戦後67年、今なお放置されている朝鮮人の遺骨 -日本人戦没者の遺骨未帰還報道の陰で-

 アジア・太平洋戦争での敗戦から67年。国民の間ではもはや戦争ははるか遠い過去の出来事となりつつあるが、この夏、「日本人がやるべき戦争の後始末はまだ終わっていない」と痛感させられた報道があった。海外などで亡くなった日本人戦没者の遺骨の多くがいまなお放置されているという報道のほか、敗戦前後に北朝鮮で死亡した日本人の遺骨返還や墓参をめぐって日朝の政府間交渉が始まったという報道だ。が、こうした報道に接して、私はこう思わざるをえなかった。「私たちは何かを忘れてはいまいか。それは、戦争中に朝鮮から強制連行されてきて死亡した朝鮮人の遺骨の収集と慰霊だ」と。

 8月15日付の朝日新聞朝刊1面に「戻らぬ遺骨113万人」という記事が載った。それによると、第2次世界大戦で海外や沖縄、硫黄島で亡くなった戦没者は約240万人。うち、まだ日本に戻っていない遺骨は約113万3000人(8月13日現在、厚生労働省調べ)にのぼるという。
 日本政府としては未帰還の遺骨収集に取り組んでいるが、敗戦から長期間経ていることから遺骨に関する確たる情報が乏しくなってきていることや、残存遺骨があるとみられる国の政府の事情もあって、遺骨収集は順調には進んでいないようだ。朝日新聞の記事も「遺骨収集は行き詰まりをみせている」「劇的な進展は望みにくい状況」と伝えていた。

 敗戦からすでに67年になるというのに、まだ戦没者の半数近い人の遺骨が、祖国や故郷に帰還出来ずにいるのだ。異国の山野に放置させられたままの戦没者たちの無念を思うと、胸ふたがる思いにかられた。
 いまだに肉親の遺骨を抱くことができない遺族の心情もまた悲痛極まりない。8月15日付の朝日新聞朝刊は、1面の「戻らぬ遺骨113万人」という記事を受けた社会面で、同僚だった日本兵の遺骨を南太平洋のガダルカナル島で探し続ける元兵士や、南太平洋パプアニューギニアで戦死した父の遺骨を探し求める遺児の「命ある限り続ける」という決意を伝えていた。いまなお諦めきれぬ遺族や関係者の心情が切々と伝わってきた。

 こうした報道を追いかけるように、8月30日付の各紙朝刊は、敗戦前後に北朝鮮に残された日本人の遺骨収集や墓参について話し合う日本と北朝鮮の政府間協議の予備協議が29日から北京で始まったと伝えた。厚生労働省によれば、第2次世界大戦直後の朝鮮半島北部では飢えや病気で約3万4000人の日本人が亡くなったとされる。うち1万3000柱が引き揚げ時に持ち帰られたとされるが、実際に遺骨が何柱帰ってきたかは把握できていない、とされる。厚生労働省によれば、北朝鮮側は日本人墓地計5カ所を確認しているという。
 
 同日付の読売新聞朝刊は、日朝協議開始に対する反響を伝えていたが、その中で、父と弟、2人の妹の遺骨を北朝鮮に残してきたという北海道釧路市の77歳の男性は「戦後60年以上がたち、遺骨はもう戻ってこないと諦めかけていたが、希望が湧いてきた。遺骨が戻ってきたら、地元の寺で供養してあげたい」と語っていた。今回の日朝協議に対する遺族の期待は極めて大きいとみていいだろう。

 こうした報道を読むたびに、私の脳裏に浮かんできたのは2冊の本であった。『遺骨は叫ぶ』(2010年8月、社会評論社刊)と『みちのく銃後の残響』(2012年6月、同)。著者はともに秋田県能代市在住の著述業、野添憲治さんである。
 
 『遺骨は叫ぶ』の「まえがき」はいう。
「日本の韓国併合から100年になる今年(2010年)は、日本が朝鮮人強制連行を始めてから七三年である。だが、日本と韓国・朝鮮、また日本と中国との歴史問題はいまだに解決していない。また、清算しようとする動きも見えていない。日本政府が動かないのならまず自分から動こうと、日本に強制連行れた中国人が働かされた一三五事業所の現場を、二〇〇一年から歩きはじめた。その現場にはすでに一〇年近くも前(早いのでは大正期)に朝鮮人が連行されているので、中国人と朝鮮人を一緒に調べた。花を供えて黙礼したあと現場を歩き、生存者や資料を捜した」
  
