東日本大震災から2年を経た3月11日、大手紙社説はどう論じたか。目を引いたのは、東京新聞社説で、次の書き出しから始まっている。「風化が始まったというのだろうか。政府は時計の針を逆回りさせたいらしい。二度目の春。私たちは持続可能な未来へ向けて、新しい一歩を刻みたい」と。
キーワードは「持続可能な未来」である。地球環境保全のための「持続可能な発展」も広く知られているが、ここでの「持続可能な未来」は、脱原発をめざす合い言葉となっている。ところが安倍政権の原発容認路線は目先の利害に囚われて、「持続可能な未来」に背を向けている。(2013年3月11日掲載)
大手紙社説は東日本大震災から2年の2013年3月11日、どう論じたか。大手5紙の社説の見出しは以下の通り。
*朝日新聞社説=原発、福島、日本 もう一度、共有しよう
*毎日新聞社説=震災から2年 原発と社会 事故が再出発の起点だ
*讀賣新聞社説=再建を誓う日 政府主導で復興を加速させよ 安心して生活できる地域再生を
*日本経済新聞=東日本大震災2年㊦ 福島の再生へ現実的な行程表を
なお日経社説は前日の3月10日付で「東日本大震災2年㊤ 民間の力を使い本格復興へ弾みを」と題して論じている。
*東京新聞社説=3.11から2年 後退は許されない
以下、5紙社説の大意を紹介し、<安原の感想>を述べる。
▽ 朝日新聞社説
東京電力福島第一原発で、いま線量計をつけて働く作業員は一日約3500人。6割以上が地元福島県の人たちだという。「フクシマ3500」の努力があって、私たちは日常の生活を送っている。
事故直後は、「恐怖」という形で国民が思いを共有した。2年経ち、私たちは日常が戻ってきたように思っている。だが、実際には、まだ何も解決していない。私たちが「忘れられる」のは、今なお続く危機と痛みと不安を「フクシマ」に閉じ込めてしまったからにすぎない。福島との回路をもう一度取り戻そう。
原発付近一帯を保存し、「観光地化」計画を打ち上げることで福島を語り継ぐ場をつくろうという動きも出ている。いずれも、現実を「見える化」して、シェア(共有)の輪を広げようという試みだ。
<安原の感想> 福島との回路をもう一度
<私たちが「忘れられる」のは、今なお続く危機と痛みと不安を「フクシマ」に閉じ込めてしまったからにすぎない>という上述の指摘は、さり気ないが、重い。だからこそ<福島との回路をもう一度取り戻そう>という呼びかけは重要である。
日常生活の場を捨てざるを得ない直接の被災者たちと、私(安原)のような東京に住む間接の被災者との間には生活感覚として同一とはいえない。しかしシェア(共有)の輪を広げようという試みは重要であるし、私自身、その感覚は共有できるのではないかと感じている。
▽ 毎日新聞社説
高レベル放射性廃棄物は、地下数百メートルの安定した地層に埋める考えだ。しかし、放射能が十分に下がるまでの数万年間、地層の安定が保たれるかは分からない。原子力発電環境整備機構が最終処分地を公募しているが、応じた自治体はない。
その結果、全国の原発には行き場のない使用済み核燃料がたまり続けている。未来にこれ以上「核のごみ」というツケを回さないためにも、できるだけ速やかな「脱原発依存」を目指すべきだ。
ところが、安倍政権は原子力・エネルギー政策を3.11以前に戻そうとしているかのようだ。象徴的なのが原発にまつわる審議会の人選だ。
<安原の感想> 遠ざけられる脱原発派
末尾の「原発にまつわる審議会の人選だ」は次のことを指している。
経済産業相の諮問機関、総合資源エネルギー調査会総合部会(原発を含む中長期のエネルギー政策を審議する)では民主党政権時代、24人の委員のうち7人が脱原発派だった。しかし安倍政権下では15人の委員に絞られ、脱原発派は2人に減らされ、原発立地県の知事も新たに加わった。安倍政権下では脱原発派は遠ざけられているのだ。
脱原発派の排除は権力の傲慢さの表れである。政権に限らず、企業など他の組織も同じで、重要人事をみれば、そのトップの器量の度合い、傲慢度を推察できる。
▽讀賣新聞社説
東日本大震災から2年を迎えた。国民みんなで改めて犠牲者の冥福を祈りたい。再起に向けた歩みは遅れている。政府が主導し、復興を加速しなければならない。被災者たちは津波の再来に不安を覚えながら、仮設住宅から水産加工場などに通う。
