みなさまへ 松元
弁護士の河内謙作さんが伊方原発訴訟の最高裁判決から、挙証責任(立証責任)は訴えた民衆側にあるという「裁判所の論理」を説明し紹介されていますが(下記)、この論理に対して、吉田魯参さんがとんでもないと反論されています。
こうした裁判所の「本末転倒」の論理が、いたるところで日本の政治と民主主義を骨抜きにし堕落させています。罷免ではなく刑務所行きでは…。(松元)
=====吉田さんの反論=====
これは非科学的・非合理的な見解です。150億年の宇宙の自然の歴史の中に全く新奇で人工的な核分裂という人間が制御できない危険を持ち込んだ・新規開始したのですから、「危険でない 。安全である」事の立証責任・証明責任・挙証責任はこ
れを持ち込んだ・新規開始したものの具体的な政策決定・続行者(国家・国民とは別)・企業家・一部学者などにあります。そのような大所高所から判断できない裁判官・官僚(公僕)は資格無しとして主権者国民が罷免すべきです。
吉田魯参
=====河内さんの紹介文=====
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裁判官会同(続)
私たちは、「IK原発重要情報(73)」で、1月28日付『朝日新聞』を引用する形で、最高裁判所が、原発訴訟の審理につき、裁判官の研究会(裁判官会同(かいどう))を開催したことをお知らせし、これは非常に警戒すべきだということを訴えさせていただきました。
これに対し、今度の原発事故は裁判官にも衝撃を与えているはずであるから、私たちの考えは考えすぎだ、という見解も表明されました。しかし、裁判官に衝撃を与えているとは思いますが、その衝撃が従来の裁判所の見解を覆すにいたっていると考えるのは、あまりにも甘すぎるといわざるを得ません(私たちの知っている限りでは、裁判官会同で問題になったような大型事件(原発訴訟を含む)で、裁判官会同の論理を克服し、最高裁までいって勝利した例はゼロです)。もちろん、私たちは、私たちの運動と世論の力によって裁判官を変える可能性があることを否定はしません。しかし、それは非常に厳しい道であることを私たちは覚悟しなければならないと思います。(従来の裁判官会同がどのように威力を発揮していたかについては、新潟日報の以下の記事を参照してください。)
http://www.niigata-nippo.co.jp/jyusyou/report/07_05.html
私たちの見解に対し、私たちの見解をもっと説明してほしい、
という意見も寄せられました。私たちが、今回の原発訴訟の今後の進展について警告を発した根拠は、①最高裁判所は、良心的、中立的な判決を出すとは限らないこと、国の進路や労働事件・公害事件などの重大事件については、従来、大企業より、行政よりの判決を出してきたこと、②原発訴訟については、最高裁レベルで住民側が勝利した例が一例もないこと、③裁判官会同などは最高裁の下級裁判官統制の一手段になっており、その結果、裁判所は最高裁を頂点にした一種の官僚機構・ヒエラルキーになっていること(守屋克彦『日本国憲法と裁判官』日本評論社、には、最高裁の意に反する裁判官に公安調査庁が尾行をしたことがあるというショッキングな事実が記載されています)、④今回の裁判官会同で、伊方原発訴訟最高裁判決を今後の原発訴訟の審理の指針にすることを事実上(!)決めたことにより、これに反する判決を出すことがきわめて困難になること、です。
そこで、法曹関係者以外の人に分かりにくい、上記④について更に説明してみることにします。やや専門的な話になって恐縮です。
原発訴訟・判決についての最高裁の従来の論理には、いろいろな問題点がありますが、その最大の問題は、原発の設置の取り消しなどを争う行政事件においても、運転の差し止めを求める民事事件においても、原発が危険でないという立証責任を原発設置企業や国に負わせず、逆に原発が危険だという立証責任を住民側に負わせた点にあります。
ここで立証責任という言葉を理解していただく必要があります。
立証責任(挙証責任、証明責任とも言います)とは、「裁判をするにあたって裁判所又は裁判官がある事実の有無につき確信を抱けない場合(真偽不明、non liquet)、そ
の有無を前提とする法律効果の発生ないし不発生が認められることにより被る、当事者一方の不利益のことをいう」(Wikipedia)とされています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%BC%E6%98%8E%E8%B2%AC%E4%BB%BB
