戦時下の朝鮮人連行現場の実態が明らかに [書評]野添憲治編著『秋田県の朝鮮人強制連行――52カ所の現場・写真・地図――』

[書評]野添憲治編著『秋田県の朝鮮人強制連行――52カ所の現場・写真・地図――』(秋田県朝鮮人強制連行真相調査団、¥600円+税)

秋田県に「秋田県朝鮮人強制連行真相調査団」という民間団体がある。労働現場で労働者が不足した戦時中に朝鮮から秋田県に連れてこられ、鉱山やダム・トンネル工事などで働かせられた朝鮮人の実態を明らかにするために1995年に発足した団体で、会員は約80人。調査団が20年かけて追跡したその実態を、関係者の証言や写真、地図で明らかにしたのが本書で、調査団の代表委員・事務局長の野添憲治さん(著述業)が編著者を務めた。

日本が朝鮮を併合したのは1910年である。
本書によると、日本は、中国への侵略戦争が泥沼化すると、戦争に必要な物資や労働力などを全面的に総動員するため、国のすべての人的及び資源を統制運用するための包括的基本法である国家総動員法を1938年4月に公布した。そして、翌1939年に閣議決定した「労務動員計画」で朝鮮からの動員数も決まり、7月4日に閣議決定した「国民徴用令」により大々的に動員が始まった。日本の行政機構が動員の役割を担い、その手法も年代につれて「募集」「官斡旋」「徴用」と変わった。
本書によると、1945年の日本の敗戦までにどれだけの朝鮮人が連れてこられたのかは、政府が本格的な調査をしていないので、今なお分かっていない。多くの学者や研究者が多様な角度から調査研究しているが、総数は約70万人から約120万人と推定されているという。

朝鮮半島から日本に動員された人たちは、全国各地に分散させられた。鉱山が多かった秋田県にも多くの朝鮮人が送られてきた。が、その正確な数も労働と生活の実態も闇の中だったため、有志が秋田県朝鮮人強制連行真相調査団を結成して調査を始めたわけだが、調査は難航を極めた。敗戦からすでに50年も経っていたから、当時のことを語れる関係者(朝鮮人・日本人)は少なく、また、鉱山などの労働現場の多くは草木が茂ったり、埋もれたりの廃墟になっていたからだ。
さらに、「証言を基に現場を歩き、その裏付けを得ようと公文書や記録探しもしたが、あまり残っていなかった。県史をはじめ、市町村史にも朝鮮人連行のことは殆ど書かれていない」状況だったという。

でも、調査団は、これまでに、朝鮮人が働いていた事業所が秋田県内に77カ所あったこと、人数にして約1万4000人いたことを突き止めた。
本書には、このうちの52カ所が写真、地図つきで紹介されている。内訳は鉱山17、炭鉱、トンネル工事、ダム工事、発電所工事、道路工事各3、堤防工事、造船所各2、土木工事、導水工事、水路工事、貯木場工事、溜池工事、護岸工事、埋め立て工事、発電用鉄塔工事、石段積み、精錬所、製鉄工場、鉄工所、港湾荷役、石切場、開墾、農耕各1となっている。

各事業所ごとに、そこで働いていた朝鮮人の作業環境、作業内容、生活ぶりなどが、文献、当時の関係者の証言、調査団による現地調査などを基に紹介されている。そこから、いくつかを拾うと—–
◆十和田湖への導水工事(鹿角市)で=働いた朝鮮人は約200~300人で、戦時中の突貫工事なので1日10時間以上も働かせたうえに、食糧は不足した。仕事が終わると山に入り、草を生のまま食べている人が多かったが、監督たちはそれを見つけると棒で叩く人と、見ても見ぬふりをする人がいた。
◆発盛製錬所(八峰町)で=朝鮮人は海岸近くの長屋に寝泊まりし、他山から運んできた鉱石を貨車から降ろしたり、トロッコで工場に運ぶ重労働をした。「制裁を加えると言って、監督がよく朝鮮人を殴っていた」(証言者の話)という。朝鮮人は骨と皮ばかりに痩せていたというから、食糧は十分でなかったらしい。……死亡者がでると地元の施設で焼くのを拒んだので、製錬所では新しくレンガで焼き場をつくった。逃亡者が41人と多く、海に向かい「アイゴー」と泣いていた。
◆不老倉鉱山(鹿角市)で=朝鮮人たちの仕事は、鉱石を運ぶ道路づくりであった。春から秋までかけてはいいが、真冬でもトラックが走れるように除雪する作業が大変だった。「白いズボンに素足に草鞋をはき、背に雪よけのムシロをあてて除雪する姿は見ていられなかった」との証言も。辛い作業をのがれるため、不老倉鉱山から31人が逃亡している。
◆吉乃鉱山(横手市)で=吉乃鉱山にどれだけの朝鮮人が連行されてきたのかは不明だが、旧厚生省の調査では徴用166人となっている。鉱山に連行されてきた時の様子を、(日本人の△△△△は「腰縄で数珠つなぎにされ、自転車に乗った日本人の棒頭に追い立てられてきた」と証言する。宿舎はバラック造りだったという。
作業は鉱滓ダム工事や坑内労働だったが、「ダム工事現場では、相当数の朝鮮人がいたが酷使され、特に土砂崩れで死亡した人も少なくない、発破による山を崩す作業で、生き埋めになった人もいた」と日本人の▽▽▽▽は覚え書きをしている。
鉱山から約1キロ離れた所に上吉野集落があり、近くに共同墓地がある。その墓地の隣に朝鮮人を埋めた土地があり、先祖から代々墓地管理人をしてきた○○○○は、朝鮮人の埋葬に立ち合ったことがあり、「すき間のある粗末な棺を、荒縄で縛って無造作に埋めていた。遺体は裸でした」と証言している。死亡者は40人とも70人ともいわれ、出身地も名前もわかっていない。

ところで、すべての事業所が、朝鮮人にとって過酷な労働現場ではなかったようだ。わずかだが、例えば、由利本荘市にあった弥平沢鉱山に関する記述には「(朝鮮人の)仕事は坑内から鉱石を運び出すことで、それには芝で編んだ箕を使っていた」「朝鮮人飯場の飯炊きをした人は『朝鮮人は見ただけでは日本人とそっくりでした。朝鮮人は坑夫とか雑夫で、日本人と一緒に働いていましたが、背丈は日本人より大きいです。わたしたちに何か言うのですが、何をしゃべっているかわからず、困りました』と言っていた」とある。
また、湯沢市にあった院内鉱山に関する記述にも、「朝鮮人は殆ど坑夫で、鑿岩機を上手に使う人が多く、日本人と一緒に働いた」とある。

本書の末尾で、野添さんは書く。
「各地へ調査に行くと、『朝鮮人の強制連行はなかった。勝手に日本へ働きに来たのだ』と主張する人たちが結構いるのには驚いた。強制連行が政府の方針で実施されたことを知らないのだ」
「閣議決定を径て連行してきた後始末もしない日本は、朝鮮半島の人たちからきびしく批判されても当然だろう。自分たちが犯した過去の過ちをきちんと精算し、再び信頼関係を築いて次の世代に渡していく責任がわたくしたちにはある。それなのに、『強制連行はなかった』と言われると、日本人であることがはずかしくなる」
「『強制連行はなかった』と考えている人たちに、記録という『事実』で示すことができた」

ここに収録されている事実はどれも極めて重く、読者を打ちのめす。これらは、日本人として真摯に受け止めねば、と私は思う。

秋田県朝鮮人強制連行真相調査団は〒016-0864 秋田県能代市鳥小屋59-12 電話0185-52-7550

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