戦争における最大の犠牲者は前線に送られた兵士たちだが、“銃後”の女性たちもまた戦争遂行という国策によって動員された犠牲者だった――第二次世界大戦下の女子労働者の実態を明らかにした冊子『武蔵野市女性史 あのころ そのとき―国策に絡め捕られて―』が刊行された。戦時中、東京都武蔵野市にあった大規模な戦闘機製造工場の中島飛行機に動員された若い女性たちの労働実態の記録だ。編集・出版したのは「むさしの市女性史の会」である。
武蔵野市は東京都多摩地域の東端に位置し、現在、人口14万。
同市では、2001年に市当局が、男女平等のための社会的風土づくりの一環として「明治、大正、昭和と、時代の大きな大きな流れのなかで、今まで歴史の表舞台のなかではあまり語られることのなかった、しかしながら生活に根ざしてたくましく生きてきた武蔵野の女性たちの暮らしを、女性の視点から記録」することを計画し、3年後の2004年に『武蔵野市女性史』(全2巻)を刊行した。資料収集、取材、執筆にあたったのは市民で構成された編纂委員会だった。
刊行後、編纂委員会は解散したが、一部の編纂委員の中から「未収録の膨大な資料を整理して続編を出したい」という声が出、新しい人も加わって「むさしの市女性史の会」が発足した。同会は『武蔵野市女性史』の続編として、2009年に『あのころ そのとき―女性たちの草の根の運動―』、2011年に『あのころ そのとき―戦中から戦後へ―』を刊行した。こんどの『武蔵野市女性史 あのころ そのとき―国策に絡め捕られて―』 はその続編で、同会としては3冊目の刊行であった。
『武蔵野市女性史 あのころ そのとき―国策に絡め捕られて―』 の主たる内容は、二つの調査・報告からなる。一つは長田律子さんの「第二次世界大戦期における女子動員政策と武蔵製作所」。もう一つは梁裕河さんの「ノート・中島飛行機と朝鮮人」である。
「第二次世界大戦期における……」によると、第二次大戦中、武蔵野市の北部に中島飛行機の武蔵製作所があった。中島飛行機は1917年から1945年の敗戦まで存在した日本の航空機・エンジンのメーカーで、東洋最大といわれた。全国に12の製造廠と102の工場をもち、創業から敗戦までに生産した戦闘機は2万5804機、民間機131機、それにエンジン4万6736基で、機体数では全国一、エンジン数では第2位だった。
武蔵野市に中島飛行機の工場が建設されたのは1938年で、同社としては4番目の工場。その時は「武蔵野製作所」といい、陸軍用航空機のエンジン製造工場だった。3年後、隣に海軍用のエンジン製造工場として「多摩製作所」が建設された。1943年に両工場が統合され、「武蔵製作所」と改称された。両工場合わせると、敷地面積は約56万平方メートル。東京ドーム12個分の広さ。戦争末期には米軍機の攻撃目標となり、9回も爆撃を受けた。このため、製作所は壊滅的な状態となり、敗戦とともに閉鎖された。
武蔵製作所でどのくらいの人が働いていたのか。長田律子さんによれば、正確なことは分かっていない。なぜなら、同製作所に関しては資料がほとんど残っていないからである。米軍機から何回も爆撃を受けたということもあるが、敗戦が決定的になった時点で、重要書類が会社側の手で焼却されたからだという。
「中島飛行機株式会社・富士重工業株式会社概史」によると、1944年の同製作所の従業員数は3万2570人。長田さんによれば、これは正規の従業員数であって、当時、同製作所に動員されていた学徒、挺身隊、徴用工らは含まれていない。長田さんによれば、俗に「従業員数はピーク時には、学徒、徴用工なんかを入れれば5万を出た」と言われているという。
長田さんの調査・報告はまた、当時、同製作所で旋盤工として働いていた人の証言を伝えている。それは「戦争末期には、学徒、挺身隊、徴用工の割合は5割から、職場や時期によっては8割ほどだった。しかも、そのほとんどが女性だった」というものである。
これらのことから類推すると、戦争末期には、同製作所では約2万5000人から約4万人の女性が働いていたということになろうか。
なぜこれほど多数の女性が戦闘機づくりに動員されたのか。それは、戦争の長期化と激化により軍需工場で働いていた男性が徴兵され、労働力不足が深刻化したためだ。そこで、政府は、国家総動員法(1938年)、国民勤労報国協力令(1941年)、閣議決定・女子勤労動員ノ促進に関スル件(1943年)などによって未婚の女性を労働力として軍需工場に動員したのだった。
