極的に描いた画家を突き動かしていたのは「日本の勝利のために役立ちたい」という熱烈な愛国精神だった。日本画家の堂本印象は「此の戦争を飽くまでも勝ち抜かねばならぬと言う必勝の信念を、国民の一人一人が固く抱いている以上は、作家の立場に於いてもそうした民族の意欲が彩管を通じて自然と流露して来るのはむしろ当然と言うべく」と書いている(日本報道社『征旗』、1945年)。
 一方、あまり気が進まないけれど描いた人の場合は、当時の社会の雰囲気が強く影響していたとみていいようだ。当時は、全国民が一丸となって戦争勝利のために突き進むことが求められていた時代であり、戦争に非協力な人、戦争に批判的な人は「非国民」として指弾される時代であった。だから、画家としても戦争画を描かざるを得なかったわけだ。
 生活上の問題もあった。当時は全ての資源が戦争遂行のために費やされたから、食料、衣類など生活必需品はすべて配給制となり、市民は欲しいものを自由に手に入れることができなかった。画家にとって不可欠な画材も配給制となった。日本美術及工芸統制協会という機関が、画材の配給権を独占し、画家たちの思想・表現傾向や業績をもとに画家たちを甲乙丙のランクに分け、画材の配給量を決めた。画家として暮らしてゆくためには、描きたくないものも描かざるを得なかったのだ。
 いずれにしても、十五年戦争下、多くの画家が戦争に動員され、戦争画を描いた。

 池袋モンパルナスの住人にも戦争画を残した画家たちがいた。朝井閑右衛門、内田巌、木下孝則、田中佐一郎、鶴田吾郎、中山魏、藤田嗣治らである。藤田の「アッツ島玉砕」、鶴田の「紳兵パレンバンに降下す」は戦争画の傑作とされる。

 一方、戦争画を描かなかった画家たちもいた。その中でも、これまでとりわけ注目されてきたのは、日本の敗色が濃くなった1943年に「新人画会」を結成した8人の画家たちだ。靉光(あいみつ)、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本竣介。当時、いずれも30代の新進画家だった。
 彼らは、言論や表現活動への制限が日ごとに厳しさを増した戦時下にあっても、それぞれ「自分の芸術」を追求した。戦争画に手を染めなかったのも、メンバーの多くは明確な反戦の意思を持っていたからではなく、むしろ、「自分が描きたい絵を描く」という画家としての信念に忠実だったからというのが真相のようだ。
 彼らは新人会結成直後、空襲警報が鳴り響く東京・銀座で第1回新人画会展を開く。が、その後は、同年(1943年)中に第2回展を、1944年に第3回展を、いずれも銀座で開催したものの、第4回展を開催することはついに出来なかった。なぜなら、メンバーの1人、靉光が1944年5月に召集され、妻と幼子3人を残して中国戦線へ送られ、1946年1月、上海で病死したからだった。(なお、宇佐見承は、その著『池袋モンパルナス』<集英社刊、1990年>で、松本竣介も戦意高揚のためと思われる絵を描いていたと指摘している)
 池袋モンパルナスは、1945年4月の米軍機による空襲で灰燼と化した。
 
 今回の「池袋モンパルナス展」は池袋モンパルナスの画家たちとその作品を紹介しようというもので、池袋モンパルナスにゆかりのあった画家38人の作品80点が展示されている。もちろん、新人画会8人の作品も陳列されており、他に小熊秀雄、長谷川利行、難波田龍起、丸木俊、丸木位里、吉井忠、古沢岩美、北川民次、野田英夫らの作品が展示されている。
 戦争画は一枚もない。題材はさまざまだが、目の前に展開するこれらの絵を眺めていると、暗い時代を昂然と生きた画家たちの軌跡が感じられ、思わず画面に引き込まれる。絵画鑑賞が好きな人には、見応えのある展覧会である。
  
◆池袋モンパルナス展は板橋区立美術館、読売新聞社、美術館連絡協議会の主催。観覧料は一般600円、高校・大学生400円、小・中学生150円。板橋区立美術館は東武東上線成増駅または都営三田線西高島平駅下車。電話は03-3979-3251

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