戦時下の反戦医師の足跡を掘り起こす 森永玲著『「反戦主義者なる事通告申上げます」――反軍を唱えて消えた結核医・末永敏事』 

 無教会主義のキリスト教伝道者・内村鑑三の弟子で結核の先駆的研究者でありながら、戦時下に公然と反軍を唱えたため逮捕され、この世から抹殺された医師の足跡が、長崎新聞編集局長によって70余年ぶりに掘り起こされ、単行本になった。花伝社から出版された森永玲著『「反戦主義者なる事通告申上げます」――反軍を唱えて消えた結核医・末永敏事』である。当時の言論統制や思想弾圧の過酷な実態が明らかにされており、本書の母体となった新聞連載は2016年・第22回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を受賞した。

 この本の主人公、末永敏事(すえなが・びんじ)は、これまで全く知られていなかった人物である。長崎新聞編集局長の森永さんも、これまで耳にしたこともなかった人物だった。なのに、なぜこの人物の生涯を追うことになったのか。
 昨年1月、長崎市に住む、敏事の遠縁にあたる人が、森永さんを訪ねてきた。「敏事の生涯を調べているが、自分たち親戚の調査では限界があるので、新聞社の力を借りたい」という依頼だった。森永さんはよく事情がのみ込めず「本当に実在する人物なのか」と半信半疑だったが、遠縁にあたる人についてきた人が懇意にしている学者だったこともあって、取材を始めた。
 なにせ末永敏事が亡くなってから70年以上もたっていたため、彼を知っている人も、彼に関する資料も極めて少なく、取材は難航した。半年かがりでその足跡の一部が明らかになり、それを、昨年6月15日から10月6日まで長崎新聞に連載した。それに加筆したのが本書で、それによると、末永敏事とはこんな人物であった。   

 1887年(明治20年)に長崎県の北有馬村(現南島原市)の医師の家系に生まれた。1901年(明治34年)に上京し、青山学院中等科に入学。まもなく内村鑑三に出会い、その影響でクリスチャンとなる。
 青山学院中等科を卒業すると帰郷し、医師を目指して長崎医学専門学校(現長崎大学医学部)に進む。同校を卒業すると、台湾で医師として働き、1914年(大正3年)、米国に留学する。結核を研究するためで、シカゴ大学やシンシナティ大学で学んだ。
 米国滞在は10年に及ぶが、この間、敏事は結核菌の基礎研究に関する論文を次々と米医学専門誌などに発表する。このころ、日本では、結核は死に至る病としておそれられ、国民病と呼ばれていた。森永さんは、これらの論文を結核予防会の専門家に読んでもらった。すると、「大正期に結核の分野で国際的な仕事をしたというのは驚異的な事実。パイオニアと呼んでいい」「国際舞台に立った最初の日本人医師だろう」といった感想が寄せられたという。
 
 1925年(大正14年)に帰国した敏事は、東京の帝国ホテルで、同じ無教会主義キリスト信者の女性と結婚式をあげる。敏事にこの女性を紹介したのは内村鑑三で、結婚式の司式を務めたのも内村だった(ただし、敏事はその後、この女性と離婚)。
 結婚した敏事は自由学園に就職するが、1929年(昭和4年)、故郷の北有馬村で開業。そして、1937年(昭和12年)には、茨城県久慈郡賀美村(現常陸太田市)で「末永内科病院」を開業する。翌1938年(昭和13年)には、同県鹿島郡の結核療養施設、白十字保養農園に移り、住み込み医師として働く。キリスト教伝道者で社会運動家の賀川豊彦の紹介だった。