やや分かりにくいと思いますが、具体例で考えると分かります。たとえば、AとBの間でXという事実があるかないかが争われているとします。AはXという事実があると言い、BはXという事実が無いといって争っているとします。裁判では、AもBも、おそらく証拠を出して争うでしょう。しかし、AもBも、その証明には完全に成功しなかったとします。判決はどうなるのでしょうか。素人の人は、裁判官はAを勝たせるか、Bを勝たせるか、直感で判決を出す、と考えますが、そうではありません(裁判では直感が一切働かないか、という難しい問題は、ここでは棚上げにします。圧倒的多数の裁判官はイデオロギーでも判断しません )。立証責任によって判断するのです。AにXという事実があることの立証責任があるとすれば、Aに立証責任があるにもかかわらず、Aの立証は成功しなかったのですから、Aの敗訴になります。裁判と言うのは、最終的には、当事者のどちらが正しいかの判断ですが、それに至る過程は、非常にたくさんの事実の争いの積み重ねですから、立証責任がどちらにあるかが非常に重要な問題になるのです。ある場合には、それだけで訴訟の行方が決まることもあるのです。原発訴訟についての最高裁の現在の見解は、伊方原発訴訟の最高裁判決だといわれており、今回の裁判官会同でもそれを確認しています。伊方訴訟最高裁判決は次のように言います(最高裁平成4年10月29日・民集46巻7号1174頁)。要点を抜粋します。裁判所の審理、判断は「被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという点から行われるべきであって」、その「主張、立証責任は、本来原告[住民側]が負うべきもの」である。「被告行政庁の側において、まず、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議において用いられた具体的審査基準ならびに調査審議の判断の過程等、被告行政庁の判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることが事実上推認される。」後段の文章を読むと、行政庁が敗訴となるケースもあるかのような表現になっていますが、「まず」という言葉に注目してください。文字通り、「まず」なのです。「まず」といわれた国の方の立証は簡単にパスされ(立証することは簡単なのです)、住民側に苛酷な立証が求められるのです。それは、住民の側に偏見を持たなくても、論理上、「本来原告[住民側]が負うべき」だから当然だと言うわけです。その結果、住民のおかれた状態から考えて(通常、住民には原発の中は分からないし、それを調べる時間も金もありません)、住民が立証に成功することは極めて困難です。したがって、伊方判決の論理は、住民敗訴の方程式になるのです。伊方訴訟最高裁判決が出る以前は、裁判所は必ずしも上記のような論理に従っていた訳ではありません。このことを知ることによって、上記最高裁の論理が法律解釈の誤った一例に過ぎないことが一層明瞭になると思います。 たとえば、伊方原発1号炉設置許可取消請求訴訟で、松山地裁は昭和53年4月25日に以下のように判決しています(『判例時報』891号38頁)。被告[国]が安全審査資料をすべて保持していること、多数の専門家を擁していることから、「当該原子炉が安全であると判断したことに相当性があることは、原則として被告の立証すべき事項である」 福島第2原発1号炉設置許可処分取消請求訴訟で、福島地裁は昭和59年7月23日に以下のように判決しています(『判例時報』1124号34頁)司法判断の対象となる内閣総理大臣の「合理性の立証は被告[国]が負担すべきであると解するのが公平であり、条理上も妥当である」伊方原発訴訟最高裁判決が出された後も、志賀原発2号機運転差し止め訴訟一審判決(有名な井戸判決です)は、平成18年3月24日、以下のような論理で最高裁に抵抗しました(高裁、最高裁段階で逆転されたことは周知のとおりです)。「原告[住民]が、[まず、原発の運転によって]具体的危険があることを立証しなければならない。そして、原告がそのことを相当程度立証すれば、被告[電力会社]において、なお安全であることを立証しなければ、[裁判所は]具体的危険があることを推認する[ことになる]。」「本件においては、[原告が]想定を超えた地震動によって過酷事故があることを相当程度立証した。[そして]これに対する被告の反証は成功していない。[したがって被告の敗訴は免れない]」以上のとおり、最高裁の採用している伊方原発の論理は、地域住民の原発訴訟にかける思いを反映した下級裁判所の論理を排除・否定することによって確立したものです。また、その論理は、一見中立的な法解釈の形をとっていますが、実質は、原発企業擁護、国の立場擁護の反民衆的な論理にほかなりません。更に、何よりも最高裁判所をはじめとする日本の裁判所が「原子力村」の一員であったことは、今日では、事実により明らかになっているとおりです。したがって、伊方原発の論理を克服することは、けっして絶望的ではないと思います。しかし、そのためには原発訴訟に取り組んでいるものの覚悟と知恵を寄せ合った新たな実践・闘いが求められていると思います。また、原発訴訟に取り組んでいない人々との関係をどうつくりあげていくのかという点での新たな実践・闘いが求められていると思います。私たちは、裁判官会同の論理をどう克服していくかにつき、全国的な広範な討論が一日も早く始まるよう、心から期待しています。――――――――――――――――――――――――――――
以上