戦後七〇年の哀しさ -書評 大沼保昭著 聞き手江川紹子『「歴史認識」とは何か―対立の構図を超えて』-

著者: 半澤健市 はんざわけんいち : 元金融機関勤務
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《居酒屋の酔客の発言でも橋下徹の発言でもない》
 ■韓国や中国は、われわれに要求することを自分たちにはできるのか。日本ばかり責めるけれど、韓国にも慰安婦はいたではないか。ベトナム戦争のときに派兵された韓国軍はベトナムで一体どれほどひどいことをやったんだ。中国は、南京大虐殺だと日本をさんざん非難するけれど、自分のところであれだけの人権弾圧をやっているではないか。毛沢東は大躍進や文化大革命で自国民を何百万人死なせたんだ、チベットやウィグルでの大規模な抑圧、人権侵害は何だ。そういうことをやっていながら日本を批判できるのか。あるいは、欧米はあれだけ列強として植民地支配をやっておきながら、なぜ日本に説教を垂れるのか。自分たちは、旧植民地の膨大な数の人々に、日本のように反省して謝罪したのか。■

上記に引用した文章は、居酒屋の酔客の発言ではない。橋下徹大阪市長の発言でもない。他ならぬ本書の著者大沼保昭(おおぬま・やすあき、1946年~)が書いた文字であり、これに続けて彼は「これは、素朴な、人としてごくあたりまえの不公平感だと思うのです」と言っている。
大沼は、これらの「あたりまえの不公平感」を理解はするが、肯定はしない。彼は批判者と同じ目線に立って、事実はどうだったのかを丁寧に述べ、当事者による解釈の違いを述べ、その違いの発生する理由を述べる。その仕方で相手を静かに説得しようとする。

《「平和に対する罪」をテーマとしての出発》
 東大法学部を出て「平和に対する罪」をテーマとして研究を始めた著者が、別のスマートな課題を選んでいれば、おそらくこういう疑問や批判に苦労することはなかった。
本書は、過去半世紀にわたる著者の研究と実践を、インタビュー形式で、発言した一冊である。著者は「はじめに」にこう書いている。

■本書でわたしが成し遂げたいことは、すぐれたジャーナリストである江川紹子さんに聞き手の役を演じてもらうことによって、読者の方々に「歴史認識」にかかわる「見取り図」を示すことである。そして、本書の読者が、それまで自分がもっていた見取り図をすこしでも考え直し、自分と対立する考えを持つ人たちと見取り図を突きあわせるのを助けることである。■

《徒労感に押しつぶされた慰安婦問題》
 それが成功したかどうか。以下は私(半澤)の感想一束である。
私は、大沼保昭の名前を東京裁判の研究者としてしか知らなかった。大沼が「アジア女性基金」の当事者として苦労したこと―基金への毀誉褒貶を叙述している―を知らなかった。
欧米帝国主義の下にあった旧植民地諸国が、「人権」と経済発展という武器によって、宗主国を告発する二一世紀が始っている。それを私は詳しくは知らなかった。市民運動への参加と国際的な活動を通して、大沼の心情が如何に変化したか。それを私は知らなかった。「語り手のあとがき」に著者はこう書いている。

■市民運動に長年従事してきたわたしにとっても、慰安婦問題ほどやりきれなく、徒労感に押しつぶされたものはなかった。わたしが深くかかわったアジア女性基金による元慰安婦の方々への償いは、これに否定的な態度をとるメディアの圧倒的な力の前で、よかれと信じて力をつくしたことがごく一部の被害者にしか届かず、誤解をもったまま基金の償いを受け取らずに亡くなっていく被害者の方々に何もできず、長年好きな国だった韓国が好きでなくなってしまうという、自分でも心底嫌な感情をもって活動を終えざるを得なかった。■

《戦後七〇年の哀しさ、しかし》
 ある作家が本書を読んで作者の語りを「印象的なのは、静謐で、少し哀しげなしゃべり方」と評した。作家の直感である。そして「静謐と哀しさ」が本書のトーンであると私も感ずる。それは深い余韻を残す哀しさである。戦後民主主義の七〇年目の夏に、「静謐と哀しさ」を知らず知性の感じられない人物が権力の頂点にいる、という哀しさである。

しかし、だからこそ、いや、にも拘わらず「それまで自分がもっていた見取り図をすこしでも考え直し、自分と対立する考えを持つ人たちと見取り図を突きあわせるのを助け」たいとする著者の心情は私に強く訴えかけてくる。その心情が多くの読者に届くことを、私は強く望む。(2015/09/03)

■大沼保昭著 聞き手江川紹子『「歴史認識」とは何か―対立の構図を超えて』、中公新書、中央公論新社、2015年7月刊、840円+税

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