「収入と安全安心をどう両立させればいいか」。石巻でよく聞かれる言葉は切実だ。復興策が議会や住民の反発を招き、辞職した町長もいる。それぞれの自治体と住民がジレンマに苦しみながら、「街の再生」を模索した2年だったと言えよう。
被災地のプレハブの仮設住宅には、今も約11万人が暮らす。不自由な生活にストレスや不安を訴える住民が増えていることが懸念される。安定した生活が送れる新住居に早く移れるよう、自治体は復興住宅の建設を急ぐべきだ。
<安原の感想> 軍事費の一部を被災者へ
データを補足しておきたい。避難生活を送る被災者は31万5000人を下らない。うち約16万人が、東京電力福島第一原子力発電所の事故が起きた福島県の避難者である。
避難生活を余儀なくされている人々は31万人を超える、という数字を一見しただけでいかに多くの人々が無惨な日常生活を今なお強いられているかが分かる。いうまでもなく、これは決して自己責任とはいえない。善良な犠牲者である。
軍事など右傾化路線推進に熱心な安倍政権に注文したい。軍事費の一部を被災者へ再配分してはどうか。それが「民」へ心寄せる政治家の心得ではないか。
▽ 日本経済新聞社説
安倍政権ができて2カ月以上たつのに、民主党政権が決めた廃炉や除染の工程表はそのままだ。政府は現実を踏まえて工程表を作り直し、被災者が希望を持てるように、生活再建や地域再生を含めた大きな見取り図を示すときだ。
前政権が「原発敷地内で事故は収束した」と宣言してから1年3カ月。福島原発の状況に大きな進展はなく、むしろ廃炉への道のりの険しさを浮き彫りにした。
廃炉は40年間に及ぶ長期戦になり、炉の冷却が不要になる時期も見通せない。それだけに、2~3年先に達成可能な目標が要る。それがないと、避難を強いられた住民は将来への不安を拭えない。被曝(ひばく)と闘いながら懸命に働く3千人の原発作業員の士気を保つためにも、政府と東電は新たな目標を示すべきだ。
<安原の感想> いのちへの無責任な犯罪
上述の末尾の「政府と東電は新たな目標を示すべきだ」という指摘は、願望としては分かるが、現実に可能なことなのだろうか。日経社説自体が「廃炉は40年間に及ぶ長期戦になり、炉の冷却が不要になる時期も見通せない」と指摘しているではないか。
原発に関する限り、あれこれ恣意的な願望を述べることにどれほどの実質的な意味があるだろうか。原発には身勝手な恣意を受け付けない悪魔性が潜んでいる。それを軽視して、目先の算盤勘定で原発推進を唱導するのは、人類とそのいのちに対する無責任な犯罪とはいえないか。
▽ 東京新聞社説
デンマーク南部のロラン島を訪れた。沖縄本島とほぼ同じ広さ、人口六万五千人の風の島では、至る所で個人所有の風車が回り、「エネルギー自給率500%の島」とも呼ばれている。デンマークは原発をやめて、自然エネルギーを選んだ国である。ロラン島では、かつて栄えた造船業が衰退したあと、前世紀の末、造船所の跡地に風力発電機のブレード(羽根)を造る工場を誘致したのが転機になった。当時市の職員として新産業の育成に奔走した現市議のレオ・クリステンセンさんは「ひとつの時代が終わり、新しい時代への一歩を踏み出した」と振り返る。
二度目の春、福島や東北だけでなく、私たちみんなが持続可能な未来に向けて、もう一歩、踏み出そう。そのためにも福島の今を正視し、決して忘れないでいよう。
<安原の感想>「持続可能な未来」という希望
結びの「福島の今を正視し、忘れないでいよう」という呼びかけに双手を挙げて賛同したい。何のためにか。いうまでもなく「私たちみんなが持続可能な未来に向けて踏み出す」ためにほかならない。単なる進軍マーチ程度の呼びかけと受け止めるわけにはゆかない。「持続可能な未来」という希望をただの夢想に終わらせないで、地球と人類といのちのためにどこまでも大切にしたい。
そのモデルの一つがデンマークという小国であるところも新しい時代の息吹を感じさせる。もはや軍事力を振り回す大国の時代ではない。いのちと希望を育む小国時代の到来といえよう。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(13年3月11日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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