 こうした北海道から沖縄までの「慰霊と取材の旅」の中で出合った、朝鮮人連行者が強制労働されられていた三七カ所についての現場ルポをまとめたのが本書だ。野添さんは「まえがき」でこう述べている。
 「現場を歩き、残り少ない資料を調べ、体験した人を見つけて話を聞いたが、犠牲になった朝鮮人が呻く声が聞こえた。だが、その声は現場に足を運ばなければ聞こえてこないのだ。しかもその現場は、敗戦後の長い歳月のなかで風化をはじめ、資料は十分に残されていないうえに、連行や強制労働の事実を語れる人はいまやほんのわずかになった。そして私たち日本人は、犠牲者の骨から聞く心をだんだん失ってなってきている」
 「実際に作業現場を歩くと、日本のいたるところに強制連行されて犠牲になった朝鮮人・中国人の遺骨が散らばっている。しかも、なぜ散らばっているかを知らない人が多くなっている。一方、連行された人の家族たちはいまでも、生きて帰ってくるのを待っているという。せめて事実と遺骨を掘り起こして遺族の元に帰してあげることが、日本政府の、そして私たちの責務ではないだろうか」

 同書によれば、1937年7月から始まった日中戦争により、国内すべての人的・物的資源はもっぱら戦争遂行目的のために動員され、加えて軍需産業、重化学工業が拡大し、産業界の労働力の不足は決定的になった。とりわけ、石炭山、金属山、土木建築などの重労働事業場で労働力が足りなくなった。そこで、日本政府は、国家総動員法を公布し、1939年に労務動員計画を閣議決定して「移住朝鮮人」をこれらの事業場に振り向けた。
 動員計画に基づく朝鮮本土からの朝鮮人連行は、「募集」「官斡旋」「徴用」と形式を変えながら1939年から1945年の敗戦まで続いた。

 いったいどれほどの朝鮮人が日本に連行されてきたのか。野添さんは、日本人研究者によるさまざまな推定数(八七万七三〇〇人以上、約七〇万~八〇万、七〇万人から八〇万人の間、七〇万から八七万三〇〇〇人、約一二〇万人)と朝鮮人研究者の推定数(約一五〇万人)を紹介。そのうえで「過酷な現場での事故死、食糧不足や虐待事件での死傷、病気や怪我でも治療を受けさせて貰えず、多くの怪我人や死者がでたものの、その実態は一部より明らかになっていない」「強制連行者の死亡率は六・四%~七・二%にのぼると考える研究者がいる。この説にしたがって仮に一二〇万人が強制連行され、七・二%の死亡率と推定すると、八万六四〇〇人の死者がでたことになる」と書いている。

 『みちのく銃後の残響』によれば、野添さんたちは1996年に「秋田県朝鮮人強制連行真相調査団」を発足させ、以来、県内の朝鮮人強制連行の実態調査を続けている。
 これまでの調査結果について、野添さんは同書の中で「わたしたち調査団の十数年にわたる調査で、県内で朝鮮人が働いた現場は七七カ所までわかり、朝鮮人は約一万五〇〇〇人である。だが、朝鮮人たちの労働や生活、事故や死後の始末などはよくわかっていない。記録はほとんど残ってないし、秋田に強制連行された人で生存が確かめられたのはわずか六人にすぎない。また、他県のように調査を早くからやるとよかったが、わたしたちの調査団が活動をはじめた時は、すでに多くの関係者がこの世を去っていた」と述べている。

 同書によると――秋田県山本郡八峰町にかつて発盛(はっせい)鉱山があった。銀を産出したが、掘り尽くしてからは他鉱山の鉱石を買収して精錬する発盛精錬所として再出発。この精錬所へアジア・太平洋戦争中、朝鮮人が連行されてきて働いていた。秋田県朝鮮人強制連行真相調査団の調べで精錬所近くの原野で朝鮮人の墓が七〇基以上見つかった。墓石に氏名は刻まれていなかった。2007年のことだ。調査団は墓標と案内板を建て、毎年7月に慰霊式を行っている。

 また、今年7月30日付の秋田魁新報によると、かつて銅鉱山として栄えた秋田県横手市の旧吉乃鉱山に徴用され、過酷な労働条件下で亡くなった朝鮮人の追悼碑が同市内の共同墓地の一角に建立され、29日、秋田県朝鮮人強制連行真相調査団と地元住民による慰霊式が行われた。同記事によると、戦時中、168人の朝鮮人がこの鉱山に徴用され、過酷な労働や食糧不足で相次いで死亡、共同墓地の隣に約40人が埋められたという。追悼碑は角柱で地元の人が建てた。碑の側面には調査団による碑文が記されている。

 野添さんと調査団の活動は全国的にみて極めて稀なケースと言える。多くの人に、この活動を知ってほしいと願わずにはいられない。半世紀以上にわたって祖国に帰還できないでいる遺骨は日本人のそればかりではなく、私たちの周辺には、日本の植民地政策によって故郷から遠く離れた地で命を落とさざるをえなかった朝鮮人の遺骨がいまなお埋まったままなのだから。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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