閣議決定・女子勤労動員ノ促進に関スル件は、14歳以上の未婚女性に女子勤労挺身隊の結成を促したものだったが、1944年の女子挺身勤労令で対象者は12~40歳未満の未婚者にまで拡大され、動員期間も1年となった(その後2年に延長)。まさに「43年以降、政府はそれこそ矢継ぎ早に数々の動員策を打ち出し、『1人の不労者、有閑者なき』までに未婚女性の根こそぎ動員を図った」(長田さん)のだった。
長田さんによれば、1944年第1四半期に限ってみると、報国隊として動員され女性は全国で約9万7000人、挺身隊として動員された女性は約36万5000人であった。配属先は航空機、機械、軍作業所の3部門に集中していた。
さて、武蔵製作所に動員された女性たちの労働環境はどんなものだったか。
動員された女性の中には女学校の生徒もいた。分かっているだけでも東京近辺を中心に24校にのぼる。1944年4月からは高学年順に次々と動員され、戦争末期には2年生(14歳)までも動員された。印象的なのは次のような記述だ。「遠く鹿児島や四国、島根などから、国民学校(小学校)を卒業したばかりの何百人もの少女たちが動員されて来ていたという記録がある」
彼女たちは製図工、写図工、機械工、旋盤工、塗装工、仕上工、事務、タイピストなどとして働いたが、原則として8時間3交代制だった。生産に従事する者には深夜業があり、眠気覚ましのために覚醒剤のヒロポンが配られた。休日は月に2日。
コンクリートの床の上での立ちっぱなしの仕事もあり、冬期にはかなり冷え込み、身体の不調を引き起こした人もいたようだ。「下がたたきだから寒くて機械にぺたっと手がくっついてしまう。私の足が痛いのは、どうもそのときの神経痛じゃないかと思うんです」「私はひどい神経痛になり、モルヒネとか灸で激痛をおさえていた」といった証言がある。
彼女たちの住まいは女子寮だったが、そこでの生活を経験した人は「寮のふとんにはノミやシラミがいっぱいいた。半夜勤や夜勤のときは、こんなふとんでも、みんな一緒にくるまって寝た。家に帰って着替えると、縫い目にそってシラミが行列していて仰天した」と証言している。
長田さんによれば、彼女たちのうち多くの者は、動員されることに疑問や抵抗を感ずることはなかったようで、むしろ、誇りと喜びさえ感じつつその中に飛び込んで行った。彼女たちは、今、当時を回想して、こう語る。
「授業料を払って労働にあけくれ、卒業証書をもらったからといって、学力がみにつくはずはない。かくて今にいたるまで『勉強したかった』の思いが心に深く残っている。それがこの世代に共通した特質といえる」
「私たちは学校で勉強することができなかったから、学力がなくていまだに劣等感に悩まされている。勉強に対する飢餓感を持ち続けている」
「私たちは、15年戦争遂行のため、国策にそって改悪された文教政策の最大の被害者として、大きな時代の激動する波に翻弄された学年であった」
「人は所詮、時代を超えては生きられないとはいえ、あの頃を思い出すと、あまりにも愚かであった自分を恥じるばかりです」
長田さんの調査・報告は次のような記述で締めくくられている。
「今、私たちは戦争体験者のこれらの言葉を真剣に受けとめなくてはならないだろう。昨今、またもナショナリズム的な動きが出てきている。だがひとたび、ナショナリズムが暴走すれば、どういうことが起こりうるか、彼女たちの体験や述懐を通して知ることが出来ると思う。同時に、私たちはともすれば、戦争による被害ばかりに眼を向けがちだが、それ以上に、戦争へと至った経緯や原因、国家の本質などについて考える必要があるのではないか。そして、再び同じ轍を踏まないように心しなければならない」
一方、梁裕河さんの「ノート・中島飛行機と朝鮮人」は、武蔵製作所で少なくとも200人の朝鮮人が労働していたこと、朝鮮人たちは監視下に置かれ、仕事の手を休めると殴られるなどの制裁を受けたことなどを明らかにしている。
『武蔵野市女性史 あのころ そのとき―国策に絡め捕られて―』 はA4判、101ページ。頒価1000円(送料込み)。申し込みは梁裕河さん(yang@abox8.so-net.ne.jp)へ。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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