東京・夢の島の一角に立つ「都立第五福竜丸展示館」を久しぶりに訪れた。毎年、「ビキニ・デー」の3月1日が近づくと、この展示館を訪ねてみようかという気持ちになるが、今年は、ここに展示されている船・第五福竜丸が建造から70年になるところから、それを記念する特別展が開かれていると聞き、訪れた。ここは訪れる度に私に強い印象を残すが、今回も改めてさまざまなことを考えさせられた。
第五福竜丸は140・86トン、全長28・56メートル、幅5・9メートルの木造船である。敗戦直後の1947年、和歌山県の古座町(現串本町)でカツオ船として建造された。当時の船名は「第七事代丸」といい、神奈川県三崎港を母港にカツオ漁に従事した。その後、マグロ船に改造され、船名も「第五福竜丸」となり、静岡県焼津港を母港に遠洋マグロ漁に従事する。
ところが、1954年3月1日、太平洋で操業中、マーシャル諸島のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で生じた放射性降下物の「死の灰」を浴び、乗組員23人が急性放射能症になり、無線長の久保山愛吉さんが死亡する。水爆による初めての犠牲者だった。実験場周辺の島々の住民たちも「死の灰」を浴び、同様の被害を受けた。これが、ビキニ被災事件である。
この事件をきっかけに全国的な規模の原水爆禁止運動が起こり、世界に波及する。1955年にはバートランド・ラッセル(哲学者)、アルバート・アインシュタイン(物理学者)、湯川秀樹(物理学者)ら世界的に著名な学者11人により「将来の戦争は必ず核兵器が用いられるから、各国間の紛争の解決は平和的手段によってなされるべき」との「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出され、これを受けて1957年には、核軍縮を目指す科学者の国際的集まり「パグウオッシュ会議」が発足する。
原水禁運動団体はこの事件を忘れまいと「3月1日」を「ビキニ・デー」と名付け、毎年、この日前後に記念の集会を開き「核兵器禁止」を訴え続けてきた。この催しは今も続いている。
“ビキニ被災事件の証人”となった福竜丸はその後、政府に買い上げられ、東京水産大学(現東京海洋大学)の練習船となるが、老朽化のため廃船処分となり、東京のゴミ捨て場だった夢の島に放置されていた。1968年、みじめな姿に変わり果てた福竜丸に心を動かされた一会社員の船体保存を訴える投書が朝日新聞の投書欄に載ったことがきっかけで、原水禁運動団体などが中心となった保存運動が起こり、1976年6月、公園に生まれ変わった夢の島に都立第五福竜丸展示館が完成する。船体を所有していた財団法人第五福竜丸保存平和協会(現在の公益財団法人第五福竜丸平和協会の前身)が船体を東京都(当時の知事は美濃部亮吉氏)に寄付し、都が展示館を建設して永久保存を図るという形で決着をみたわけである。展示館の管理は平和協会に委ねられた。
今回の特別展は「この船を知ろう 第五福竜丸建造70年の航跡」と題され、福竜丸の船体わきで行われている。カツオ船、マグロ船、練習船それぞれの時代に関連する資料や船の図面、写真などが展示されており、これらを見て行くと、この小さな木造船がたどった数奇な運命に改めて驚かざるをえない。
第五福竜丸平和協会によれば、木造船の耐用年数は15年から20年という。であれば、70年前に建造された木造船がいまだに現存していること自体、世界的にも極めて珍しいことと言ってよい。
そのことだけでも、この船がもつ歴史的意義は大きいが、そのことに加え、この船の航跡もまた歴史的意義をもつと私は考える。なぜなら、この船が第2次世界大戦後の日本と世界の歴史を一身に背負ってきたように思えるからだ。
すなわち、大戦直後には、日本の食糧難を救うために太平洋でカツオ漁やマグロ漁に活躍し、その最中に、米ソによる核軍拡競争がもたらした米国の水爆実験に遭遇、ヒロシマ、ナガサキに次ぐ第3の核被害の当事者となる。その後も水産大学生の練習航海に貢献し、ついには、廃船処分となってゴミ捨て場に棄てられながら、世界的な規模にまで発展した「核兵器廃絶運動」のシンボルとして甦る。まさに、戦後史をたどる上で欠かせない貴重な証人なのである。
もし、ビキニ被災事件が闇から闇に葬られ、さらに夢の島でゴミになる寸前だった福竜丸に誰も気づかなかったとしたら、世界史は今とは変わったものになっていたに違いない。そう思うと、福竜丸が現存することの意義を痛感するとともに、ビキニ被災事件をスクープした読売新聞と、福竜丸の保存のために陰に陽に尽力した多くの人びとに改めて敬意を抱かずにはいられない。
特別展とともに常設展示も見ることができる。そこでは、ビキニ水爆実験の実相、それによってもたらされた被害の実態、マーシャル諸島では被ばく住民の苦しみがいまも続いていること、ビキニ被災事件を機に核兵器廃絶運動が高揚したにもかかわらず、世界では今もなお核の水平・垂直拡散が続く事実が紹介されている。それらに目を注いでいると、福竜丸が、この63年間、身をもって訴え続けてきたことはまだ実現していないという現実が胸に迫ってくる。福竜丸の存在意義は、今後ますます高まるのではないか。
特別展、常設展示を見ながら、私は第五福竜丸平和協会の初代会長を務めた三宅泰雄氏(地球化学者)が生前、好んで口にしていた言葉を思い出した。「福竜丸は人類の未来を啓示する」というものだった。ビキニ水爆の被災船・福竜丸の無言の姿こそ、人類が核兵器の存在をゆるして地球破滅の道に進むのか、それとも核兵器と戦争を廃絶して平和と幸福の世界を築きあげるかの選択を迫るものだ、という意味だろう。
私は、この言葉を心の中で反すうしながら展示館を後にした。
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特別展「この船を知ろう 第五福竜丸建造70年の航跡」は3月26日まで開かれている。
入館無料。開館9:30~16:00。月曜休館
東京メトロ有楽町線、JR京葉線、りんかい線、「新木場駅」下車
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