 ところが、この年の10月6日、敏事は茨城県特高(特別高等警察)に逮捕される。51歳であった。
 本書によれば、1937年の日中戦争突入を受け、近衛文麿内閣は「国民精神総動員運動」を打ち出し、人と物を統制して戦争に集中させる国家総動員法を施行した。これを受けて、「国民職業能力申告令」が出された。医師の場合は、性別、診察能力、学歴・職歴、総動員業務従事への支障の有無などを地方長官へ申告しなければならなかった。
 しかるに、敏事は茨城県知事あてに郵送した回答書に「平素所信の立場を明白に致すべきを感じ茲(ここ)に拙者(せっしゃ)が反戦主義者なる事及軍務を拒絶する旨通告申上げます」と記したのだった。「内心に秘めた反戦思想が当局に露見したのではない。国家総動員の手続きに沿って、わざわざ文書で、総動員に従わないという信条を届け出たのだ」と森永さん。当局としては、危険思想の持ち主である“国賊”と断定して逮捕に踏み切ったということだろう。

 そればかりでない。旧内務省資料の『特高月報昭和十四年一月分』には、勤務先の白十字保養農園の事務長らに「現在日本の政治の実権は軍部が握って居る、近衛首相は軍部に乗ぜられて居る其(そ)の現はれが日支事変である。軍部の方針は世界侵略を目指して居る」「今次事変の当局発表新聞記事、戦争のニュースは虚偽の報道である」「今度の戦争は東洋平和の為であると言ふて居るが事実は侵略戦争である」などと語っていたと記されていた。

 敏事は、なぜこうした信条や見方をもつに至ったのか。森永さんは、彼が内村鑑三の薫陶を受けたことが影響しているのでは、とみる。内村は非戦思想の持ち主であった。

 敏事は1939年(昭和14年)、陸海軍刑法違反(造言飛語罪)容疑で起訴された。軍刑法は軍人を罰する法律だが、1930年代以降、民間人へも適用されるようになっていた。39年4月の水戸地裁での控訴審で禁錮三月の判決があり、敏事が上訴しなかったためこの刑が確定する。

 ところが、森永さんの追跡調査で明らかになったのは、ここまで。できる限り手を尽くしたが、これから後の彼の足跡はついにつかめなかった。
 戸籍によれば、敏事は1945年(昭和20年)8月25日、東京の「清瀬村」で死亡したことになっている。しかし、いくら調べても、彼が服役した刑務所、出所後の行動、死亡した場所、死亡の原因など、あらゆることが不明だったという。「清瀬村」を手がかりに東京都清瀬市の病院、とくに戦前、結核病棟を備えていたいくつかの病院に照会してみたが、敏事の記録は見つからなかった。
 
 要するに、出所から死亡までの6年間の足取りが空白であった。唯一、彼の足跡が残っていたのは、1943年(昭和18年)春、敏事が東京・新宿通りにあった、幼なじみが経営する歯科医院に立ち寄ったことだけだった。そのことが、院長の手記に記録されていた。それによれば、敏事は「汚れた背広がぼろほろに破れているのが異様で、ほおにけがをしたような痕があった」という。
 
 彼の生涯は、一言でいえば、結核研究のパイオニアであったにもかかららず、反戦主義者と申し出たがゆえに社会から抹殺され、世間からも忘れ去られたということだろう。森永さんは書く。「彼は歴史から消し去られた。危険思想の“国賊”とされたから、国際的医学者としての栄光も握りつぶされたのか。かといって、戦後に復活した共産党や宗教関係の戦時下抵抗者たちと並んでその名が記憶されることはなかった。従来の内村研究の中で敏事が重視されることもなかった」

 本書を読み終わった時、私の脳裏に去来したのは「再び思想弾圧の時代が近づきつつあるのでは」との不安であった。
 森永さんも、本書の「取材経緯」の最後を次のような文章で結んでいる。
 「本書の編集途中だった2017年6月、改正組織犯罪処罰法が成立した。改正法で新設される『テロ等準備罪』は、犯罪を計画段階で処罰する共謀罪の流れをくむ。『現代の治安維持法』と呼ばれる共謀罪が形を変えて出現したのだとすれば、では、これが何の始まりなのかを考えていく必要がある。近い過去の失敗をもう一度考える必要がある」
 今こそ、忘れ去られていた悲劇の結核医の孤独な生涯に思いをはせたいものである。

 森永玲著『「反戦主義者なる事通告申上げます」――反軍を唱えて消えた結核医・末永敏事』の定価は1500円+税。発行・花伝社

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